493−2.得丸コラム



                   得丸久文
3月31日の年度末の土曜日だというのに富山で日本海についてのシン
ポジウムがあるため、午後一番の飛行機で東京ー富山を移動した。

雨の中、10時過ぎに自宅を出て、バスで自由が丘へ。普段は大井町線
で大井町に出て、バスで羽田に向うのだが、今日はなんとなく多摩川
駅から蒲田線にのって蒲田経由にする。京急蒲田駅まで7、8分歩こう
かなとも思ったが、雨だからバスを試してみようと思って、蒲田駅東
口のバス停に向う。

折から羽田空港行きのバスに乗客が乗り込んでいたので、京急蒲田で
はなく、羽田空港までのバス賃を払う。よっぽど渋滞していない限り、
飛行機の時間には間に合うだろうと思って。

バスの奥の席に向うと「あれ、得丸!?」と声がかかる。鷹揚の会で
いっしょに幹事役をしているM氏が、一家四人で乗り込んでいたのだ。
春休みだから、子供たちだけ長崎のおじいちゃんの家に遊びにいくの
を空港に見送りにいくところだという。
しばらく世間話をしてから、、、、

* 反形而上学的アプローチ
「最近、『言葉の意味づけ論』なんて読んでるんだけど、人間が意味
づけを行う場合、言葉の指し示す対象や言葉の内容よりも、話者の表
情や態度や感情や意味から推定するみたいなんだ。だからMLの議論は
深まらないのかな、、、」と僕は日頃から感じているMLについての悩
みを打ち明ける。

空港まで30分ちょっとだったが、日頃から話しておきたかった読書会
の運営についてもちょっとだけだが話をすることができた。

「最近は、ちょっと毒がないのかもしれないね。以前は鈴木さんが、
『この本はちっとも面白くなかった』なんてズバッと言ってくれてた
りしたけど、最近はそれがない」

「ウィットゲンシュタインの言う『語りうるもの、語り得ないもの』
の語りうるものについては、できるだけ言葉にしてみよう。形而上学
のように語り得ないものについては、ちょっと難しいだろうけど、、」

「ちょっと待って。形而上学っていうけど、meta-physicsなんてそ
もそもおかしいんじゃないかな。meta-chimicsとか、meta-biology
なんてないよね。形而上学というのは、アリストテレスがそもそもどう
いう意味で使ったかは別として、キリスト教神学によって不在の神の
ことをごまかすために使われているんじゃないかな。

だから、形而上学は、ものごとを明らかにするためではなく、ごまかす
ための学問じゃないかな。うやむやにして、神の非存在を悟られないよ
うにするために存在しているんじゃないかな。

そのような西洋形而上学・哲学の伝統を、ある意味そのまま受け継いで
いるから、日本の哲学者の言っていることも意味不明なものが多いのだ
ろうか、、、」

「そうだね。それは確かにあるね。だから僕たちは、そのような哲学の
伝統から距離を置かなければならない。

できるかぎりわかりやすい、身につまされる言葉を探し当てながら、言
葉を発していく。何通りも、何十通りも、そのような言葉を紡いでいく
うちに、いつか語り得ない何かが浮き彫りになるのかもしれない。その
ために読書会をしているのだろうね」


* 毎日デイリーニュースの廃刊

飛行機に乗り込むときに、新聞入れから英文毎日新聞Mainichi Daily
Newsを取る。一面に "Sayonara, see you on the net"という見出し
が出ていたことは目の片隅に残っていたが、それが何を意味するのか
記事本文を読むまでには至らなかった。

飛ばし読みというより、見出しを追って最後のページに目を移すと、右
下の広告がDaily Yomiuriの広告だ。「え、どうして英文毎日にデイリ
ー読売の広告が掲載されているの?」と不思議な気分になって、広告の
文章を丁寧によむ。これではまるで英文毎日が廃刊するかの書きぶりだ。

そんなこと本文には一言も書いてなかった、、、 待てよ、もしかする
と、一面に戻って、「サヨナラ」の記事を見る。おー、今日で廃刊なの
だ、、、 名残惜しいねえ。

毎日デイリーニュースは、独自の取材をいっさいしない。毎日本紙か、
外電の記事を寄せ集めて作っている安づくりな新聞だ。でも、拾ってく
る記事のバランスがよくて、ロンドン駐在時代の秘書も愛読していた。
海外で購読していた物好きは、僕くらいじゃないかな。少なくとも、パ
リやロンドンの毎日新聞の支局には英文毎日はなかった。

昭和天皇が崩御されたという記事を、一社だけフライングで報道したこ
ともあった。今思えば、他社は報道管制に従ったのが、英文毎日だけ報
道管制を担当する人間が不足しており、本当の崩御の日にそのまま記事
を流してしまったのではないかという気もする。愛着のある新聞である。

ジャック・アンダーソンのワシントンメリードーラウンドというコラム
や、ジーン・ディクソン女史(すでに故人)の霊感星占いのコーナーもよ
く読んだ。

読者の声に何回か記事を送って掲載してもらったこともある。名残惜し
い新聞だ。

これまで英文毎日に関わってこられたスタッフの皆様の御苦労をねぎら
いたい。洪水のように押し寄せる情報の中から、それなりに面白い記事
をスクリーニングして新聞に載せてくれたセンスと労力は、余人(紙)を
してかえがたかった。

http://www.mainichi.co.jp/english/info/notice/index.html

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心のBBSがどうしたわけか消えてしまった。何が原因なのか、さっぱり
わからない。プロバイダ側の故障なのか、ハッカーにでも狙われたのか。
いずれにしてもインターネットの世界がやはり当てにならないというこ
とがわかった。

今日は一日読書と料理。

ー1ー
安藤孝行(たかつら)「形而上学 その概念の批判的概念」(1962年、勁草
書房)は、図書館の書庫から借りてきて拾い読みした。まず確認できたの
は
(1) 日本語には「形而上学(metaphysics)」に対応する概念がないとい
うこと。つまり形而上学というのは、西洋にのみ存在する学問である。
(2)  アリストテレス本人は、meta-physics という言葉を使ってはいな
かった。

これだけを知って何になるのかと言われそうだが、やはり私は、形而上学
は、スコラ哲学が神の存在を証明するために利用した超物理学ではないか
という気がしている。

誰にこのことを確認したらいいのかわからないが、形而上学の専門家に伺
うことができれば、質問をぶつけてみたいと思った。

ー2ー
岡野守也さんの「唯識」に関する本を買ってハガキを送ったところ、参考
にと「サングラハ 52号」(2000年7月25日発行)を送っていただいた。
読んでみると、なかなか面白い記事があった。(サングラハ心理学研究所
251-0861藤沢市大庭5055-6-2-18-1831 岡野守也)

ひとつは筑摩叢書「カフカとの対話」(グスタフ・ヤノ−ホ著)の紹介記事。
著者が17才のときに、当時36才だったカフカに質問したときの言葉が本
にまとめられているのだそうだ。

もうひとつは、浄土宗のお坊さん藤本玲澄さんが書いておられる投稿記事
「コスモスに愛されている、ということ」。

藤本さんは、宗教団体に入信している友人が、修行をしなければ救われな
いといって他の友人知人を勧誘している姿に心を痛めた経験をお持ちです。
藤本さんは、宗教において修行は必要ないときっぱりと言います。

「本当にコスモス(神仏、一者)から愛されている者には苦行など必要ない。
では我々の中にコスモスに愛される人と愛されない人がいるのでしょうか。
そんな差別はありません。コスモスの愛と慈悲は、あまねく十万世界を包
んでいて、我々を救い取って見捨てたりしません。

「ただ必要なことは、私はコスモスから愛されているということに『気づ
く』ことです。、、、修行はどこかの山に籠ってするものではなく、人生
そのものが苦行だ、と感じることがままあります。我々は人生から与えら
れた課題に一つずつ具体的に答えてゆく、それ以外にどんな苦行がありま
しょう。また、どんな苦行をして自分を痛めつけたところで、この『愛さ
れていることへの気づき』がなければ、みんなインチキです。自力修行に
よって絶対他力に至るとは、なんとパラドックスに満ちたことでありまし
ょうか。

「このパラドックスは東洋独特のものであるようです。西洋のいわゆる
『求めよ、さえば与えられん』ではなく、『求めなくてもすでに与えられ
ていて、あらビックリ』の気づきではないでしょうか

月影の至らぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 法然 」

絶対他力の慈悲を知覚するのは、個人個人の心なのですよ、と結びます。
短いけれど、心にしみ入る文章でした。

ー3ー 
1986年にはじめてフランスの地を踏んだ時、パリでいくつか美術館を
回った。モネの睡蓮の壁画の展示してある美術館で監視員のおじさんに
「ルドンの絵はありますか」と聞いたところ、「オーディロン・ルドンか。
ルーブルの二階にパステルのコーナーがあるから、そこに行きなさい」と
言われ、見に行った。

大学のときに、たまたま新聞勧誘員にもらった券で、新宿の伊勢丹に行って
えらく感動した記憶が鮮明だったのだ。

それ以来、ルドンの展覧会はできるだけ観てきたつもりだったし、パリの
オルセー美術館に行くと、必ずルドンのコーナーには足を運んできた。
古本屋で見つけて粟津則雄著「オディロン・ルドン 神秘と象徴」(美術出
版社)も買って積んでおいた。だけど、なぜか読む気になれなかった。

先週の水曜日、銀座にある日本美術家聯盟を訪ねたときに、たまたま池辺
一郎「ルドン 夢の生涯」(読売新聞社、1977年)を見つけて、気になった
のでお借りして、今日読み上げた。なかなか面白かった。

ルドンは、お母さんがアメリカ生まれのクレオールだったのだが、奥さん
もレユニオン群島生まれのクレオールだったんだ。これは知らなかった。
パリのルドン家では、19世紀の末にカレー料理を客に出していたそうだ。

ルドンは、ロベルト・シューマンの音楽が好きだったという。「なぜなら
シューマンは、果樹が実をならすように、全く自然に彼の才能の結実を提
供した作曲家」だったからだという。

ルドン自身も、作品は作るものではなく、生まれるものだと思っていたら
しい。「意識の外で作者自身を驚かすような作用が働いて、すぐれた作品
が生まれる」と信じているそうだ。

それにしても、同じ画家を描いた本なのに、一方には心をひかれ、もう一
方はほったらかしにしてしまうのはどうしてだろうか。不思議だ。
(2001.04.01 得丸久文)


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