486−1.クレオール文化と世界文明の間の途方もない隔絶



                    得丸
1 クレオールの文化性
文化と文明について考える際に、ひとつの参考となるのがクレオ
ールの問題であろう。

クレオールとは、中南米におけるフランス植民地で用いられている
「なまったフランス語」、言語である。また、その土地で発達した
料理をクレオール料理という。たとえばモーリシャス(インド洋だ
が、ここもフランス植民地だった)の料理はクレオール料理だ。
カレー粉などのスパイスを多用した、暑い国で食べるにふさわしい
料理だ。

このクレオールがひとつの文化的アイデンティティーになっている
のか、文化性はどれくらい認められるのか、については、いろいろ
な議論が行われている。

言葉である以上、それは文化である。後天的に人の意識の上に獲得
されるものだから。

でも、それが文明であるかというと、疑問である。
ー 体系化が十分といえない。これがクレオールであるという要件
が不明確であり、所変われば品変わる、程度のものでしかない。
ー 文化のカバーする領域が狭い。言語と料理、あとは住宅などの
必要最低限の生活を行う上のものしか含んでいない。映画や音楽や
小説など文化エリートたちの作品はあるが、その広がりが十分では
ないように見える。

今福氏などのクレオールを「賛美」(?)しておられる方は、クレ
オールのもつごった煮的な性格を面白がっておられるようだ。たし
かに、脈絡なく各地の文化を並べる面白さはあるが、そこから何が
生まれるのだろうか。今福さんたちは、クレオールこそが21世紀
の世界文化であるとでもいいかねないが、私にはそうは思えない。

2 世界をクレオール化から救え
ただ、グローバル化が進む今日、世界がクレオール化していること
は否定できないのではないか。

つまり、クレオールという中南米のフランス植民地に生きる人間た
ちと同じように、我々はデラシネ(根っこなし)になろうとしてい
るのではないか。

文明を考える必要はここにある。

クレオール化して、個人個人が好き勝手に、できることを積み重ね
ていては、いつまでたっても文明は生まれない。そこには混沌ある
のみである。

だから日本のように、生活のあらゆる局面において文化があり、
それが稽古事や習い事といった文化継承のシステムのおかげで文明
を構築している社会に住む人間は、世界文明というものをイメイジ
しなければならないのである。

世界の人間が、等しく文化的に高い水準の生活を送ることができる
ように、文化継承のためのシステムを構築する責務を日本人は持って
いると思うのだ。

人間はクレオールのままでは、文明的ではない。世界文化というもの
を否定するつもりは毛頭ないが、世界文化は世界文明という培養器と
ともに存在しなければ、いつまでたっても深まらない、浅薄な状態の
ままであろう。

得丸久文

クレオールについての参考サイト
1)今福龍太さん
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/kak2/1211122.htm
世界料理宣言  世界料理の可能性  今福龍太
料理が無国籍化していくこと自体は基本的には刺激的なことだと思
います。あ る料理に何か新しい要素が入ってきて、それが国籍では
定義できないような変化を被っていく。

2)
http://www.cafecreole.net/corner/welcome.html
--このあいだ、面白い本を見つけた。昨年出た、Kwame Anthony Appiah
と Henry Louis Gates, Jr. 編の The dictionary of global culture
という700ページを超す 事典だ。
非西欧世界の文化的達成に特別の力点をおいた、来世紀に向けての
「世界文 化」の総目録といった感じだろうか。
--編者の二人は、ハーヴァード大学のアフロ・アメリカン研究をリー
する学者 たちですね。
--なによりその項目の選定が興味深い。冒頭のAは、Abakwa (アバクワ。
キュー バのアフリカ系憑霊宗教の秘密結社。カトリックとの習合をへた
混淆的な文化の産物 )という項目からはじまり、最後のZの項目は
 zydeco (ザディコ。ルイジアナ、テ キサス両州において行われてい
るケイジャン/アフロカリブ/アフロアメリカ文化混 合のヴァナキュラ
ー・ミュージック)で終わっている。象徴的にいっても、アバクワ と
ザディコのあいだに世界を俯瞰するという試みじたい、とてつもなくス
リリングだ。

3)
http://www.cafecreole.net/corner/essays/reviews/r12-nishi.html
今福龍太が読む 12
西成彦『クレオール事始』(紀伊國屋書店)
「新しい言語を覚えることは、口のなかを新しい舌を使ってあらためて
探検しなおすことだ。・・・私たちの口腔は、唾液にうるおい、華氏百
度に限りなく近い熱帯雨林そのものである」。こんな魅力的で扇動的で
もある誘いの文句によって冒頭を飾られた本書は、「クレオール事始」
という表題も示すように、フランス語語彙系クレオールが話されている
カリブ海地域(おもにマルティニーク、グァドループ両島)の民話や民
衆音楽の歌詞を素材にして、クレオール語という未知の音を自らの舌の
上ではじめて転がしてみようとする者にとっての、なんとも魅惑的な入
門書であることはまちがいない。

4)
http://133.12.37.57/fs/fukusen/gengo/gen-0404.htm
3.ピジンからクレオールへ
さて、多くの場合ピジンはその有用性が失われると消滅してしまうので
すが、状況により、ある集団の母語となることがあります。例えば、多
言語社会で相互理解のためにリングア・フランカ(共通語)として使用
されるようになったピジンが、その便利さ故に次の世代に母語として引
き継がれるケースです。そのとき、つまりピジンがある集団の母語とな
ったとき、それをクレオール(creole)と呼びます。すなわち、「クレオ
ール=母語化したピジン」であり、ピジンが母語化することを「クレオ
ール化(creolization)」といいます。


5)ミニ学習会報告. クレオール. 石原 正恵
http://www.jca.apc.org/unicefclub/report/1998s/981211.htm
1.きっかけ
クレオールを知っている人と、学習会で手を挙げてもらったところ、ほ
とんどいなかった。化粧品?洗剤?という声も。私が今回このテーマを
選んだのは、NFの研究発表で多言語主義を調べるうちにクレオールが出
てきて、なかなか面白そうだ、研究発表で手が届きそうで届かないとこ
ろにもうすこし近づけそうだと思ったから。でも、残念ながら、まだ良
く分からない。

グローバル化、ボーダレス化が進んでいるといわれる一方で、文明の衝
突ということが言われる。メルティングポットに代表されるような文化
の融合は、同化主義を導き、文化、言語の支配−被支配関係を無視する
ということで批判を受けた。また、サラダボウル社会という言葉に現
れている文化の複合主義、多文化主義は、文化間の差異を本質化し、ナ
ショナリズムを生む危険性がある。そうした中で、新たな方向性として、
「クレオール」の意義は大きいと思う。

2.内容の要約(?)
http://www.jca.apc.org/unicefclub/library/creole.htm

6)
http://www.airmauritius.co.jp/creole.html
簡単なクレオール語会話

7)
http://www3.justnet.ne.jp/~mackharry/hyoron-fukusubunka.htm

複数文化研究会編『<複数文化>のために−ポストコロニアリズムとク
レオール性の現在−』人文書院、1998.11

本書は、複数文化研究会が開催した二つの国際シンポジウム@<複数文化
のために>第一部「島・身体・歴史」第二部「ポストコロニアリズム
の功罪」、

A<クレオールの構え−クレオール性批判と複数文化翻訳>の記録という
ことになっている。基本的には、本書冒頭の三氏(G.アンチオープ、網野善
彦、海老坂武)による発題と若干の討論は@の第一部に、T「ポストコロニ
アリズムの功罪」は@第二部に、U「クレオールの構え」はAの第一日目の
発題に、V「文化翻訳のポリティクス」はAの第二日目の発題にそれぞれ相
当するようだが、どのようなタイムスケジュールで行われたのかの記述がな
いので、断言は出来ない。

さて、本書を通読してまず感じるのは、冒頭の三氏の発題・討論とTまでの
約146頁分と、後半のU・Vの約165頁分の内容が余りにもかけ離れていて、
とても一冊にまとめ得るようなものではないのでは、ということである。前
半はアジアのポストコロニアル的状況に関する議論であり、後半はカリブ海
のクレオール性を巡る議論である。300頁辺りで細見和之が述べている通り、
クレオール性なりクレオール化に関する議論を日本を含むアジアの状況を考
えるのに活かすことは可能だし、生産性もそれなりにあるように思うのだけ
れど、残念なことに本書に掲載されたテクストには、そういった作業をこな
しているものは見当たらない。

8)クレオールの問題系 クレオール語、クレオール化、クレオール性
恒川邦夫 (一橋大学)

http://www.mfj.gr.jp/colloque_9910/resume/Tsunekawa.html
クレオール化というのはマルチニック生まれの詩人・作家・思想家のエドゥ
アール・グリッサンの打ち出したコンセプトである。これは言語にとどまら
ない、人間社会全般に関わる混交現象を包摂した概念で、アイデンティティ
ーや領土・言語・文化に関わる問題提起である。

グリッサンの問題提起は奴隷貿易・プランテーション経済の昔から、宗主国
からの独立あるいは海外県化を経て、現在の状況にいたるまでのカリブ海諸
島の通時的・共時的分析に根ざしつつ、経済のグローバリゼーション、多様
な文化・言語の接触と交流による地球社会のありようについての深い洞察を
含むものである。グリッサンは自らのそうしたメッセージをクレオール化と
いう言葉で象徴的に表現している。


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