480−2.「主観の相違」の重要性



                PSIU代表 白鳥 宙

 国際戦略を論議するに当たって、各人種や民族の持つ世界観・人
生観に対する配慮を行うことは、ことの外重要である。
 それぞれの民族には、その民族特有の世界観や人生観がある。
民族から更に単位を狭めて、それぞれの地域や、また、それぞれの
信じる宗教の教派の違い等からも、微妙に違った人生観・世界観を
持つようになるのは、当然のことである。

 そのような世界観・人生観の多様性があるからこそ、私たちの住
むこの世界は、私たちに刺激を与えてくれ、一人一人の人生をより
充実したものにしてくれているのではないだろうか。

 実は、人間は、例え家族といえども一人一人別々な世界観を持っ
ているのである。それは、多春期をどのような時代に、どのように
過ごしたかということによっても、違ってくるだろうし、幼児期の
育てられ方や、社会に出てからの人との関わり方等によっても違っ
てくるだろう。

 さらに言えば、「主観の相違」というものがあるからこそ、その
人の人生はその人自身の人生であるということができるし、その人
にとっての世界の中では、その人が「主人公」であるということが
できるのではないだろうか。
 私たちは、時として、経済的に貧しい国々の人々が持つ宗教的価
値観や、世界観に対して、蔑視の目を向けることがあるが、そうい
う人は実は何も知らないのである。

あくまで主観的な人生観や世界観に対して、それに優劣をつけよう
とする態度そのものが、実はあらゆる紛争の原因なのだということ
を知らなければならない。
 その民族を通して見た世界、その宗教を信ずる人を通して見た世
界、果ては自分の友人を通して見た世界、自分の父親を通して見た
世界、自分の子供を通して見た世界というものは、自分がイメージ
し、認識している世界とは別の世界なのかもしれないのだという
想像力をみなが持たないといけないのではないだろうか。

 自分の持っている世界観で、社会をまとめあげようとすれば、
そこに軋轢が起こってしまうのは、如何ともし難いことだ。人類の
歴史は、近世以降、それをやり続けてきた。そのために殺戮があり
、戦争も行われてきたと言っても過言ではない。
 また、今現在、ここ日本でも多くの人が精神病院に隔離されてい
るが、その人たちを、一律に精神疾患という名で分類分けしてしま
っていることにも大いに問題があると思う。

 かつて、コペルニクスは、地球が太陽の周りを回っているのだと
、当時の人々の一般的な感性とは逆のことを言ってしまったばっか
りに、裁判にかけられた。
コペルニクスに限らず、今多くの人々から尊敬を得ている数多くの
偉人と呼ばれる人々も、その昔は、反体制派であり、当時の人々か
らバカにされたり、気違い扱いされたりしたのだ。だから、今もし
、自分がその当時の社会の一般大衆や知識階層に属していたとして
、自分が果たして当時の人々と同じ過ちを犯しはしなかっただろう
かと自己反省してみることは大事なことである。

歴史というものに対して、軽々しく論評をし、評価をつけたがる
知識人というのは、そのような意味で、その人自身の内部に恐ろし
く野蛮な性向を秘めており、本人自身はそのことに気付いていない
ので、一般大衆を惑わし、かえって始末が悪いと言えるだろう。
 このような意味合いから、普段何食わぬ顔で自分がいっぱしの善
人かのように振舞って生きている多くの大衆の表仮面の裏に、隠混
なインベーダのニヒルな実顔を、私は感じてしまうのだ。

 多くの人は、社会一般通念を評価判断の材料にし、自分たちの
常識から外れた行動を起こすものを一律に「異常者」と決めつけ、
排除しようとする。
私たちは、自分が理解できない考えを持つ人や行動を起こす人に対
して、簡単に評価判断を下すべきではなく、「自分には理解でき事
情があるのかもしれない」と冷静かつ謙虚に考えてみることが大事
なのではないだろうか。

自分とは直接関わりのない第三者に対し、軽々しく評価判断を下す
のは、驕りであり、冒涜にさえなりかねない。
如何なる事態に対しても、謙虚で冷静な「こころの視点」を失いた
くないものだ。そういう意味で、互いの「主観の相違」を尊ぶとい
うのは、大事なことだと思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(Fのコメント)
白鳥さんは、ご自分も読者や他の人の主観を尊重していますか?
どうも、ご自分の主観だけを尊重してほしいと読めるのです。
どうしてかというと、読者が理解できないような主観的なことを述
べて、それを読者が理解しないと、非難するからです。これは矛盾
しています。

どうか、他人の主観をも含めて、主観の相違に気をつけてください。
そうしないと、白鳥さんは他人との関係が構築できずに孤立します
よ。すると、集団的行為である塾も政党も多くの人を引き寄せるこ
とができません。他人理解と他者との会話が可能である時しか、
主観の相違を乗り越えることができませんから。このためには、他
人への説得を他者に理解可能な言葉で行う必要があるのです。

これは客観的な言葉になるはずです。白鳥さんが集団的な組織を主
催するなら、客観的な言葉で主観的な相違を乗り越える努力をする
必要があると思います。あくまでも、白鳥さんの個人的なことで、
言っています。民族などの大きな包みでは主観の相違があることを
想定し、寛容でなければならないと言うのは、賛成です。
==============================
突然、国際戦略コラムに彗星のごとく現れた、白鳥宇宙なる人物。
彼の投稿は、何ともごつごつして理解しづらいことこの上ない。
こんなのを読まされるのは、ちょっと、と思ったものです。

しかし、幾人かからの批判、苦情(?)などを受けて、変わってきま
したね。例えば、3/15配信の「アメリカ人と日本人」。
小生には大変読みやすく、説得力があると、感心しました。

 「難しいことを難しく表現するのは、比較的易しい。
  難しいことを易しく語るのは、大変難しい。」

もちろん、彼のお説のすべてには賛同するわけではありませんが、
ものごとを根本的に掘り下げて考えるところに、好感が持てます。

また、人間は木石にあらず、熱い血潮が流れているのです。
彼は情熱の人でもあることを感じさせます。
例えば、前述の投稿の最後の件。


>  いつの時代にも、時代の新しい波から取り残さるのは、古い時代
> の管理者たちです。そして、彼らは、新しい時代の波の中で、必死
> に保身を計ろうとしますが、時代の潮流には決して勝てません。
> 古きものは一切が流されます。その中で、流れに逆らって、生きよ
> うともがく者は逆に死に、新しい時代を切り開くために、自分の命
> を捨てる覚悟で、その礎になろうとするものたちは逆に生きるので
> す。歴史は全てそれを物語っています。
>                              
> 人間の一生は、長くてたかだか百年。そこにおいて、何を自分は
> 残すのかを考えてみれば、一時の儚い執着を抱いて生きることの空
> しさを感じるようになるでしょう。
> そういう意識に目覚めた者から順番に新しい時代は切り開かれてい
> くでしょう。明治の若き下級武士たちも、新しい時代の理想に燃え
> て、自分の肉の命を顧みず、自ら進んで、新しい時代の礎になろう
> としたのです。だからこそ、彼らの物語は時代を超えて語り継がれ
> 、美しいドラマとして、今も私たちの心を打つのではないでしょう
> か。
願わくば、白鳥氏のみならず、本コラムのすべての論客の皆様が、
中学生にも理解できるように、語っていただきたいものです。

いつも配信していただき、ありがとうございます。
3/18 adati


コラム目次に戻る
トップページに戻る