473−1.町内会で民主主義を



夜のあけるのが早くなってきました。もう朝日が立山連峰をバック
ライトで照らし始めました。もうすぐ光の帯が空を舞って、朝がき
ます。
民主主義について考えてみましたので、よろしければお読み下さい。

得丸久文
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町内会で民主主義を

1 21世紀の主権者の心構え
「その位にあらざれば、その政を謀らず」(「所管以外の政治には、
傍から口出しをしない」、「その職責にある者のみが、その置かれ
ている立ち場や過去の事例やその決断の及ぼす影響について知りう
るのであるから、外野は黙っているべきだ」)と論語にいう。

 この言葉を聞いた人の多くは「じゃあ、僕たちは何をすればいい
のかい」と思ったのではないか。「政治家が指導力を失い夢を提示
できなくなり、官僚が行政能力を失い日々の業務をこなすことに明
け暮れるようになり、どこにも希望も夢もない。国民が立ち上がら
なければ何も変わらないのではないか。孔子のような古い考えは通
用しない状況にあるのだ」と疑問というより反発を感じた方もおら
れるだろう。

 しかし中国の古典に答を求めるならば、「やっぱり修身、斉家、
治国家、平天下の順序を守りなさい」ということになるのだろう。
それは気鋭の若手政治学者も同じ意見だ。

 杉田敦著「権力」(岩波書店、2000年)は、昨年夏に鷹揚の会でも
取り上げたし、国際戦略コラムでも「『国民主権』の裸の王様」
(240-2)として書評している。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1207242.htm

 この本の中で、杉田は、21世紀の主権者(=国民)たちに、いくつ
かの貴重なヒントを提示している。(以下は「『国民主権』の裸の
王様」よりの引用)

 (1) 権力と抵抗の遍在性、時空間の連続性
 突然革命が起きて、世界が非連続的に変わることはない。ローカ
ルな人々の抵抗とそれに触発された実践の積み重ねによってしか、
世界は変わらない。
 権力は「御上」から下降してくるものではなく、ありとあらゆる
場面で多元的に存在している。自分自身が主権者であるという意識
をもって、常日頃から責任ある言動を取らなければならない。

 (2) つくられるものとしての主体
 あらかじめ定められた基準によって自明なものとして存在するも
のとしてではなく、状況の中でつくられるものとして、権力や主体
を捉えなければならない。

 21世紀には国境線の意味がますます薄らぎ、異文化接触が増え
る。すでに島国日本でも外国人の居住が増えている。宗教や言語を
異にする「異質な他者」を排除するのではなく、「異質な他者」と
関係性を築くことによって、彼らを自らの社会や意味のシステムの
中に取り込んで新しい主体に変わることができるだろうか。

 (3) 国民国家が正統性を喪失し、人類に普遍的に適用されるルール
が必要となる「絶対的な正統性を主張できるようなルールが、国民
という特定の単位によってつくられるという主権論的な理論構成が
、もはや認められな」くなる。
 たとえば現在は地球環境問題は、個々の国民国家の代表たちによ
って話し合われており、そのために個別国家の利益が地球環境問題
に優先されて混乱が生じている。環境問題の重要性を考えると、近
い将来国民国家に代わる新しい政治主体が登場する必然がある。
 その際に、文化や宗教を異にする全ての人間がひとしなみに理解
でき受け入れられる客観的・絶対的な「正しさ」をもつ簡潔なルー
ルが必要になるだろう。そのような普遍的なルールは、著者が見た
かぎり西洋社会にもまだ構築されていない。

2 管理組合民主主義の実践
 この杉田の指摘を、実践面に活かすとすれば、町内会あるいは
マンション管理組合における民主主義の実践が一番ではないだろう
か。

 僕自身、東京の住んでいるマンションの初代管理組合理事長をつ
とめて、組合員総会の議長を二度やらせてもらったが、非常に面白
かった。みなさんも面倒くさがらずに是非試してみるといい。管理
組合で民主主義を実践できない人が国政や国際戦略を語っても、言
葉が説得力を持つかどうか、、、

 うちのマンションは全戸数わずか44軒だ。が、顔を合わせるのも
組合員総会の場がはじめてという人たちの意見をあらいざらい出し
てもらい、それらをまとめてひとつにする作業は規模は小さいなが
らダイナミックだった。

 みんなが言いたいことを言った後で、「ほかに何かご意見はあり
ませんでしょうか」とさらに意見を汲み上げて、ありとあらゆる可
能性を検討する。対立する意見があると、それぞれの視点から他の
人の意見をつのってみたり、理詰めで比較したり、常識論で割り切
ってみたり、ああでもない、こうでもないと、やっていると不思議
と自然に意見は収斂していくのだ。

 わずか3時間の総会だが年に一回のことなので、ここで決を取ら
なければ何をするにも一年間先送りになる。議長も真剣だ。とくに
昨年は、防犯カメラの導入が検討されており、そのためには100万円
以上の出費となるので、議長はあらかじめ管理会社を訪れて、管理
費の削減交渉までしていたのだった。おかげで20数万円の管理費が
節約でき、防犯カメラの導入も一発で承認された。

 最初の総会では、万一大雪が降ったら、マンション周辺の雪掻き
をしないと住人にとっても危険であるという話が出た。そんな単純
な話がどうして議論の対象になるのだろうかと思う人もいるかもし
れないが、これとて、「雪掻きの責任は管理会社にあるのではない
か。そのために管理費を払っているのだ」という意見が出された。
もっともな意見である。また「雪掻きがいやだからマンションに引
っ越してきたのだ」という老夫婦もいた。

 それに対しては「雪の日は、都内どこでも雪で大変なのだから、
うちのマンションに追加の人を派遣してもらうことは不可能。自分
たちでできることは自分たちでやれるようにしよう。」という常識
意見が出され、みんながそれになびいたのだった。また、誰が雪掻
きをするかについても、「とりあえず若い住人がボランティアでや
ってみよう」と責任の所在をあいまいなままにしておいた。

 結局、最初の総会でマンション周辺の雪掻き対策にショベルを追
加で4本買うことが決まった。(今年は1月に雪が3回も積もったが、
ボランティアが増えたためにショベルが不足した。うちのマンショ
ンの周りはきれいに雪掻きしているというので、古くから住んでお
られる方からお誉めの言葉もいただいた。それに気をよくして理事
会で1万円予算を認めてもらい、雪国富山で話題の新兵器スノープレ
ッシャーを6本買って追加で装備した。)

 日勤の管理人さんに困ったことはないかという聞き取りを総会の
前に行ったところ、お茶をわかす電気ポットがなくて不便というこ
とと、床から寒気が伝わってくるので電気ストーブがあると助かる
という意見だった。これについて管理組合から寄付してはという提
案をしたところ、「そんなことは管理会社の責任で買って支給して
もらうべきではないか」という意見が出された。

 その場にいた管理会社の人に「どうですか」打診すると、電気ポ
ットは買って支給するが、すでに暖房設備はあるので電気ストーブ
の追加は勘弁してくれという。では、その分は管理組合で買ってあ
げようということにすんなりなった。

 一番もめたのは、セキュリティー(治安)の問題だった。マンショ
ンの玄関のドアは電子錠で、各戸の玄関のカギを差し込むか、部屋
番号を押してインターホンで部屋を呼び出して中から開けてもらわ
ないと開かないことになっている。(現実には誰かが出入りすると
きに、ついでに忍び込む方法があるのだが、、、)

 ところが、部屋番号ではない別の数字を入力するとドアが開く暗
証番号があったのだ。これを使うと、わざわざポケットからカギを
出さなくてもドアが開くので、それを知っている人は日常的に使っ
ていた。だが、子供たちもそれを知ることとなり、子供から子供へ
と暗証番号が漏れて、公然の秘密となっていたのだ。

 玄関のドアの暗証番号をなくすべきか継続すべきかが、昨年の総
会で一番議論が分かれたところだった。継続派は、「子供たちがカ
ギを持たなくても、マンションの中に自由に出入りできたほうがい
い。子供がカギをなくすと大変だ」とか、「大きな荷物をもってい
ると、玄関でカギを出すのが大変だ」という。廃止派は、暗証番号
が存在する限りその数字は漏れるから、マンションの防犯上好まし
くないというやや厳しすぎる意見だった。

 防犯ともからむし、全員の問題なので、議論を尽してもらった。
暗証番号の存在すら知らない住民もいたので、そもそも暗証番号と
は何かの説明もした。意見が出なくなったときも、少し待ってから
、「ほかに意見はありませんか」と黙っている人が意見を出しやす
いようにした。

 結局、マンションの入り口に入れたとしても、自分の部屋に入る
にはいずれにせよカギを出さなければならないのだから、面倒臭が
らずに玄関でもカギを使って入りましょう、というみんなを納得さ
せるに足る意見が出た。防犯については、厳しすぎるくらいでいい
という意見も出た。このあと決を取ると全員一致で暗証番号廃止が
決まったのだった。

3 民主主義とは手続きを尊重すること
 民主主義とは、手続きや制度を守ることである。面倒臭がらずに
、丁寧に、全員の意見を尊重しながら議論をすすめていけば、けっ
して紛糾することなく、妥当なところに意見は収斂するのである。

 意見が対立する場合は、意見の異なる人びとに、それぞれの考え
方をじっくりと説明してもらい、お互いに質問したり自由に感想を
出してもらう。そうすると、いつの間にか対立は消えて、意見は収
斂しているのである。

 このような訓練を、家庭内、町内(マンション内)で行えば、そ
の経験は舞台が地域や市町村になっても、通用するし、国家レベル
や国際交渉においても、威力を発揮するだろう。

 手続きや手間ひまを面倒臭がること、相手の意見にきちんと耳を
傾けないこと、一方的に力で押し切ること、これらが民主主義の
最大の敵である。現在の日本を見るかぎの政治家も官僚も、この点
では、民主主義失格といえるかもしれない。マスコミはもちろん
最低だが、彼らには決定権はないので、相手にしなければすむこと
である。
(2001.03.14 得丸久文)
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得丸です、こんばんわ。
日々の生活や読書体験が論語の章句を思い起こさせてくれることが
あります。今日は為政篇の短い章句を思い出しました。

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詩は三百、一言にしてこれを蔽(おお)えば、曰く思い邪無し。(論
語・為政)(詩は300あるが、一言で要約すれば心に邪念がないといえ
よう)

 昨年読んだ本の中でもっとも感動したのは、多田茂治著「石原吉
郎 昭和の旅」(作品社)だ。石原は戦後シベリアに抑留され、生死
の境をさまよって帰国して、詩人として活躍した。今、読んでいる
のは、小川三男著「天皇の踏み絵」(サンケイ新聞社、1969年)。
これもシベリア抑留についての手記。ここで紹介されている短歌も
なかなかいい。極限状況でよくも歌を歌い続けたものだと感心した。

シベリアの雑花を折りて空缶に活けてひととき晴れにし心
ひさかたのひかりほのさすみなそこにたまみつめつつたゆたへるわ
れ亡き友の温くみ残れる毛布かな

 二冊に共通しているのは、極度の栄養不良と厳しい気象条件のも
とで過酷な労働を強制された日本人捕虜たちが、詩歌によって元気
づけられたことである。おそらく、歌を歌ったことによって、生き
延びることができたものもいたにちがいない。

 詩歌は、心を揺すぶり動かすことで、気の循環をよくするのだろ
うか。詩歌によって、自分自身を対象化することが、捕虜たちを絶
望の淵から救ったのだろうか。詩のまっすぐな心が、疲れ果ててへ
なへなになりそうな捕虜たちの心をまっすぐに立て直したのだろう
か。どれも当っているような気がする。

 論語の「詩は三百、一言にしてこれを蔽えば、曰く思い邪無し」
は、心に邪念がないということから、心がまっすぐで強いという意
味にまで及ぶのだろう。心がまっすぐだから、前向きになることが
でき、希望を失わない。邪念がないから、人と心を通わせあうこと
ができ、お互いを思いやることができる。

 心をまっすぐに保つことが論語や孟子の教えの最重要課題である
から、詩は「思い邪無し」というのは、詩がとても大切であるとい
うことを言っているのだ。私たちはもっと詩心を大切にしなければ
ならない。
(2001.03.14)

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