469−1.アメリカ人と日本人



                                              白鳥 宙
デールカーネギーは、アメリカのかつての大富豪ですが、その人は
沢山の本を書いておられます。その本に「人を動かす」という名著
があります。これは一般企業のトップや管理職の方々にとってだけ
ではなく、家庭という一つの組織をまとめ上げる父親や母親にとっ
ても、子育てなどをする上で大変に参考になり示唆に富む書物です
から一読をおすすめ致します。さてそのタイトルは日本語では「人
を動かす」ですが原文のタイトルは「How to win and influent 
people」となっています。直訳すれば、「人に打ち勝ち(打ち負か
し)人々に影響を与える方法」と訳すことができ、それを訳者は「
人を動かす」と簡単に意訳をした訳です。

原点のタイトルは、いかにもアメリカ人的ものの考え方を端的に表
しています。西洋人、なかんずくアメリカ人というのはリーダー意
識が強く、征服欲や支配欲が旺盛です。自分たちがリーダーでない
と気が済まないという面があり、自分たちの考えというものを「正
義」として他国の人々に対して押し付けてきます。

 宗教などにしても、アメリカ人ほど伝導をしたがる国民はいませ
ん。アメリカ人は「正義」という言葉に弱く、正義というものを頭
で考えて、皆がそうだと納得すると、その正義と言う言葉の下に一
致団結して事にあたります。湾岸戦争の時は確か85%くらいの支
持が軍隊に集まりました。

ある意味では、子供のように純粋であり、人間という物に対する
理解は東洋人ほど深くありません。東洋人に比べると物事や現象の
捉え方は表面的であり、割り切り合理的思考が強いのです。それで
経済や科学技術が発展した面も確かにあるのですが、その一方で極
度なストレス社会になっており、子供の死因のトップが自殺である
とも伝えられています。離婚率もすさまじく、家庭規範が崩壊して
いるのが現実のアメリカの姿です。

アメリカは陽と陰がハッキリした国です。貧富の差はすさまじいも
のがあります。アメリカでは、皆が経済的成功者に拍手を贈ります。
アメリカンドリームという言葉は、アメリカに無一文同然で移住し
てきた人が短期間で大金持ちになるという意味です。アメリカでは
成功者は徹底的に称えられます。成功者に対しては日本では考えら
れないような高報酬が与えられても当然という認識をもっています。
宝くじが当たって一夜にして100億円を手に入れたなどという話
もよく聞きます。

でも先日ラジオを聞いておりましたら、アメリカで宝クジが当たっ
た人を調査したら、ほとんど全ての人が幸せを感じていないという
結果を報じていました。幸福感に浸っていられるのはたかだか一年
間くらいで、その間買いたいものを買って、着たいものを着て、住
みたい家を建てて遊び暮らすのですが、そのうちに退屈でしょうが
なくなり、皆自分は幸せではないと言うそうです。

アメリカ人はどうも心理学という学問が進んでいるように見えて、
人間というものに対する洞察というのが今一甘いようです。アメリ
カに限らず西欧の国々一般に言えることですが、彼らの考え方はあ
まりにも分断思考が強過ぎるのです。善か悪か、正義か不正義か成
功か失敗か、このようにもの事を完全に分けて考えないと気が済ま
ないのです。中庸という概念があまりないのかも知れません。

でも最近は確かにある一部のアメリカ人は、一見東洋人以上に東洋
的な人がいます。
でも一般的にはやはり、全てのことを理性で解決しようとしている
のは確かです。直観力の研究、瞑想の研究、成功の法則というふう
に、何かにつけ研究するのが好きで、経済や学問、政治などあらゆ
る分野に渡ってマニュアルというのが徹底している国です。この点
に関しては、日本はまだまだ大いに学ぶべきものがあります。論理
的思考という面で日本は赤子同然だからです。アメリカ人と議論を
して勝てる人は日本にはほとんどいません。アメリカ人の側からす
れば、日本では何故論理というものが通じないのかと歯がゆいこと
しきりだというのも私にはよく分かります。私自身もどちらかと言
えば分断思考が強く、物事を合理的に考える側の人間だからです。

 日本に法人があるアメリカ系企業は、日本企業に比べて、いかに
も洗練されたスマートで都会的な社風があります。教育マニュアル
もしっかりしています。日本企業ではしっかり教育されているなぁ
と私が感じる企業は大変少ないのです。

 でもアメリカという国は、私も二一歳の時ヒッチハイクで一ヶ月
半ほどぐるっとまわってきたのですが、日本人から見れば、確かに
物質的には豊かですが、何か物足りないものを私が感じたのも事実
です。風景にしても国民性にしても何か物足りないのです。これは
私の中に日本人の血が流れているからに違いないでしょうが、風景
にしてもやはり水墨画的なものに私は親しみを覚えますし、人間関
係の親密さというものも最近は好ましく感じるようになりました。

アメリカ人は、一見、おおらかでフランクで笑顔一杯のように見え
て、根底は孤独感が強くあるように見えます。この原因は、やはり
、彼らはあまりにも合理的思考方法に頼りすぎているからではない
かと思います。
 これにはもちろん歴史的背景というものがあります。たかだか
二〇〇年余りの歴史しかない国で、おまけに移民の国ですから、
色々な考え方や感じ方を持った民族が入り混じっている訳で、その
国を束ねるには、やはり主義や理念というものを前面に出さざるを
得ないのでしょう。アタマで考えた理想で、納得させるといやり方
が一番手っ取り早いということで、正義・基本的人権・自由平等と
いうふうに皆が納得するような概念を明確に打ち出すということが
大事なのです。あなたの主義は何かという質問はアメリカ人は好ん
でします。頭や論理を使ってやるディベートや議論・対論といった
ものはアメリカ人には受けます。

 アメリカ人は論理で追求してきますから、そういうことを苦手と
する日本人は、たじたじになってしまう訳です。
 アメリカ人は交渉上手な人を尊敬します。弁護士であろうがセー
ルスマンであろうが、政治家であろうが、交渉のうまい人や説得力
のある人をタフネゴシエーターと言って誉めるようです。日本には
このタフなネゴシエーターが少ないので、何でもかんでもアメリカ
の言いなりに日本の政治家や官僚たちはなってしまっているようで
す。

 アメリカでは「正義」というものは、はじめからあったものでは
なく、彼らの頭で組み立てられた一つの知的な概念なのです。そし
てそれは、自分たちにとって「得」となるものを正当化するという
意味での概念に他なりません。人間の側から見れば、人間より下等
な動物は、殺されて食べられても、それは正義に適ったことであり
、白人の利益のために、有色人種を奴隷として、働かせても、南北
戦争以前まではそれが正義だったのです。イスラエルに味方してパ
レスティナの独立に反対することも、ハーグ条約に違反して、敵国
の一般市民を殺すことも、自分たちにとって「得になる」と判断す
れば、それは「正義」となります。今、経済のグローバル化という
名のもとに、自国の経済論理で世界を制覇しようとすることも、
自国にとって「得」になる限り、それは「正義」なのです。また、
戦争にしても、自国に「得」になる戦争は「正義」であり、自国の
利益に反する思想や行動は「悪」と見なされるのです。また、自分
たちの言う「神」を冒涜する思想は「悪」であり、多神教は、邪教
と見なされます。自分たちの概念に納まらないものは、一般的に全
て「悪」と見なされます。
 また、「主義」ということばのニュアンスの中にはどろどろとし
た情的なものはあまりなく、極めてドライな人工的なものが多分に
含まれています。だからアメリカ人と言えども頭で考えて正義や人
権などというもののために自分の命までも棄てようというような人
は少ないと思います。実際に戦争を体験して、弾丸によって友人達
を殺されるのを目のあたりにした兵士は、もう正義、正義と言わな
くなります。うつ病やてんかんになってベトナムから帰ってきて、
反戦運動に身を投じたり、ヒッピーとなったり、浮浪者となる人は
大勢いたようです。湾岸戦争の時も実際イラクの捕虜となって拷問
を受けた兵士は、アメリカの軍隊教育で教わった正義などというも
のはいとも簡単に捨ててしまいました。

 これは日本でも同様で、アメリカの空母に、ガソリンの切れた
ゼロ戦で突っ込んでゆくとき「天皇陛下万歳」と叫んだ人はまれで
、ほとんどの人が「お母さん!」と叫んで死んでいったと聞いてい
ます。ただ日本人の場合は、いろいろな思想や概念といったものも
、アメリカ人に比べますと、かなり情緒的な部分にも根ざしていま
すから、かなり際どいこともやってしまうようです。昭和に入って
からも切腹した作家もいました。またアジアでも政局に対する抗議
行動として、国会議事堂の前で焼身自殺をする人もいます。でも
一般的には頭や論理的思考で考えた主義のために一身を投げ出せる
人というのは、そう多くはいないと思います。

 いずれにしても、デカルト以降の分断思考により、アメリカは
物質的繁栄を極めたわけですが、今は、アメリカ人の心は、大きく
病んでおり、犯罪や狂気としか思えないような非道な行為が蔓延す
る社会が出来上がってしまっています。そんな中で、今多くのアメ
リカ人たちが、東洋に関心を抱いており、気功や瞑想、中国や日本
の武道などが流行っているようです。

 これは、人類という「一つの種」の大きな意識の流れから見て、
なるべくしてなっていることだと捉えられます。人間一人の一生も
また、この如くだと捉えられます。
意識が環境と未分化な状態を経て、やがて「自我」が生まれ、それ
が段々と強化されていき、それがために「苦悩」を抱くようになり
、やがて自我と環境との軋轢が最高潮にまで行き着くと、人はそこ
で初めて、自分自身を振り返り、アタマで考える合理性よりも、心
で感じる情緒の方が大切なのではないかと思い返すわけです。
しかし、長年染み付いた思考習慣は容易に抜けきれず、苦悩はなか
なか去ってはくれませんが、それでも感じる心を大切にしながら生
きようと努力するうちに、少しずつ平安ややすらぎを取り戻せるよ
うになってきます。

 私たち、日本民族もまた、長年先祖から受け継いできた伝統とし
ての文化を忘れ、特に戦後は、西欧流の物質文明ばかりを物凄い勢
いで追いかけてきました。その結果、人々の心が荒れだし、ニヒリ
ズムと短絡的な享楽主義が蔓延する情緒不安定な現代の日本社会が
出来上がってしまったのです。

 でも、日本はきっとアメリカ社会ほど酷い状況にはならないでし
ょう。なぜなら、私たちは、2千年以上に渡って、一つの伝統を曲
がりなりにも守ってきたからです。
それは、現在の「皇室の心」に見る事が出来ます。私たちは、皇室
の伝統的な教育をこれからの子供たちの教育の中にも取り入れてい
くべきだと私は考えます。

 新しい時代を築いていくのは、今いる子供たちであり、これから
生まれてくる子供たちです。今の一般的な価値観のまま、これから
も日本の教育を続けていくならば、日本に未来はないでしょう。
でも、今多くの国民が気付きつつあります。このままではいけない
、何とかしなければと多くの心有る日本人が気付いており、実際に
そのような活動も日本のあちこちでなされているからです。だから
、きっと日本は再生を果たすでしょう。

 いつの時代にも、時代の新しい波から取り残さるのは、古い時代
の管理者たちです。そして、彼らは、新しい時代の波の中で、必死
に保身を計ろうとしますが、時代の潮流には決して勝てません。
古きものは一切が流されます。その中で、流れに逆らって、生きよ
うともがく者は逆に死に、新しい時代を切り開くために、自分の命
を捨てる覚悟で、その礎になろうとするものたちは逆に生きるので
す。歴史は全てそれを物語っています。

 人間の一生は、長くてたかだか百年。そこにおいて、何を自分は
残すのかを考えてみれば、一時の儚い執着を抱いて生きることの空
しさを感じるようになるでしょう。
そういう意識に目覚めた者から順番に新しい時代は切り開かれてい
くでしょう。明治の若き下級武士たちも、新しい時代の理想に燃え
て、自分の肉の命を顧みず、自ら進んで、新しい時代の礎になろう
としたのです。だからこそ、彼らの物語は時代を超えて語り継がれ
、美しいドラマとして、今も私たちの心を打つのではないでしょう
か。

    戦うシンクタンク PSIU白鳥事務所
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   分析的解決の限界

                     PSIU代表 白鳥 宙
先日、このコラムの読者の中から、私の言説が、日本の「国際戦略
」に相応しくないから、載せるなという意見がありました。この件
に対し、若干の私見を述べさせて頂きたいと思います。

そもそもこのコラムの主旨は、日本を世界の中に位置付けて、日本
人に特有の視点から、日本の国益のみならず、世界の精神的支柱と
しての日本のあるべき道を探ろうというものだと理解いたします。

その中で、できるだけ多様な意見というものを、主催者は歓迎して
おられると思います。自分の価値観や好みに反する言説があったと
いう理由だけをもって、他人の意見を封じ込めたり、またそのよう
な働きかけを間接的にせよ行う態度というのは、主催者の意図する
所ではないと思います。

また、人の言説をのみもってする人格批判においては言語道断です
。言説というものは、その人が成長している限り、いかようにも変
わる可能性のあるものであり、例えそれが、どんな意見であるにせ
よ、それはそれとして尊重されるのでのなければ、議論というもの
自体が、そもそも意味をなさないものとなってしまいます。

たとえ、戦争を励賛するような言説があったとしても、そういう
意見を持っているという現実は、否定できないのです。私は「『今
は』こう思う。ただ、将来ずっとこの考え方を持続させるかどうか
は分からない」という立場で、私はものを言ったり書いたりしてい
ます。

ただ、いたずらに持論に固執する態度というのは、論議を発展させ
ることもなければ、聴く者に「感動を呼ぶ」議論にもなりえません
。人の素直で偽らざる思いから発した言説について、それに対する
反対意見を述べることは構いませんが、その人の人格を中傷罵倒す
る態度というのは、いかがなものかと思います。

また、「意図的な」質問というものも、できれば止められた方がい
いと思います。質問の意図(動機)に答えればかいいのか、質問の
「言葉」に答えればいいのか分からなくなるからです。相手をとに
もかくにも陥れよう、揚げ足を取ってやろうというような動機の
垣間見えるような質問は、読むだけで、気分が悪くなります。

誠実、素直な質問に対しては、心温まる「喜び」が涌いてきます。
そして、逆に教えられることが多いのも、このような態度の質問者
に対してです。小学生や中学生の好奇心いっぱいの眼差しから出る
質問は、誠実、親切に対応してあげねばと、襟を正されるような
気持ちになりますが、腹黒い大人が、薄っぺらい言葉を並べてする
意図的な質問に対しては、誠実に対応できないということです。

さて、大体、私に対する反論を読ませていただく限り、私の言説の
一面だけを自分なりに(自分が解釈したいように)解釈して反論を
しておられるか、もしくは、私の言説に対し、極めて表面的な部分
をのみ捉えて、非常に浅薄な受け取り方をしていらっしゃる方が、
大変多いように感じます。

これは、ある意味で、仕方のないことだと思います。というのは、
「思想」というものは、その人の「人生経験」に裏付けられたもの
であり、「経験のベース」が違う場合には、相互理解というものが
大変難しいということを、私は私の経験を通して感じています。

そして、自分の経験に基づかない言説というものは、やはりそれな
りのもで、読む人の「心」に響くことは一般的にはありません。
このコラムの中には、様々な言説が発られていますが、あまり「重
み」のあるものは、私は感じません。私のは、確かにまだまだ観念
的なものが多いのは確かでしょう。でもこのコラムの色々な言説を
見る限り、私よりもはるかに観念的なものが多いように感じます。
勿論中には、感心させられるルポタージュなんかはあります。ただ
、斬新な「その人自身の言葉」で語られているようなものはあんま
りないような気がします。

私自身、そういう時期が、長い間ありましたが、だれか自分の尊敬
する「先生」の意見にあったものをさも自分の意見のように述べて
おられる方が、多いようにも感じます。他人の考えや発想の受け売
りでは、人を「感動」に導くことはできないと思います。

さて、本題に関してですが、現代は、ある問題の解決に関して、余
りにも「分析的に」捉えようとし過ぎる人々が多いように感じます
。私の今までの人生経験を通して思いますことは、物事をいくら
分析的に認識しようとしても、「深い認識」には至り得ないという
ことです。また、分析的な認識をいくらしたところで、少なくとも
私に関しては、「心」に「喜び」は、涌きませんし、そもそも「心
が喜ばない」ことをするのは、私自身にとっては「無意味」だと感
じるからです。

勿論私は、事物を「分析」することを不必要だと感じているわけで
はありません。それは、それで、そういうことが好きな人がやって
くださればいいだけです。少なくとも、私自身は、最近「分析」す
ることにあんまり「快感」を覚えなくなったのです。
(これでも、以前は大変「分析」を好む人間だったのです)

一口に、物事を「理解」「認識」するといっても、そのレベルには
千差万別の差があります。それは、さっきも言いましたように、
その人の人生経験も違えば、概念把握能力、悟性認識力、その他、
「肉体感覚」「直感認識能力」などもそれぞれに「差」があるから
です。

そして、これは何も難しい論文を理解、解釈する時だけでなく、た
った一つの言葉、例えば「ありがとう」という一言の言葉でも、
その言葉から「感じる思い」や、その言葉を発するときの思いには
、人により、雲泥の差があるからです。

従って、「言葉や文字」の「背後」、行間や文字間に込められてい
る言説者の「思い」を感じ取れないでは、本当の意味で、その言説
者の言いたいことを理解し得ないからです。心の篭らない単なる科
学用語を並べただけの論文か何かなら、相互理解というものも、
知的な理解力が同レベルなら、割合に簡単でしょう。

ただ、こと「感受性」ということに関して言えば、これを同一にす
るというのは、大変難しいものがあります。私は、自分の感性に、
少しでも同調していただける方がいれば、それで嬉しいわけです。
でも、人間ってそういうものだと思うんですけど。

とはいっても、社会には色々な人々が暮らしており、みなが仲良く
、幸せに暮らすためには、ある程度、共通理解を得られるような
努力をすることは大切でしょう。そういう意味では、常に自分の考
えの方が正しいとか、より優れていると「感じる」かぎりにおいて
は、自分の考えやイメージに同調してもらえるような「働きかけ」
をすることは、大事なことではないかと思います。

私は、決して自分の「感じ方からきた『考え』」に固執するもので
はありません。そこに「より『深い』もの」を私が、感じ取れば、
私は自分の感性の「浅さ」を感じますし、考え方の「未熟さ」に気
付かされます。

ただ、悲しいかな、このコラムの投稿者の私の言説に対する反論や
意図的な質問の中には、私の感じ方以上に深いものは感じ取れない
のです。
文章というものは、大体二三行読めば、書いた人の人格レベルの一
端は、分かります。「心」で書いたものか、ただ「頭」で書いたも
のかということくらいは、少なくとも分かります。また、その人の
持っている「愛情」の深さや「苛立ち」の度合い、「不安」の量と
いうもの、また「素直さ」や「攻撃性向」というものも感じ取れま
す。
私自身は、皆さんお気づきだと思いますが、かなり「拡散性向」の
強い人間です。

さて、話を戻しましょう。分析的方法では、「深い『認識』」には
至り得ないというのは、私の考えであり、感覚であり、思いです。
私は、心理カウンセリング業務をやっていますし、かっては、私自
身が若い頃、かなりノイローゼ気味になり、心理カウンセリングを
受けたこともあります。そういう経験を通して分かったことは、
人間をいくら「分析」してみても、深い「人間理解」は得られない
ということです。悩んでいる人を助けて(救って)あげようと
「意図」して「(冷たい)分析の眼差し」をクライアントに向けた
途端、クライアントの心はさっと閉じてしまいます。そうなれば、
心理カウンセリングはできません。

私が、皆さんに問いたいのは、どういう「動機」で、ものをお書き
になっているのかということです。人間のあらゆる行動の出発点に
は、必ず何かの「衝動」があるわけです。その衝動がどういうもの
かということは、非常に大事なことだと思います。

そろそろ、私は自分が言いたい結論を述べます。
このコラムは、「国際戦略コラム」と銘打たれていますが、この
コラムをTさんが問い掛けられた動機は、私はやはり「愛」だと信
じたいのです。今の日本を何とか良くしたいという動機もあったで
しょうし、学者的な真理認識欲というものも合ったと思います。
そして「理想」というものに対する「エロス的」な愛情もあったで
しょう。

私は、人間のあらゆる行動、行為の「原点」にあるのは、「愛」と
「不安」であると思っています。攻撃的な人は、不安が強い人です
し、落ち着いた感じの人は、愛が大きい人です。人間には確かに
色々なタイプがありますが、「愛と不安」が織り交ざって、その人
の性格を形作っています。

「国際政治」も結局は、人間たちが織り成すドラマです。だから、
私は、経済学も社会学も、言語学も、生物学も全て含めて、「人間
存在」というものに対する深い「洞察」がなければ、いろいろな
問題は解決しないと思っています。また、そこを忘れて、人生の
目的である「幸福」も人間は、手にすることはできないでしょう。

人間は、様々な「情報」によって心を形成します。心を形成しない
では、より深い「幸福認識」は、得られないでしょう。
そして、人間の五感認識の中で、もっとも大きなウエートを占めて
いるのが、一般的には「視覚からの情報」です。

だから、私たちは、ついつい、目に見える華やかなものに心が奪わ
れがちです。多くの現代人は「科学」というものを信仰しており、
「科学的でない」という一言の言葉で、五感で捉えられないものを
否定する傾向があります。

でも、そもそも人間の「心」というものに、いかに科学的な分析を
試みても、こころ「そのもの」の実体を認識することはできないで
しょう。また、心は「文字」で現そうとしても大変難しいものがあ
ります。こころに篭った思いが強ければ強いほど、人は「寡黙」に
なるものかもしれません。

簡単に「言葉にできる」思いというものは、そういう意味では、大
した思いじゃないのかもしれません。
そして、現代人は、第六感を使わなくなってしまったが故に、より
多くの言葉を必要とするようになったのでしょう。きっと。なんだ
かそういう気が、最近してなりません。

私は、言葉や文字づらによる「対話」だけではなく、「顔と顔」「
目と目」を交えた「会話」が皆さまとしたいのです。
最近は、探りいれの電話が大変多くなってきました。名前を尋ねて
も答えられない方も幾人かいらっしゃいました。私は、できれば、
自分の言説を吐くときは、やはり自分の氏名や身元を明らかにした
上でなす方が望ましいと思います。自分の言説に責任をもつ意味で
も、これは大切なことではないでしょうか。

責任を引き受けるということは、確かに大変なことです。顔を隠し
て好きなことを述べることは、誰にでもできます。責任を伴わない
言動が多くなったことが、世の中を住み辛くしている原因だと私は
思っています。
          戦うシンクタンク PSIU代表 白鳥宙


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