464−2.般若心経の解釈



得丸さん
般若心経には少し興味あって最近解説本を読みました。
空即是色の解釈が難しいですね。瞬間の時間を大切にするという解
釈は面白いですね。
「なるほど・ザ般若心経」大栗道栄 (中経出版){代々木にある
大日寺の住職が修行塾を開かれた時に書いた本らしい。}
を抜粋すると

「色不異空」ーーーこの世の中のどんなことでも時がくれば消滅し
てしまう。
昔から小数点以下の単位を「分、厘、毛、糸、忽、繊、沙、塵、埃
」と呼ぶが細かさも塵埃ぐらいになると,空気と同じようなもので
目に見えない。いろいろの物質が集まってできた物体は、みんな形
を持っている。そして色がついている。だから、仏教では物のこと
を色という。その色はという物は、その体積の分だけ宇宙の空間を
占領している。しかし、その物がどんなに高価な品であっても、時
が繰れば自然に寿命が尽きる.やがて微塵に砕けて、ついには塵埃と
なって見えなくなってしまう。
大自然の新陳代謝である。太陽の熱で海の水が蒸発して雲となる.雨
となって地上に降り注ぎ。また海に流れ込むのは,すべて因縁によ
って万物が流転している姿にほかならない。時は流れるというがが
物事の移り変わりというものは、そんなに早く音を立てて流れるわ
けではない.引き潮でも一度に引くものでなく、寄せては返しながら
うつっていく。色は必ず空となる。あせらず待つべし。
「空不異色」:この世の中の物質は,皆因縁により原子が集まって
分子となり,分子が集まってつくられたものだ。
この宇宙は,ある法則の基に動いている法界である。この法界は、
本来空ですが空っぽの空虚のことではない。なにかが一杯に満ちて
いる素晴らしい可能性を秘めた〈有)という存在であって「無」で
はない。仏教で「物質の根源は空である」をいうのは、「真空妙有
」といって真実の空の中には,たえなる素晴らしいものがあるとい
う。「無一物中無尽蔵」ということばも、なんにもない中に無限の
宝がふくまれていると強調する。科学者は、「物質の根源の素粒子
は波動である。」という。波動はエネルギーであり「真空妙有」そ
のものである。
このエネルギーが働いて熱を生じたり物質を作ったりする。エネル
ギーが動くことを気という。空気の中にはエネルギーが一杯詰まっ
ている。だから気を抜かず気力を込めて、元気一杯自分の能力を発
揮すべし。
「色即是空空即是色」は駄目押しで色も空も根本は同じものである
人間はどん底まで落ちたとき初めて今まで「オレがオレが」と思っ
ていた自我の意識がなくなる。そのときただの空間と思っていた空
の世界がパッと開ける。天地左右どちらにも無限に可能性がひろが
っている世界で自分はそこに生かされて活躍できることに気が付く。
これを「目からウロコガ落ちた。」心境と説く。
釈迦は原子物理科学者だったのでしょうか?
LDN小川
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(得丸のコメント)
小川さん、

コメントありがとうございました。
空とは素粒子であるという解釈もなかなか面白いです。
時間と空間は、あるところまでいくと、同じになる、ってこと誰か
言ってましたっけ?
そうならば、デルタtと素粒子も同じになるのかな?

たとえ素粒子であっても、空を空間として解くと、受・想・行・識
もまた空なりというところが、いまひとつ意味をなさないのではな
いかと思っております。

心のBBSの書き込みに書きましたが、受・想・行・識は、色とい
う時空間の中で展開する、心・思考・行動・諸法の動きだとすれば
、すべて時間の関数として置きかえることができるのではないかと
思っております。

そうならば、すべての式において デルタt が瞬間の変化量とし
て意味をもつのではないでしょうか。

まあ、こう考えたとしても、心の動きや思考に際して素粒子が動い
ているという言い方もできるのかもしれないなと思います。

釈迦がそう言ったのか、弟子がそう言ったのか、あるいは誰もそう
言わなかったのかもしれませんが、我々はそこにあるテキストをそ
のように解釈する自由を持っているといえるかもしれません。


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