458−1.ユダヤ人への偏見、華僑という名の幻影2



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その2 [華僑という名の幻影(1)] 
 
戦前の上海に「栄新紡績」という資本集団があった。中核は紡績3
工場と製粉2工場で、上海の最大産業資本だった。それが戦後台湾
に移って「嘉新グループ」となり、水泥(セメント)、製粉、紡織な
どから出発した。(日本の戦後は銀行と鉄鋼を頂点として出発した
が、台湾経済はセメント産業を起点に発進したと言われている。)
中山北路2段、英人設計による堂々とした嘉新の本社ビルは、長ら
く台北市のランドマークだった。2階吹抜け式の1階大ドームを張
社長経営の水泥、製粉の本社にし、3階を翁副社長率いる電線3公
司の本社にあてた。中2階ギャラリーと9階半分を占拠した紡織・
航空・鉄工は大番頭のM氏が指揮した。東南アジア一帯に広がるこ
のグループ会社の多くは、社名に「新」の字がつく。
 
いまから述べる情報の出所は、ボクの現地法人相棒だったM氏と、
国民政府の勲章、日本政府の感謝状、共産政府の信頼を共に得た蒋
君輝氏と、戦中に長崎総領事、儲備銀行重役を務めた柳汝祥氏から
の聞き書きによる。3氏を知る日本人は多い。戦後台湾財界でM氏
はジャパンロービー、蒋氏は小田急豪華大飯店のオーナー的存在、
柳氏は戦後の中国からの鉄鉱石輸入に関与した。
 
「戦前上海の華僑資本」
華僑とは海外に住む中国人のこと。「上海の華僑資本」というのは少
々おかしな表現だが、むかし上海で覇を唱えた産業資本家たちは、彼
ら自身を上海における「華僑資本家」と思っていたらしい。中国とい
う国家が存在するかどうかさえ曖昧な上海は、彼らにとっては外国に
近かった。
 
一例を挙げる。租界が中心の上海では、警察とは英国租界工部局だっ
た。「工部局に召喚された」とか「工部局に逮捕された」などの言葉
は戦前派に懐かしい。ボクなど、警察のことを中国語で「工部局」とい
うと思っていた。 英国が租界を造成した主務官庁は「工部局」、つま
り建設局で、あとあと補修から治安まで同局が担当し、「工部局」イー
コール「警察」になったのである。 中国という国家政府が無いも同然
だったからのことである。
 
厚生省に類する官庁も無かったから、資本家たちの同業会が経営する「
善堂」と称する慈善団体がその部分をカバーした。いまでいうNGOの
大型で、上海には大規模な善堂だけでも13を数えた。善堂の理事たち
は社会的尊敬を受け、それが彼ら華僑(?)の間のステータスになった。
金儲けだけに専念する中国商人(華僑)というイメージが我々の間にあ
るが、彼らの間では慈善家でなければ立派な実業家と認められなかった。
カネだけでは尊敬が得られなかったのである。
「春は花咲くフランス租界、秋は落葉の南京路」、そして「魅惑の魔都
上海」というイメージが日本にあったが、それは、都市行政の仕組みを
知らず、無責任に街のファシリティーだけを利用した在留日本人の、上
滑り風景に過ぎなかった。
彼ら中国資本家たちは上海という異国で、お互いが協力して、自分たち
の社会を造成し、維持することに努めたのである。 彼らの出身地は江
蘇、浙江、山西省など全中国に散らばっていた。
 
日本人は華僑を「商人」という目でみる。だが彼ら上海実業家たちは自
分たちのプライドにかけ、自らを商人よりも「産業資本家」と規定した。
わがM氏などは言う、「われわれ上海系実業家は生産志向で、金融業す
ら2の次ぎ。中華料理屋などは、福建省辺りから海外に流れた貧乏人の
やむを得ぬ内職で、職業としては軽蔑された」。
 
「蒋政権と共に海外脱出した華僑資本」
はじめ海南島へ移るつもりの国民党政府は、水不足の情報を得て、急遽
避難先を台湾に変更した。台湾は旧敵、戦闘も覚悟した。 島民600
万に加えて、200万人が大陸から行く、果して食料はあるか。それが
最初の不安だった。 M氏自身の不安は台湾上空で霧消した。 空から
見る台湾の山は緑に蓋われていた。 それまで、緑の山など見たことも
なかった、「山が緑なら、食料もあるだろう」。 そしてその予感は的
中した。
 
終戦の上海は秩序がなかった。 日本ヘの帰りを急ぐ日系紡績人たちは、
閉めた工場群を紡績協会専務理事格の蒋君輝(東京高師数学科出身)に
預けた。 蒋先生は預かった綿紡・毛紡の全設備を蒋介石氏に渡し、蒋
国民党政府はその経営を中国系紡績人に任せた。 しかし間もなく、共
産政府の上海侵攻が始まり、上海紡績人たちは紡績設備の香港移転を図
った。 「紡績は中国全国民の財産である。遺していってくれ」との蒋
先生の懇願に負けた紡績業者たちは、おカネだけ持ってバンコク、香港、
台湾に分れて逃れていった。 紡績設備一切は、やってきた周恩来に手
渡された。 蒋先生の手柄である。
「是非残って、新中国建設に参加してくれ」との共産政府の懇望にも関
らず、「私は共産主義は嫌い」と謝絶した蒋先生は、病気の末子を残し
て香港に去り、ついで日本に移った。 病気癒えた末子は、周恩来の特
別命令で共産中国を離れ、香港を経由し、日本の父と合流した。 末子
蒋保熙は、ずっと後にボクの会社のモントリオール駐在員になり、父君
輝氏は旧上海繊維業界富豪ジェームス・リーの在日資産管理の名目で日
本に引退、余命を終えた。 
氏の著書「扶桑六十年の夢」と、衆議院議員故千葉三郎氏(元上海毛織
)が、そのいきさつを語っている。
 
「台湾へ逃れた華僑」
外資導入の特別制度のもと、旧上海資本を台湾に移転した旧榮新紡績系
「嘉新産業」グループの事業は順調に発展し、瞬く間に台湾随一の産業
資本にのしあがった。 副社長でプレイボーイの翁氏は「東南アジア夜
の帝王」のニックネームをほしいままにし、弟分のわがM氏も、同じく
「夜の副帝王」と渾名された。 しかし、順調な嘉新にも暗雲が漂いは
じめた。 台湾政府は、嘉新の資本が外資であることに疑いを持ち、脱
税の懸念を示した。 こうした場合に取るべき態度を、彼ら華僑資本家
はよく知っていた。 必要なのは社会奉仕であり、それによって現地政
府の歓心を買う必要がある。(おそらく個人的に裏金も要るのだろうが、
これについては聞き洩らした。)
 
嘉新はそのモデルをバンコク華僑に求めた。バンコク銀行オーナーの余
子亮氏はバンコクの目抜き通りに巨大な商業ビル「余子亮慈善基金ビル
」を建設し、その店子家賃を慈善事業の原資に回すこととし、国王の信
任を得てタイ随一の華僑系市民としての立場を不動にしていた。 もと
もとタイの王家は、200年前のタイ・ビルマ戦争に青年たちを糾合し
てビルマ軍を国境に追い払った中国人米屋の息子が初代で、タイの中国
人は外国人移民というほどのこともなく、今日でも泰国経済の70%以
上を握っているという。
 
台湾の嘉新もバンコクの余氏を真似て、台北に建てた本社ビルの不
動産収入を慈善原資とする案を立てたが、あまりにも高価な寄付に
つくので躊躇。代わりに「自由チャイナのノーベル賞」と銘打った
「嘉新文化基金」を創設し、毎年、全世界に住む中国系学者たちの
うちから数名を選び「文化基金賞」を出すことにした。 選考は政
府の高官と大学教授たちに任せ、基金本部を嘉新本社ビルに置いて
今日に至っている。 
こうした実業家の慈善志向は、上海以来の華僑社会における好まし
き慣習でもある。
 
だが嘉新と台湾政府の間は更に難しくなった。 原因は「外資」と
いう言葉の定義にある。
日本を真似て台湾政府も、所得税の減免を餌に「外資導入」を謀り
それに応じて上海系旧榮新グループが台湾に投資をしたのだが、政
府は「彼ら嘉新の資本は、もともと台湾固有のカネだ」と言出した
のである。 ややこしい話だが、嘉新のボスたちは、いまや中華民
国の実業家、つまり台湾人であって、持ってきたカネが外資とは断
定し難い。 しかしボスたちは、旧上海グループの本部はいまも香
港にあり、役員の大半も香港籍(英国籍)、そこからの投資は「外
資」だと言い張る。 もちろん彼らの多くは英国、米国、シンガポ
ール国籍などと、台北発行の中華パスポートとの二重国籍者である。
言い分は政府、嘉新どちらにもある。 
 
とどのつまり税法違反で逮捕される可能性ができた嘉新グループの
張社長と翁副社長は、東南アジアに向けて出国してしまった。 後
事を託された大番頭のM氏も、間もなく身の危険を感じてカナダの
娘夫婦のもとに身を寄せた(彼はモントリオールで、留学中のボク
の息子と相部屋だった)。 3人は海外から、台湾のグループ会社
をリモコンし、それで企業経営にたいして支障も来たさなかったの
は見上げたものである。
 
外貨、外資、外国籍などという概念は、華僑社会ではまことに曖昧
で、そのコンセプトが台湾政府で問題になったのは、戦後すぐの為
替管理法の素案作成に溯る。 
 
戦後、台湾の貿易制度を立案したのは、日本でいえば初代貿易庁長
官に相当する張氏とわがM氏で、それは日本の輸出入管理法と外国
為替管理法を引き写しによるらしい。
唯一つ、外国為替集中規則「総ての外貨は取得と同時に政府大蔵省
へ売り渡さなければならない」、というのはあまりにも実情から遊
離していて、従えない。 全世界に3000万人も居るといわれる
「華僑」と親戚関係のない中国人などは探す方が難しいし、二重国
籍の中国人などその辺に溢れている。その彼らが貰ったドルを政府
へ売り渡さないと刑法犯だと決めれば、まず台湾政府の高官から実
業家までがみなブタ箱入りになる。
 
結局、「外貨の保有は構わぬが、外貨立て取引は政府の管理下に置
く」ということで折れ合をつけたという。 どこまでが外国人(華
僑?)で、どこまでが中国人など、決められない。 M氏の説では
いまの台湾の主要人物で他国籍を取得してないのは微々たるもので
一朝、共産中国が攻めてきたら、台湾の主要10万家族くらいは外国
パスポートを提示して、難を逃れるだろう、とのことである。 
 
旧日本軍下士官何樹木氏は捕虜収容所の監督をしていたため、戦犯
とやらでシンガポールに抑留され、台湾へ帰ってきたら、いつの間
にか中国籍に変わってしまっていた。 彼が、「私は軍人精神真っ
直ぐ一本。それが戦後、中国人にされてしまって、大陸から来た外
省人と組んで商売し始めたら、ちょっと具合が悪くなると彼らはす
ぐ逃げてしまう。 軍隊で知った『いろはカルタ』の『に』に、『
逃げ足の速いシナ兵』というのがあったが、あれほんとうですな」
と言った。 
 
すかさずわがM氏が開き直る、「君ら日の丸を後ろに背負った台湾
人と違って、われわれ大陸の中国人は、速く逃げなければ捕まって
奴隷にされるか、殺されるか、二つに一つだ。 過去4000年、
10億の中国人が逃げに逃げて、そのうちいちばん逃げ足の速かっ
たのが、いま台湾に辿りついている。 そして次ぎどこへ逃げるか
いま考え中だ。 君らに我々華僑の心が判ってたまるか・・」。
 
じじつM氏は先年、長女夫妻をボストンへ移民に送りだし、次女夫
妻をモントリオールに置いて、ご自身すでにカナダ国籍を取得して
いる。もちろん一家全員とも台北発行の中華民国パスポートを保持
したまま。 何樹木伍長も、いまでは長男がワシントンDCで中国家
具輸入商、ボクが仲人した長女は豊中にあって今は日本人大谷芳子
旧名何月雲。早い話がみな「華僑」である。
 
「バンコクの華僑」
そのM氏が、台湾政府の彼への追及が緩んだころ、日和見のためモ
ントリオールから引返して来て、バンコクに長期滞在した。 何を
しているかと覗きに行ってみると、彼は聯泰紡という従業員300
0人、綿紡から衣料縫製までの繊維工場を臨時預かりしていた。 
経営者不在の紡績で、資本家たちに頼まれて社長代行を数日前から
やっているとのこと。
紡機10万錘に縫製ミシン1000台、大きくもなし小さくもない
上流から下流までの一貫工場。ところが製品の吐け口がなく、在庫
山積の上にまだ新しい品がぞくぞく出来て来る、という状態だ。
「これはイカン、おい電気の元スイッチを切れ」と、ボクの眼前で
異様な命令を出す。数分待たず、大きな工場の作業音が一度にスト
ップし、現場事務所の電灯まで消えてしまったのには驚いた。
 
「少々荒くたいが、こうするしか方法がない。もともと少ない経営
スタッフが辞めてしまって誰もいないのに、工場現場だけが稼動し
ていた」と、彼はいう。
「日本から商社や紡績の定年退職者を雇ってくれば、経営スタッフ
くらいいくらでも補充できるだろうに」と言うと、
「あれは日本のやり方で、不能率な部長・課長の費用や給料で儲け
がフッ飛んでしまう。我々中国人はごく少人数の幹部ですべてをこ
なす」と、M氏がいう。 
「けど、経営者不在にはならずに済むよ」、
「ウンまあどちらがいいか考えものだけど…」と、M氏も歯切れは
悪い。 このあたり、日本人と中国人の経営手法の違いかも。
M氏経営の台湾益新紡織は、工場写真が郵便切手の図柄に採用された
新鋭工場だが、本社のスタッフは20人弱だったのを思い出した。 
日本なら、さしずめ100人か200人のピラミッド式大陣容だろう。
 
工場休止した聯泰紡績は翌日、臨時株主会議を招集した。 台湾・シ
ンガポールの紡績から一人ずつ、マレーシア随一の精米業者、地元バ
ンコクの銀行家などが集まった。彼らの旅の速さに感心したが、あと
どのような結論を出したかは、その日の夕方バンコク空港をたって帰
国したボクは知らない。 「株主同士で、だいぶもめるぞ。こうした
事業を始めるには1年で元本を回収し、2年目には5割くらい紅利(
配当)が出せるという目論見が普通だからなあ」と、M氏が言った。
 
それから1週間ほどして、M氏も目出度く台湾へ帰り、心配した政府か
らのお咎めもなかった。 M氏モントリオール逃避行は2年に亙った。
 
「香港の華僑たち」
のち間もなく、ボクはM氏と香港へ行った。彼がどんな用で行くか知
らず、ボクは彼の香港の友人連中を見物したかっただけである。
まず彼らの香港事務所へ行く。 香港探題はたしか楊とかいった恰幅
のいい大男。もちろん上海系中国人で、香港でも繊維工場を持ち、「
豊新」とかいうモービル系の石油プロパンガス公司も経営していた。
判らぬ中国語で喧嘩するように議論する話の中に「丸紅」という言葉
がしょっちゅう出てくる。 あとでホテルへ帰ってM氏にきょうの話
の内容を説明してもらった。
「香港の事業はまあまあだが、近年創業したマレーシアのポリエス合
繊工場「新太公司」がうまくいかぬ。資金不足のため丸紅に10億円
(?)出資させた。年率10%配当と言ったら簡単に話に乗ってきた。
中国人ならば1年で折れて曲がる儲け、という話でないとだめだが、
日本は年1割の配当でOKだ。それも高飛車に、エラそうに言っておび
き寄せるのがコツで、日本商社相手に穏やかに下手にでるとすぐ傲慢
になる。こちらから機先を制して押しつけるに限る」というのが、楊
氏のきょうの自慢話だったとのこと。
 
なるほど昼間行った事務所に唐(タン)君という東京の私大出身、28
才の青年がいて、「先週までマレーシア工場へ出張していたが、社長
の仕事も工場長の業務もすべて一人でやれと言われるし、おまけに資
金不足で困る。何とかしてもらわぬともうマレーシアへは行かぬと駄
々をこねているところだ」とぼやいていたのを思い出した。 従業員
1000人の合繊メーカーを28才の男にやらせようなんて、ちょっ
と日本人には考えられぬ芸当と思った。
 
この話には後日談がある。 
かって一度香港を中心とした繊維産業に恐慌の時代があった。合繊
が行詰まり、日本の総合商社が軒並み貸し倒れを作った。「繊維コ
ンバーター」とかいう業種が脚光を浴びる少し前で、形式上の債権
確保のためか、「丸紅が「『○○テキスタイル・コンバーター』を
香港で立ち上げた」とのニュースが新聞紙上で大々的に報じられた。
じつはこの丸紅香港の繊維コンバーターは、同社からマレーシアの
「新太公司」に先年出資した分の終戦処理だったのである。 昔、
繊維貿易に従事された方の中には、いまなお記憶しているむきもあ
るはずだ。
 
楊氏の事務所へ行った翌日、わがM氏は、嘉新グループのオーナー
たちに呼ばれて別のオフィスに行った。 みるからに老人風の顔ぶ
れが数人集まっている。彼らが事実上の旧上海「榮新」、現台湾「
嘉新」グループのオーナー集団だそうだ。
 
ここでチョット注釈する。 中国人企業、つまり華僑資本はほんと
うの出資者が誰であるか外部からは判らぬことが多い。匿名の出資
が多く、その代理人が登記上の株主になっていて、ときとして内部
の者でも本当の出資者名を知らぬばあいすらある。ボクの台湾現地
法人もボクの名を表に出していず、「お宅の公司はいったい誰がほ
んとうの株主ですか」と、ボクに問いかける取引先すら居た。 公
司で、ほんとうの出資者にもっとも近いのは「仕入係」と「会計係
」であると考えて先ず間違いない。 「会計係」はカネを握るのだ
から、もっとも身近な身内、たとえば自分自身の太太(ワイフ)な
どをその位置につける。いちばん役得が多い「仕入係」も、たいて
いの場合出資者の近親と考えていい。
出資者、つまり株主権を大事にすることは驚くばかりで、すべての
決定権を握り、いかなる場合もそれに背くことは許されない商習慣
が定着している。日本などでは想像も出来ぬ厳しさである。だから
ある公司で予想外の決定がなされた場合は、蔭に隠れた出資者の意
向が働いたと考えていい。出資していない経営者の経営権など無い
に等しい。
ところが困ったことに実際の出資者が誰であるか判らぬ場合が多く
隠れた出資者を探り当てるのが一苦労だ。 出資者間でも出資比率
の差が大きく物を言い、会社の分裂に至るのも多い。 ほんの形式
的に法人化したと見た華僑の公司が、実は日本の上場会社などより
もっとハッキリと株主権を行使させている、という実態はあまり知
られていない。
 
さて老人連中に呼ばれたわがM氏は、そこでいったいどんな話をし
たか。
じつは上海以来の隠れた資本家グループである爺さん連中が苦情を
言っているのだ、「我々に大した配当もせずに、嘉新が台湾でどん
どん事業を拡大している。グループ資本家の一員であるとはいえ、
我々の代理人である張氏が、勝手に事業拡大のため出資者権利を蔑
ろにするのは許せない。番頭の意見を聞きたい」。
「いま頃は現地本省人資本家の台頭が著しく、早く企業規模を拡大
しておかぬと、我々海外資本企業が立ち行かなくなる惧れが出てき
た。我々が台湾へ持ち込んだ資本などたかが知れてい、たくさん持
っているように見せかけているものの、農地開放で得た土地証券の
換金による土着の資本には及びもつかぬ。それに台湾政府の税制面
での締め付けも厳しく、いま奮闘中だから、しばらく猶予してくれ
。」
というようなことで、仲間割れの兆候がはじまっているのだ。 一
枚岩の華僑資本に見えても、内部では年中揉め続け、不信の連続で
ある。
 
その老人たちの中で最年長、そして一人超然としている風に見えた
爺さんが居た。「あの爺さんは誰?」とその夜、ホテルの相部屋で
わがM氏に聞く、
「あの人も上海以来の紡績メンバーだが、10年ほどまえ、ナイゼ
リヤ政府の企業誘致に応じてアフリカで紡織工場を興し、現地政府
の事業独占認許によって大儲け。一家が西アフリカで貴族のような
生活をしていて、東南アジアの事業など勝手に、お好きなようにや
ってくれ」
と、言っていたのだそうである。 アフリカの紡績で成功した華僑
もいるのだ。 (続く) 


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