454−2.白鳥コラム



地球温暖化問題について
白鳥 宙
人間が人間の都合で、自分たちにとって都合の悪いものを「問題」
として捉え、解決を図ろうとするのは当然といえば当然だ。だが、
そろそろ我々は気付かないといけない。人間も所詮は自然界にある
数限りない種の一つにしか過ぎないということを。
そしてそれぞれの種は、相互に連携を取りながら、或いは依存、或
いは競合をしながらそれぞれが生のドラマを繰り広げている。
そして、この自然界の調和を破壊するものが現れれば、当然それに
敵対して戦おうとするものも現れる。これは地球という巨大な一つ
の生命体がもつ生命維持機能として何者かによりプログラミングさ
れている。

地球が暖かくなったといっても、かって太古の昔は50度60度という
猛烈な夏もあっただろうし、マイナス50度の氷河期もあった。まあ
、その時代は、仮に人間が生きていたとしても、今ほどの騒ぎは起
こっていなかっただろう。昔から、自然というのは時として猛威を
振るうものであり、人間の制御が及ばぬものとして恐れられもし、
また崇拝の対象でもあった。

現代我々は、やれ温暖化だ、やれ氷河期だと騒いでいるが、地球自
身の歴史から見ればたいしたことではない。地球自身の意志で、
もっと体を温めたいと思えばそのような作用を何らかの形で起こす
だろうし、自分の体を冷やしたいと思えば、やはり何らかの手段を
考じるだろう。

そういう大きな地球の命の流れの中に、今の人類もいるのだと捉え
るとき、そうむやみやたらに騒ぎ立てるのも、やはり人間が弱くな
った証明だろう。物質文明が豊かになればなるほどに、人間の精神
は弱く貧しくなっていき、人間の生命力は衰える。
人間の諸行により、温暖化が激しくなり過ぎて、極端に生態系を崩
しそうになると判断すれば、地球自身が何らかの行動を起こすだろ
う。

地球自身が自己を守るために、全体としてみれば今は地球にとって
のガン細胞のような行動をとっている人類という種を絶滅させない
までも、何らかの形で大幅に粛清することは充分考えられる。それ
が自然による災害なのか、はたまた大規模な戦争なのか今は分から
ない。戦争というものは、人間の勝手な意識で引き起こしていると
一般的には思われているが、よりマクロの視点からみたとき、地球
の意志による人口調整機能だという説もあり、一概にこの説は否定
は出来ない。人間の意識というものも、深いところでは自分らが寄
って立つ地球の意識と繋がっているのではないかと思われる節々も
確かにある。

地球温暖化問題と言って騒ぎたてているのは、或いは人間だけかも
しれない。全ての動物は自然の摂理というものを受け入れている。
温暖化が進めば、確かに困る生物は人間の他にもいるだろうが、
また逆に喜ぶ生物もいるだろう。南極の氷が溶け水かさが増しても
、魚たちは別段困らないだろうし、ゴキブリや禿げ鷹たちは腐敗物
が多くなって喜ぶかもしれない。

もし、地球が、人類のせいで地球が温暖化し過ぎてよくないと判断
すれば、一番手っ取り早い方法は、地球環境を汚す人々だけを何ら
かの形で絶滅させることだろう。でもそうするにはどうするのが
もっとも良い方法だろうか。疫病をはやらせれば、地球を守ろうと
してくれている人々までも死んでしまう。そうなれば地球はこまる。
多分、一番良い方法は、自分の利便性だけを求めて都市部に集まっ
てくる人間だけを殺してしまう方法だろう。世界の環境を最も汚し
ているのは都市部や工場地帯だから、そこだけを潰してしまえばよ
いと判断する可能性は高い。それにはやはり何と言っても自然災害
を引き起こすのが一番だ。南極の氷を僅かに溶かし、地殻変動を伴
った地震を起こし、津波を起こす。世界の都市部の多くは海面いく
らもないところにあり、地盤も緩いところも多い。また巨大な都市
部の近くにある火山にも協力を要請するかもしれない。地球が本当
にその気になれば、ごく短期間で人類の大半が棲む都市部を壊滅さ
せてしまうだろう。

どの生物も増えすぎれば、自分たちで死滅行動を起こす。種全体を
維持するのに、自分が不要だと判断すれば、生命力の弱いものから
順番に海に飛び込んだり、岩にぶつかったりしながら死んでいく。
ところが人間だけは、自然界の摂理を忘れてしまっているので、
自分だけは生き残ろうともがきの行動を起こす。従って、やはり何
らかの形で、殺してやらないといけない。地球の意志がどういう
判断を人類に対して下すのか今は分からない。いずれにせよ、地球
自身にとっては、地表の管理者は今ほど多くはいらないのではない
だろうか。
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 詩  白鳥 宙

  バリバリ、モリモリ、ガリガリ食べろ!

  骨を噛み砕き、生き血を吸え!
  激しく襲え!
  メスを求めて激しく交われ!
  恍惚に浸り、絶頂を極めよ!

  汝の旧皮質を蘇らせろ!
  全ての道徳律を捨て去れ

  お前は野獣だ
  月に向かって、悲しく吼えろ
  汝のねぐらへ帰れ
  そこで夢見て、慄きうめけ
  お前の運命を呪い、人となる日を待ちわびろ
  そこがお前の出発点だ
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>     国際戦略コラム    NO.447−3      ???
> ナマステ
> しかし女性に対する考え方など相容れない点もあります。
> サシミの法則でいくと賛同者3割のうちの非賛同者3割でしょうか。
> これからも遠くで白鳥様のバイタリティーあふれるその活動を見守
> っていきたいと思います。
>
> あと、一つ提言があるのですが。
> せっかくのお誘いを断っておきながら何を言うかと思われるかもし
> れませんが、政党を起こすというのであれば、白鳥様の意見・主張
> をどのように政策に反映させていこうと思われているのかも主張の
> 最後にでも書かれてはいかがでしょうか。
> 白鳥様の数々の論文は平易な単語でかかれているとはいえ観念的な
> ことです。
> その内容について活発な意見の交換が行われてるようですが意見の
> 中には論者の意図とは別な受け止め方をしているものもあるかもし
> れません。
> しかし政策という形でそれが提示されたなら意見が同じ目的物を
> 対象としてより正しく交換されるようになると思うのですがいかが
> でしょうか。
>
> 資本主義の問題点にしろ、マスコミの報道姿勢にしろまた女性の責
> 任にしろ、党としてそれらにどう対処していこうと考えておられる
> のか、さらに議論が深まることと思います。
> それでは。

(お答え)

仰るとおりですが、文章化する時間がありません。私の「観念論」
に賛同なさっていただける方々にお集まりいただいて、様々な論議
を展開できたらと思っています。
サシミの中の3にも、サシミの中の3が存在し、その者たちが集ま
って、多種連結を組むのです。仰るとおり、もう一方の3は、もと
もと好みも嗜好も違う人々ですから、合い交わることはないのです。

インターネットを使っての議論も、時代の趨勢から生まれ出た物と
して、理解していますが、私は、実際に集って、「言葉」と「その
言葉に連なる感情」をも含めた議論を求めるものです。
時間が許せば一度お会いできたらいいですね。
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> for 白鳥さん
>  人間は,社会・家族・会社・学校・友達・国家・宗教など,さま
> ざまな糸につながれたマリオネットだと,私はおもいます。
>  「白鳥さんの言うように,自分の人生の主役は自分だ。」という
> 主張のもとで,その、さまざまなつながれた糸を断ち切れば,個人
> は「バタリ」と崩れ落ちてしまいます。
>  
>  シェイクスピアの「お気に召すまま」という作品でこんな表現が
> あります。
>  世界全体が1つの舞台
>  そして人間はみな役者にほかならぬ
>  それぞれに出があり引っ込みがあり
>  一生を通じてさまざまな役を演じる
> というものがあります。
>
> 個人の心意気や1つの人生の段階では,『自分が主役』という意識は
> 問題ありません。が,それが舞台つまり世界において,主役であろ
> うとすると,演劇になりませんね。
>  世界という舞台で,主役になったり,脇役になったり,観客の役
> になったり,裏方になったり,そうやって,全体が調和してると思
> います。
>  
> 最後に,天上天下唯我独尊という言葉ですが,その言葉をフリマワ
> ス暴走族と白鳥さんが,私には,同じモノのようにおもえています。
> goat

(お答え)
私にお付き合いいただき有難うございます。
あなたの側から見れば、私の文章もそのように見えるでしょう。
そして、それは確かに、あなたの性格や、生い立ち、そしてあなた
の現時点での限界からくるものであり、一つの捉え方として、それ
はそれで充分に尊重されるべきものなのでしょう。

ただ、正直言って読み終えた時、淋しい気持ちになった事を残念に
思っています。
私の感じ方が正しいのかどうか分かりませんが、未来に対しての
絶望感や、現代社会の失望感、あなたの人生の不透明感が伝わって
きました。
人間をマリオネットだと言われるのであれば、そのように演じた
人生も選択する権利は与えられているのですから、私は否定しま
せん。
しかし、糸を断ち切られれば、「個人」はバタリと崩れ落ちるかど
うかは個人的なものなので、断定は控えたいと思います。
次に、シェークスピアの書としての表現に、100名の読者がいれ
ば、100通りの解釈があるので、これについても、断定は避けた
いと思います。
そして「自分が主役」という点において、誤解・誤認識のある事を
付け加えておきます。
目立つことが主役の条件ではなく、幾通りにも舞台は存在するので
す。悲劇の人生もあるし、残酷なものもあります。
時としては、題名「空気のような存在」の舞台ですらあるやもしれ
ません。どのようなものであるにしろ、自分が存在する限り、自分
が主役なのです。更に言うなら、自分の存在しない場面の出来事は
、その時点では自分には無関係だという事です。
「天上天下唯我独尊」に対して、それを解釈する者が100名いれ
ば、100の宗教が出てくるのですから、明言は避けたいと思いま
す。
白鳥
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>  最後にお釈迦様の申された<天上天我唯我独尊>は自己愛を否定
> する次元にある言葉だと思うのですが。以上失礼を顧ずはじめて
> メールをしてみました。国際戦略コラムの論議をいつも楽しく拝見
> させていただいております。        合掌
> office−f

(お答え)

私は「心」で相撲がとれる人を人を捜しています。
言葉は「心」で理解するものだと思っています。
言語認識に次元の差があるようです。

「ニヒリズム」は、抽象概念でしかありえません。捉え方は民族に
より、人により捉え方はまちまちです。
「幸福感」や「懐かしい」という感情に昔と今、差があるとは思え
ません。
「時代への観念」も時代の何を捉えて、悲観的か楽観的は違います。
「利己愛」と「自己愛」は、根本的に違います。「自己愛」を否定
して生きられるはずがありません。自己愛こそ、博愛への出発点です。
「己教」の「己」、「自分」というときの「自分」は、少なくとも
私にとって、ちっぽけなそれではありません。
「天上云々」は、自分が認識する世界は、全て自分の一部だから尊
い、と悟った時に発した言葉だろうと捉えています。
「自己愛」と「利己愛」を正しく峻別し、office−fさんも
、もっともっと「自分」を愛し、自分を受け入れて、生きていって
頂きたいと思います。
人は「自分」超えることは出来ないし、また超える必要もないのです。
私の言う「自己」とは、もちろん我執に捕らわれた狭い意味でのそ
れとは違います。
白鳥

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