441−2.歴史教育の水平(国民)的ギャップと垂直(世代)的ギャップ



●得丸久文(273) 
歴史教育は、国家の意向やその国民が体験した現代史が作用するの
で、どこの国の国民として教育を受けるかで、違ってくる。(水平的
ギャップ)現代史の要因は同時に、同じ国の国民であっても、世代
によって異なった歴史意識を植え付ける。(垂直的ギャップ)

たとえば、君が代と日の丸について、昨今ずいぶんと世間を騒がせ
た事件が起きた。(たとえば国立や所沢で)
このような騒動は、僕が小中学校に通っていた昭和40年代には、起
きていなかった。僕は日教組の強かった大分県で育ったが、国歌斉
唱も国旗掲揚もごく当たり前のことだった。おそらく、戦後教育を
受けて育った人たちが、保護者の世代になったために起きた騒動で
はないだろうか。

ひとつ前の世代にとっては、当たり前のことが、次の世代にとって
は許し難いことになることもある。どっちが正しいのか。おそらく
前者は、特に深く考えたわけでもなく、国があるのだから、国旗や
国歌は当たり前だという気持ちだろう。これに対して後者は、国が
国歌や国旗をもつことを否定しているのではなく、日本の日の丸と
君が代に特別な意味を見い出して、それを忌み嫌っているのだろう。
でも、この人たちも、オリンピックやワールドカップの時には、
日の丸を振って応援したり、勝利を祝う君が代には涙することもあ
る。ちょっと不自然ではある。

同じ旗を見て、同じ歌を聞いて、正反対の態度を示すことがあると
いうことは、不自然だ。これこそイデオロギーのなせるわざである。
イデオロギーは、どうして身についたかというと、それは歴史教育
のたまものである。

ではどうしたら、不毛な対立を克服できるだろうか。
反君が代派は、「君とは天皇であり、天皇を崇拝する歌は許せない
」という。でも、「ここにいう君は、『あなた』という意味である
」という学者もいる。そうだとしたら歌えるのだろうか。それでも
歌わないだろう。その学説を認めないか、あるいは、「大東亜戦争
によってアジア諸国を侵略した忌わしい過去と結びついているから
歌わない」というかもしれない。いずれにしても歌わないのだ。
「ラマルセイエーズは、人民を解放した歌だからいいが、君が代は
侵略の象徴だ」とまで言うかもしれない。とにかく絶対歌わないの
だ。

反君が代派は、イデオロギーに汚染されているのだと思う。どうし
たら彼らはそれに気づいて、イデオロギーの呪縛から逃れることが
できるだろうか。

この難題を解くことができれば、国際相互理解も簡単にできるに違
いない。
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 ●得丸久文(293) 題名:わが党の直き者はこれに異なり
論語の子路320で、葉公が孔子に、「私の国には正直ものがいて、
その父が羊を盗んで時に、子がその事実を証言しました」といった
ところ、孔子は「私の町内の正直者はそれとは全く違います。子に
悪い点があれば父が隠してやり、父に悪い点があると子が隠します
。それが自然の性質に正直に従った行為ではありませんか」といっ
た、そうだ。

福岡の判事が、自分の妻に対する告訴を知って、証拠隠滅したり尋
問への答え方を指導したという事件を知って、論語のこの章句を思
い出した。孔子は、身内のためには隠すことが正直だと言ったでは
ないか。だとすると、この判事の行為はどのように受け止めるべき
なのか。

私はこう思う。孔子や葉公が話題にしているのは、そもそも正直者
についてである。正直をどこまでも突き進めて父のために不利な証
言までするのか、しないのかということの是非を論じているのだ。
ところが、福岡高裁の判事の場合は、そもそもとった行為が曲がっ
ている。職務の立場を利用して、法の番人であるにもかかわらず、
法に反した行為を自ら進んでとったのだ。これでは「直なる者」の
定義に入らない。自分の職務上の責任や倫理を貫き通すことができ
ない、文字通り犯罪行為に自ら手を染めたことになる。


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