440−2.人は誰でもいつかは死ぬ



白鳥宙

 それが遅いか早いかは別として、人間は誰でもいつかは死ぬ。
このことの現実をしっかり見つめて生きなければいけないのだと思
う。
 死というものを忌み嫌うものとして、それに目を閉じて、思考の
彼方へ追いやって生きているから、間違った道に反れた生き方を個
人も人類もしてしまうのかもしれない。
 人生というものは、始めがあり終わりがある。始めは誕生であり
、ゴールは死である。これは肉体が持つ宿命であり、何人もこの宿
命から逃れることはできない。逃れられないのであれば、その宿命
にしっかり目を向け、その宿命を受け入れて生きるしかないのだ。
適わぬものに抵抗してみたところでしょうがないのである。じたば
たするのはエネルギーの浪費というものだ。
 こういう極めて基本的な認識がなされていないので、延命措置と
称して無駄な医療費を使い、肉体というものに固執するのである。
 人類は長い年月をかけて文明というものを発展させてきたが、
そうすることによって、社会の中に生きる個人個人が昔の人に比べ
て幸福感と充足感を感じる度合いが増したのだろうかと考えてみる
と、はなはだ疑問だと思う。

 「シンプルイズベスト」という言葉がある。物や組織は複雑にな
ればなるほど壊れやすく、ちょっとした抵抗にも耐えられなくなる
ものだ。
 現代社会は複雑になり過ぎた。社会の機構も人々の心も。―――
何事も基本を忘れて基本をなおざりにしてうまく事をなすことはで
きない。私たちは誰からも生きる基本を教わってこなかった。「そ
んなことをするとバチが当たるよ」と子供を脅迫して躾た時代もあ
った。「そんなことすれば人様から笑われる」「勉強しなければい
い大学に入れない」「いい就職先にありつけない」―――こんなこ
とばかり教わってきた。今までの親や先生はこんな言い方で、彼ら
の描く「型」に子供たちを閉じ込めようとしてきたのだ。自我がし
っかり育った子ならここでこう言うだろう。
「それがどうしたって言うのさ。どっちみち死ねばみな終わりジャ
ン」って。
 こんな風にいう子供に対して、今の親や先生達は一体なんて答え
るのだろう。
「そう。死ねば全部終わってしまうわね。あなたの言うように。
でも、あなたが死んでしまった後も生きている人たちがいるのよ。
その人のことも考えてあげなくっちゃ」っと諭そうとするかもしれ
ない。するとその子は言うだろう。
「だってその人たちもいつか死ぬジャン。死んだら何も認識できな
いんでしょ。喜びや悲しみや辛さも。そうなれば楽ジャン。ぼく、
あの子が生きるのが辛いって言うから『死ねば』って言って上げた
んだ。生きて苦しむより死んで楽になった方がいいに決まってんジ
ャン」

 みんなは今こそ、こんな時代だからこそ、よくよく考えてみない
といけないのだと思う。人間が死ねば、その人にとって本当に何も
かも終わってしまうのだろうかということを。死とは、その人の存在
が完全に無になるのだろうかということを。
 こんな基本的な問いに対して誰からも明確な答えを教えてもらえ
ないまま、私たちは教育を受け、躾を受けてきた。教育する側の好
みに合わせた教育や躾を。それは全て教育する側の「要求」であり
「必要」であったのだ。
「親に恥じをかかせないために」「家の伝統を守るために」「子孫
を絶やさないために」「社会の調和のために」「社会を発展させる
ために」「国を維持するために」「人類を絶やさないために」――
―etc 
 もうそろそろ止めにしよう! 僕らは他人のために生きてるんじ
ゃない。俺は俺のために生きてるんだとハッキリ言おう。「国なん
かどうだっていい。家族なんかどうだっていい。社会がどうなろう
と俺の知ったこっちゃないぜ!」とハッキリ言おう。
 昔の人には知恵があった。「情けは人のためならず」(人に暖か
い愛情をかけてあげれば、自分が徳を積んだことになるという意味
)「天にツバすれば自分に返って来る」―――。

 私は今までの自分の人生を通して悟ったことがある。それはこん
な言葉で言えるかもしれない。「他者に与えたものは、例えそれが
何であれ、倍返しで自分に返って来る」ということだ。私は誰のた
めでもない、自分のために生きている。自分の人生は自分が主人公
だ。自分に関ってくる全てのものや人は自分の脇役でしかない。
そして脇役の人にとっては、やはりその人自身がその人の人生の主
役なのだ。
 だから、私はいつも「あなたの人生はあなたが主人公、そして私
の人生は私が主人公」だとハッキリ言う。だって、あなたが認識し
ている世界と私が認識している世界は違うから。人はみな一人残ら
ずそれぞれ独自の世界観を持って生きている。その人の心が捉えて
いる世界はその人だけのものであり、その人の作品とさえ言ってい
いと思う。人の作品を壊せば自分の作品も壊される。
 人は誰でも、「わたしの人生はわたしが主人公、わたしの住んで
いる世界はわたしが主人公だ」とハッキリ言えばいいのだ。それが
生きる自信というものだ。「己教」が最高の宗教なのであり、自分
以外の人を教祖の祭り上げるのは自分の弱さの告白に他ならない。
 私は自己愛の権化である。―――天上天我唯我独尊
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> kazunoo
> Re: 国際戦略コラムno.426-3日本のインテリゲンチャへ 白鳥さん
> に初めて質問します。よく解せないのでお答えください。
>
> 1.これの著者がだれであれ、この著書の意図、真意を知りたい。
> 煽り、皮肉、嫉妬、啓蒙。 
> どれかに当てはまる或はコンビネーション、或はどれも検討違いで
> しょうか。

(お答え)コンビネーションと捉えられた方が正解だと思います。
>
> 2.以下の引用文において
> >知者とは誰であるか。賢者とは誰であるか。
> >知者も賢者もいない。
> これは現在形或は現在完了形ですかそれとも過去形ですか。
> (そんな人は今までに存在しなかったということですか?)また、
> この著者の言われる賢者や知者の定義は何ですか。
>
(お答え)現在形です。あくまで著者の知る限りにおいてです。
「いない」の前に「ほとんど」が省略されています。
「賢者」とは「『天』の意志を知るもの」という意味で,「知者」と
は「『地』の意志を知るもの」という意味です。

> 3.以下の引用文において
>>「先生、先生」と呼んでもらえることは心地が良い。彼らは、他の同
>>業者より一歩優れたいと思っている。何のために? 何のためだか
>>わからない。とにかく仰ぎ見られるようになりたいのだ。
>
> もし彼らが、 
>>「先生、先生」呼んでもらえることは心地が良い
>>とおもっているのであれば、何のために? 何のためだかわから
>ない。とにかく仰ぎ見られるようになりたいのだ。
>
>ではなく、この著者の言うとおり、まさしく心地が良いとおもって
>いるからではないですか?

(お答え)「分からない」と言ったのは単なる皮肉でしかありませ
ん。「先生」と呼ばれることに心地よさを感じるのは、貧しく不安
定なアイデンティティしか持ち合わせていないからです。
本当に「先生」と呼ばれる人は、その言葉に不快感しか覚えません。

> 4.以下の引用文において
>>真理を愛し、真理を究めよ、それがあなた方の努めである。
>重複しますが、これは誰が誰に対して命令、或は提言しているので
>すか。

(お答え)著者自身も含めて、「真理」の存在を信じ、それを追い
求めて苦悩している全ての者たちに。著者から。

>また、ここでいう「真理」とは何なのか教えてもらえますか?ここ
>でいう「あなた」とは特に日本人全般をさしていますか?
>少なくとも、この発言者は、「真理」の定義を心得ていると思われ
>ますので。
>よろしくお願いします。

(お答え)
「あなた」とは前述の通り。
貴方の言う「煽り、皮肉、嫉妬、啓蒙」も含めて「摂理」と理解さ
れる意識の全てが「真理」 。


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