434−2.心の栄養失調で育った親子関係



現代の病根  心の栄養失調で育った親子関係

白鳥 宙

犯罪の数と質はその社会の病理を映し出す鏡だと言われています。
一人の犯罪者が出来上がるまでにはかなり大きな背景というものが
あります。ましてや現代のように様々な犯罪が多発する社会が出来
上がったというのは、現代社会の病根が、相当に深く、広範囲に行
き渡っているということを表わしていると言えるでしょう。
また最近は、精神科や神経科の窓口を訪れる患者が極端に多くなっ
ています。そしてその多くは、何々症候群と診断されます。症状が
重くなるとうつ病や精神分裂と診断されたりします。また過度のス
トレスにより身体的病理を引き起こすケースも多発しています。
そして今、最も大事なことは、一人一人が自分自身もこの病理に蝕
まれていないかどうか確認をすることではないでしょうか。私の感
じでは、八割方の人が、この現代社会の病根を持っているように見
えます。環境さえ整えば容易に発病するでしょう。
ストレスからの逃避が犯罪という形をとったり、ストレスによる挫
折が精神疾患を誘発したりするのではないでしょうか。そしてこれ
らは共に「幼稚な自我」しか形成し得なかった戦後社会の「家族の
あり方」に原因があると思います。

私たち戦後生まれは、物質的には「温室の中」で育った世代ですが
、その分、精神的には貧弱な環境下に置かれてきたように思います。
私たちの親の世代は、戦前の国家主義教育と戦後の個人主義教育の
大転換を経験した世代です。自分の親や教育者の主張が、ある日突然
逆転したならば、子供というのは一体どのような心理状況に置かれ
てしまうのでしょうか。深い不信感と挫折感に打ちひしがれて、
ある者は権威を象徴する親や教育者や国家に反逆を企て、ある者は
完全な自信の喪失に陥り、自暴自棄の中で享楽に身を投じることに
もなったでしょう。またそれほどの問題意識はなくとも、自信なげ
な親の態度に、自分自身も、おろおろと不安の中で青少年期を過ご
したという人もいるでしょう。そういう青年期を経た親の姿を見な
がら育った世代が私たち戦後生まれ以降の世代であり、その世代を
親として育ったのが、今キレている若者たちの世代です。

このように見てくると、現代社会の病理現象の根源にあるのは、
自分自身に対する「自信の喪失」であり、自己の存在に対する「不
安」であるということができると思います。そして自分自身に対す
る自信がないところには「未来に対する希望」もありません。
戦前の日本人は、自分の家族や先祖また地域社会や国家との連帯感
意識をもって生活を営んでいました。敗戦の後は、アメリカ的な
「個人意識」を強く植え付けられるようになりました。西洋の個人
意識的自我は「自」と「他」を明確に区別した合理思考から生まれ
ましたが、日本人の自意識は遠い昔から「他」との区別や分離が曖
昧なのが特徴です。全体意識が強い分、個意識が曖昧になっていた
とも言えます。一方西欧的な自意識は自分以外の「他」と同等か
それ以上のものとして意識されてきたようです。個と全体という意
識は、個が全体に馴染まないものとして、「個」の純粋性と独立性
を強調する意識であり、考え方であるといえます。ところが東洋的
日本的自我(個意識)は全体意識がその中に入り込んでいます。
一言で言うと「曼荼羅的自我意識」というものが東洋的自意識の
特徴と言えると思います。そして、そういう中で自分と自分を取り
巻く環境を非分離的に捉えていたのが日本的自意識と言えば言える
のでしょう。

このような自他意識を持ち続けた中で、現代の西欧の科学文明を取
り入れていたならば、きっと今ほどには、環境破壊も人心堕落も引
き起こってはいなかったでしょう。
ところが皮肉なことに、日本は戦争に負けてしまいました。それで
戦後は、西欧に追いつけ追い越せを目標に日本人の本来の伝統的自我
を捨て去り、全て何から何まで西欧の真似事を至上として突き進ん
できてしまったのです。その結果として、今の社会が出来上がった
ということではないでしょうか。
伝統的文化を一挙に否定して、伝統と文化の所産である人間が幸福
感や平安感を感じられることはないでしょう。人間の心というもの
は、それほど器用には出来ていないでしょう。

今、日本人に求められているのは新たな時代に向けた自我の形成な
のだと思います。
人間としての本来の心、そしてその上に、長年培われた伝統的意識
としての地域文化を否定して、物質文明が一人歩きしてしまってい
ることが最も問題なのではないでしょうか。
従って現代の病理現象は、時代に相応しい自我が、未だ全体として
築かれておらず、それがために、初めてぶつかった壁に対応しきれ
ないで、右往左往している姿だとも捉えることができると思います。

そして、これからの時代に相応しい自我を形成するのになくてはな
らない場所が、家庭であり学校であり、地域社会です。そして、
このことに気付いた大人たちが先頭に立って、まず身近なところから
子供たちの教育に係わっていくべきではないでしょうか。そういう
動きは、今全国津々浦々で動き出しつつあり、大いに期待を持って
いいのでしょう。物質文明が心を蝕んでいると言う言い方も確かで
しょうが、逆に言えば、物質文明に毒されるような自我しか育て得
なかった自分自身の責任という風に、特に教育に携わってきた教育
者や親たちが捉え直さないといけないのではないでしょうか。

今、一つの具体的な提案としては、家庭や学校の中で、感謝の祈り
や先祖たちに対する供養や祈りの時間を取り入れることです。日本
人は何千年に渡ってこの伝統を守ってきたのであり、守らなくなっ
たのはごく最近のことです。自分の命があることは自分の父と母、
そして先祖たちが愛の交わりをした結果なのであり、先祖と両親の
愛がなければ自分は生れて来なかったのだということを、折につけ
子供たちに言ってあげることは最も大切なことではないでしょうか。

心を養う上では、祈りや瞑想(黙想)と言うものは大変重要だと思
います。人生の八割方は「待つ」ことにあるにもかかわらず、現代
人は待つということが出来なくなっています。待てないところに
忍耐力も深い心も育ちようがありません。待てない教育というもの
もありません。功をあせりすぎれば必ずといっていいほど失敗しま
す。教育こそは国家百年の体系であり、気づいたものが、気付いた
ところから取り掛かるべきです。

もう一つの提案は、子供たちに農業を奨励させることです。自然の
動植物を育てることで、忍耐力や「待つこと」の大切さや祈りや感
謝の心も自ずと生まれてくるのではないでしょうか。
戦後は、特に都市部で、かぎっ子が数多く生まれ、親の働く後ろ姿
を見ないまま子供たちがテレビを相手に育っていきました。そのか
ぎっ子たちが大人になって産んだ子供たちが、今しらけたり切れた
りしている子供たちです。自分の親の働く後ろ姿を見ないで育った
大人は、自分の子供に後ろ姿で教育はできません。働くことの尊さ
もその悲哀も分からずに、短絡的な興味の赴くまま現実感覚を喪失
して生きている青少年はいま数限りなくいます。そういう子供たち
は、現実のちょっとした困難にも対応できず、逃げ出したり、潰れ
てしまったりします。

また昔の人々は「思いやり」というものを無意識の内にも他人に注
いでいました。現代はあえて「思いやり」や「親切」を標語にして
掲げなければいけないほどに、思いやりや親切心がなくなってしま
ったのです。「自己犠牲」という言葉も、それを意識せずに行って
いたのが我々の世代の祖父母たちでした。そしてそれは、遠い先祖
から受け継がれた「未来(子孫)に託す心」なのです。現代は何事
につけ、西欧流の権利主張がきらびやかです。こういう世の中が果
たして幸せな世の中なのか、立ち止まってもう一度良く考えてみな
いといけないでしょう。


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