431−1.資本主義の終焉について



(白鳥 宙の回答)
 421−1虚妄に踊り狂った二十世紀という時代にコメント
  ヤムホイ
>今こそ日本人は巨額の個人資産を世界
>の貧しい人々のために放出しないといけない。かってイエスは「金
>持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」といっ
>た。日本人の持っている個人資産の10パーセントを世界のために
>放出したならば、環境問題も食糧問題も解決するだろう。
>
 これは無理ではないでしょうか。いくらボランティアが大事でも、
 自分の財産の10%もつかうでしょうか?それに、資本主義世界で
 は金儲けは善です。イエスは資本主義でない時代だったからで、
 中世を経て金儲け(利子・利潤の追求)は善であるとなったから資
 本主義が発達できたと小室直樹先生は言ってます。(『資本主義の
 ための革新』より)環境破壊は深刻であることはわかりますが、今
 の生活水準を下げるのには反対をいう人はおおいのではないでしょ
 うか?リサイクルとかフロンの規制みたいな環境対策は必要でしょ
 うが、それが景気悪化を招くならなかなかすすまないでしょう。
 技術の進歩(環境にいい方向の)しか手はないと思います。

 いま日本人に求められているのは真の意味でのボランティア精神と
 いうのは理想的すぎて、現実にはないのではないでしょうか。
 環境ベンチャー(?)が金になる時代がくればいいんでしょうけど
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ヤムホイ様
「古い酒は古い皮袋に、新しい酒は新しい皮袋に」
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」

何事も「時代的要請」というものがあって生まれてくるものだと思
います。
資本主義という一つの社会形態にしても、それが必要だったから生
まれたものだと捉えられます。
ですが、一つの「主義」と呼ばれるものが永遠に続くということは
ありません。
主義は所詮主義であり、理性が生み出した一つの思惟概念に他なり
ません。資本主義というものも、もうその時代的役割を終えつつあ
るというのが私の認識です。

金儲けが悪いことであるという認識は毛頭ありません。確かに金儲
けは善として資本主義経済は発達してきました。それはそれでよか
ったのでしょう。
ただ、今、一部の人々の意識や欲求がこの資本主義を超えようとし
て悶えているということもまた事実なのです。
そしてこの欲求は徐々に大きくなりつつあります。

もともと物々交換から始まった人間社会の商取引は、その便利さか
ら貨幣というものを生み出しました。
そしてその利便性の故に人はこれを蓄える事を皆が欲したのです。
それは最初は、家族を養うというのが目的だったのですが、その後
、人間は様々な物品を欲するようになり、意識が徐々に贅沢になっ
てきました。そして支配欲の強い者は、この貨幣を材料に人々を
支配しようと思うようになりました。
それを、法律的に制度化したのが今の資本主義社会です。

そして資本主義は、当然の流れとして「富る者(強者)」と「富ま
ない者(敗者)」を生み出します。
敗者には敗者ということを意識させないで、ひたすら中流意識を持
たせ、贅沢病を煽ることが強者の務めとなります。
敗者が敗者と自覚して皆が浮浪者となってしまっては、自分たちが
儲からないからです。
それで皆ひたすら豊かになろうと「がんばる社会」が出来上がって
きました。

そして、その行過ぎた結果が、今の社会を生み出したのです。人心
腐敗、環境破壊、南北問題、その他諸々の問題が噴出しているのが
現代社会です。そして全ては人心道徳の荒廃から引き起こったこと
なのです。

人間としての原点を忘れた文明の中では、物質的にいかに豊になろ
うと、人々の心は空しくなり、その虚無感を癒すべく、享楽に溺れ
たり、麻薬が横行したりするようになります。また、未来に希望が
見出せない社会の中では、短絡的な犯罪も多発するようになります。

このような社会の中では、また一方では、人間性復興的な運動も起
こります。自然保護運動や各種のボランティア、宗教意識の復活な
ど。
また知識人たちの間では、アイデンティティクライシス(自己存在
意識基盤の危機と喪失)が起こります。
でも、考えてみれば、セレモニー的な運動や観念的な概念言語が数
多く生まれる世の中というのは決して「幸せな世の中」ではないの
ではないでしょうか。
ボランティアと意識する時、それは純粋なボランティアではなくな
り、自分のアイデンティティーというものを意識した時点で、アイ
デンティティーは無くなっているのです。

知識人は、不安を除去するために「分析」を欲し、数多くの「言葉」
に頼ろうとします。また人の上に立とうと名誉や権力を欲するのも
実は「不安」の表れであり、自己喪失感を穴埋めするための手段な
のです。

私自身も現代という時代の申し子であるとの自覚を持っています。
それで、すぐに分析を試みたり、数多くの言葉に頼ろうとした期間
が長くありました。しかし今は「心」や「情感」が大切なのだと思
っています。でも本来は、日本をリードするべく知識人たちの啓蒙
を計るには無学ではいけません。数多くの言葉を知っていなければ
相手にしてくれません。それで私もいやいやながら最近また新聞に
も目を通し始めるようになりました。

ボランティアは無理で、生活水準を下げるのを嫌がるというのは確
かなことです。でも「無理だ」と言ってしまえば無理でしょう。
今最も大事なことは、気づいたものが気づいたところから、「行動」
を起こすことだと思います。そこにおいては色々なやり方が考えら
れると思います。
今は皆に危機感が希薄です。今私の友人は海に足をつけて「地球」
と対話をしています。彼は若干の霊感があり、最近地球の「嘆き」
と「苦しみ」が体に伝わってくると言います。今我々は人間中心の
思考形態を改め、「人間にとっての地球」という発想から「地球に
とっての人間」という発想に切り替えないといけないのではないで
しょうか。自分たちは自然を離れては生きられないのだということ、
そして、自然界に置かれた「種としての人間の使命」について深く
自覚をすることが大切なのではないでしょうか。

私が使う「人心道徳」また「人間の原点」という言葉に対して「そ
んなものはあるのか」という言い方をされる人がいるかもしれません。
でも現在のところは、やはり太古の昔から残されてきた先人たちの
智慧を指針とした生き方を目指す以外に今の危機を回避できる術は
ないのではないでしょうか。
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  資本主義社会における強者(勝者)と弱者(敗者)
              〜踊らせる者、踊らされる者〜

資本主義というものの概念は、全ての概念がそうであるように、
時代と共に変遷する。現代における資本主義というのは、人間の
欲望是認、更に言えば、欲望を煽り立てることによって、資本を増
殖させようという考え方に立脚している。資本主義という言葉の通
り、資本の増殖を最重要価値とする社会が、資本主義社会である。
これが、マルクスが言うところの下部構造となって、その社会に生
きる人々の意識(上部構造)を決定していくということになる。今
現在、資本主義社会の中で生きる人々の意識領域のかなりの部分は
、「お金」に関する関心事で支配されている。

 マスコミというものがある。マスによるコミュニケーションは、
テレビ、新聞、雑誌、どれもそうであるが、それができた当時は
コマーシャリズムというものとは無関係であった。それらは最初、
純粋な意味で情報発信源として作られたものであった。
ところがうまい具合に、資本主義社会における企業や商品のPRと
いうものとマスコミが結びついた。コマーシャリズムの誕生である。
 マスコミといわれる株式会社も、資本主義社会における一つの企
業であるから、資本主義の原則に則った行動を取るのは当然のこと
である。新聞や雑誌は購読料が収入源になるからよいとしても、
民法テレビやラジオはスポンサーというものがいないと成り立たな
い。だから、スポンサーの意向に沿った番組やCMを流すのは当然
のことであり、原理に則している。スポンサーの意向は、自社の
商品が売れることである。

自社の商品がより多く売れるためには、より高い視聴率を上げるこ
とが必要不可欠であるから、より沢山の人が見たり聴いたりする
番組をスポンスすることになる。従って、マスコミの最大の関心事
は「視聴率」であり、「購読者の数」ということになる。ポルノを
大衆が好むのであれば、ポルノ番組を作らねばならないし、暴力ざ
たを好む若者が多くいれば、暴力番組を作ろうとするのは当然だ。
これは極めて自然な流れである。
 青少年の意識の廃頽はマスコミが悪いといって、「リンリ、リン
リ」と蝉のように叫んでいる人が最近多いが、資本主義という制度
の中にマスコミ自体もあるのだという現実に先ずしっかりと立脚し
てものを考えないと問題の解決には至らない。いわゆる倫理主義者
というのは、問題の本質的な捉え方が甘い場合が多い。また、倫理
を声高に叫ぶ人の中には、アタマ人間が多く結構倫理的でない人が
多いのもまた事実だ。

 もし「倫理」が金になれば、放っておいても企業もマスコミも倫
理に飛びつくはずだ。今は倫理がお金にならないのだからどうしょ
うもない。従って、倫理をマスコミや企業にお願いしても、金にな
らないことはやりたくないというのが本音だから、無駄なのである。
 さて、資本主義社会においては、市場における商品ニーズを高め
なければならない。人々の欲望を煽り立てなければ企業はものを
大量に売ることはできない。ある市場が手一杯になれば、新しい市
場に出かけていくか、既存の市場で新たな欲望のネタを探し出して
、大衆を煽り立てるしかない。そこで一番良い方法は、「ヒーロー
」を作り出すやり方である。そこで企業やマスコミに利用されるの
が、芸能人やスポーツ選手たちである。お堅い知的な雑誌なら、
著名な作家や学者らを広告に使うことになる。

 それでは、人間はなぜヒーローを求めるのだろう。それは人間の
自己投影意識である。自分に代わって自分の夢を実現してくれる人
がヒーローである。多くの人は自分の能力や才能に自信がない。
大抵の人は、自分の心に「不安」を持っている。ヒーローはその自
分が持っている不安を払拭してくれる英雄なのだ。熱狂的なファン
というのは、ヒーローと自分を同一視してしまう。従ってヒーロー
たちのブランドグッズが売れるということになる。
 どの人間にとっても、自分の人生は自分が主人公なのだが、自己
の持つ不安故に、主人公を演ずる勇気や自信を持ち合わせておらず
、ほとんどの人は、脇役に甘んじてしまう。そしてそこには「責任
」というものが伴わない。だから、昨日ヒーローだった人も今日は
袋叩きの目に遭うこともままある。ヒーローの活躍を報じてもヒー
ローのスキャンダルを報じても金になるのがマスコミである。

そしてヒーローのスキャンダルは最も高い視聴率を上げられるので
ある。アメリカのスパースターのシンプソン裁判やダイアナ姫の
スキャンダル報道では数兆円の経済効果があったそうだ。シンプソ
ンがクロだと報じたのもマスコミなら、裁判前日にシロだという
証拠を作り出してしまうのもマスコミである。裁判官といえども
マスコミや大衆の大きな反発を受けるような判決を出せないのが現代
である。
 大衆というのはことほど左様に無責任なものであり、その無責任
さに付け込むのが資本主義社会における企業やマスコミのやり方な
のである。
 時代は既に、一人一人が自分自身の人生を自分が主人公(ヒーロ
ー)として生きられるインフラが整備されているのに、自我があま
りにも幼いが故に、未だにみんなヒーローを求めているのである。 
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      皆が「心体障害者」

人間は誰しもが、多かれ少なかれ心か体に病(怪我)を持っている。
程度の違いがあるだけだ。
自分だけが健常者だと思っているところに、現代の不幸がある。
度重なる犯罪に対し、これを狂気だと決めつけ、自分だけを蚊帳の
外において評を弄する人々というのは自己反省が足りないと言わざ
るを得ない。従ってそういう評というのは犯罪者を更生させること
もなければ、世の中を良くすることにも何ら役立ってはいない。
単なる冷たい評論家になっているか、もしくは自分の鬱憤をテレビ
カメラの前でぶちまけているだけだ。

青少年問題という名のもとに、多くの大人たちは、これを解決せん
として様々な企てをしているが、大人たち一人一人が、自分自身の
生き様と、現在の自分自身の心を深く反省することなしには、何の
問題も解決しないであろう。
多くの人間は、大人でも子供でも、状況さえ整えば犯罪を犯してし
まうのだと認識することは大事なことだ。安易な気持ちで犯罪を明
かしてしまう人も確かに多いだろう。だが、多くの犯罪は、当人に
とって見れば、病むに病まれぬ極限状況に心理的に置かれて犯した
ものなのだ。端から見れば「何だ、そのくらいのことで」と思うよ
うなことでも、当人にとって見れば深刻な状況だったのかもしれな
い。

「人間を殺してみたかった」と平然と言う若き殺人者をみな異常者
だと決めつけているが、今の時代状況の中に置かれた若者たちの
心理状況を思い計れば、あながち異常心理者だと断定することはで
きないと私は思う。
彼が正確に言いたいのは恐らく「人を殺したとき、自分がどんな心
理的状況を味わえるのかということに興味があったので殺したのだ
」ということではないかと思う。
現代は、自分が『生きている』という実感が乏しい若者が数多くい
るように思う。生きている実感というのは血肉沸き出ような躍動感
であり、またほのぼのとした平安感や安堵感だ。ここに人間は「生
の充実感」を感じるように出来ている。ところが現代は、この二つ
の感情を味わうことの出来にくい社会の構造になってしまったのだ。
全てがシステム化されて、まさに生死を賭けるような躍動感を社会
の中で感じることが出来ず、家庭もほのぼのとした安堵感を与えて
くれる場所ではなくなった。

危険にさらされている時、人間は安全を志向するが、安全と平和が
長く続き過ぎれば、本能としての旧皮質が疼きだし、あえて危険な
場所を求めるようになる。現代社会の中でそれを辛うじて満たして
くれるのが、格闘的なスポーツの観戦やギャンブルや、子供たちに
とってはゲームの中での勝負事になっている。しかし、これらは
文字通りの「生命を賭けた」勝負事ではないので、旧皮質的欲求の
強い者たちには、心が満たされないものが残ってしまう。自己の全
存在を賭けた勝負事に対する憧れだけは持っているが、余りに安逸
に慣れすぎた現代人は、それを文字通り行う勇気も意志も持ち合わ
せてはいない。
殺人さえもバーチャルな感覚で行ってしまうほどに、「存在に対す
る希薄感」が社会全体を覆っているのだ。

昭和という時代は激動の時代だった。国家個人主義から極端な国家
主義、そして戦後は一夜にしてアメリカ流の個人主義を強要された。
そして現代は環境主義とやら言う言葉も飛び出してきた。
人間は、教えられた情報によってしか価値観を形成し得ないのに、
それぞれの世代が教わってきた教育がばらばらなのでは、世代間の
対話というものは難しい。
「今の若者は云々」という言い方は自己反省ができていない者の言
い方だ。今自分が、もし小中学生だったらどういう生き方をしてい
るだろうかと想像力を逞しくして、現代社会の問題を捉えて見ない
限り、現代の青少年の心も犯罪者たちの心も分からない。従って何
の問題も解決しないということになる。
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> (Fのコメント)
> 白鳥さん、もう少し砕けた言い方できませんか??
> どこかの政党の演説を読んでいる感じで、庶民感覚に乏しいのです。
> 今までの政党にはない言い方がほしいですね。
> 言っていることは、非常にいいのですから。このコラムの趣旨と同
> じです。同志現るの気分なのですが。

(ご返答 白鳥 宙)
すいません。物質的には貧困層なのですが、精神的に自分は上流階
級意識が根強くあり、なかなか庶民感覚になれないのです。お許し
ください。
でも次回からは、もっと庶民感覚を演出してがんばりたいと思いま
す。

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