430−1.現代芸術より難解な現代世界をとく“カギ”



    現代芸術より難解な現代世界をとく“カギ”
    ー 真実が見えなくなった時代に“智”を求める
           (国境のない惑星2)      得丸
現代芸術との対話
早春の「養老天命反転地」を訪ねてみた。
ここは現代芸術家荒川修作氏が設計したテーマパークで、約2ヘク
タールの空間的広がりをもつ現代芸術作品。岐阜県養老町に
昨年(1995年)十月オープンした。

一般に現代芸術は、常軌を逸した奇抜な造形を提示して、常識や通
念に縛られている私たちの思考をもみほぐそうとする。

一方で私たちは理解の限界を越えたものを前にすると、まず居心地
の悪さや違和感を覚える。それにもめげず、既得の経験や語彙を使
ってむりやり作品の理解なり説明を試みるが、どうもぴんとこない。
そしてすぐに疲れて、作品から目をそらし忘れ去ってしまう。

実は、最初に感じた違和感や居心地の悪さを大切にし、それにこだ
わることが、作品との対話のきっかけになるのだが。

反転地の「使用法」
公園全体が作品となっている反転地に一歩足を踏みいれると、普通
の街や家とはひと味違う環境の中での「生活」が始まる。

公園に入るなり、「極限で似るものの家」という建物に出会う。
これはたくさんの壁がゆがんで入り組んだ迷路になった家で、いろ
いろな入り口から中に入ることができる。斜面になって安定感を欠
く床の上に、ベッドや便器や冷蔵庫や机などの家具が多数配置され
ている。壁によって分断されている家具もある。

同様なつくりの家が上に逆さに覆い被さっており、その床を見上げ
ると下と類似した配列でたくさんの家具が置かれている。

来園者が普段のペースでずんずん公園内を歩き抜けて、対話の機会
を逃すことがないように、荒川は「使用法」を用意し全来園者に
配布している。

この家の「使用法」は:
* 何度か家を出たり入ったりし、その都度違った入り口を通ること。
* 自分と家とのはっきりした類似を見つけるようにすること。
  もしできなければ、この家を自分の双子だと思って歩くこと。
* 今この家に住んでいるつもりで、または隣に住んでいるような
  つもりで動き回ること。
* 思わぬことが起こったら、そこで立ち止まり、二十秒ほどかけ
  て(もっと考え尽くすために)よりよい姿勢をとること。
* どんな角度から眺める時も、複数の地平線を使って見るようにす
  ること。

「使用法」に従って歩く
常識の理解を越える家の中で、私たちは言葉を失う。それが普通、
それでいい。本当にわかったという確信がつかめるまで、言葉にす
る必要はないし、むやみに言葉を発するべきでない。

すなおに「使用法」に従って歩き回ってみる。三十分もするとだん
だん様子がつかめてくる。最初は未知の迷路だったものが、二度三
度歩いていくうちに勝手知ったる既知の道に変わる。

多くの道が吹きぬけになっており、冷たい風が吹き込んできて手が
かじかむ。風のこない一角を見つけてひと休みする。

ベッドは硬質のプラスチックで、電話機の受話器や便器の蓋は持ち
上がらず、置かれている家具は使用に適さない。外見上の姿に懐か
しさを覚えた他の来園者たちが「トイレがあった」「電話だ」と叫
ぶ声が奇異に聞こえ、「どこにも通じない電話機やおしっこのでき
ない便器を電話やトイレと呼んでもいいの」と内なる声がつぶやく。

こうして対話が始まった。
「使用法」は悟りへの導き
「使用法」は、私たちを現代芸術との対話が可能な状態に導く。
それは禅の導師が弟子を悟りに導く過程のようでもある。

ためしに、鈴木大拙著『禅』(ちくま文庫)を読むと、「使用法」
と似た言葉に出会う。
* 世界と自己をふたつの異なる存在として二元的に捉えてはなら
  ない。自己を世界の中心に据え、世界と一体化せよ。
*問いを解くとは、それとひとつになることである。このひとつに
 なることが、そのもっとも深い意味において行われるとき、解決
 は一体性の中から自ずと生まれてくる。
* 実在を理解するための道具である概念を、実在であるかのように
  扱うな。概念にとらわれて、実在を見失うな。
* われわれの心にある一切の概念を空にせよ。そして実在をあるが
  ままに正しく見よ。そこから愛が生まれる。
* 知性で理解するな。知性には貪(むさぼ)りや憎しみを除く力が
  ないので、力と征服が支配する現在の世界を救えない。

現代芸術より難解な現代世界
鈴木大拙の言葉と反転地の「使用法」が似るのは、反転地が鑑賞を
目的とする芸術作品ではなく、自己と現代世界を(禅的に)一体化
するための訓練場だからだ。現代芸術と比べれば、現代世界のほう
がはるかに複雑で理解しがたい。芸術は存在する場所も人間に及ぼ
す影響も限られているが、世界では日々各所で、力による征服や
殺戮に伴う悲劇が生まれている。

国際報道が現代世界と私たちを日常的に結び付ける。テレビや新聞
は、戦禍や難民の痛ましい映像や記事を送出する。だが報道は私の
心に響かない。想像も及ばぬ残虐さや理解を超えた展開に、私はた
だ言葉を失う。おいおい関心も薄れてくる。

たとえば報道は旧ユーゴ紛争を「民族紛争」という概念で説明し、
私たちの意識に「民族問題は殺戮を生む」という定理を植え付けた。
私たちの思考はこの概念や定理に行き着くと停止し、原因や背景へ
の関心も失せる。私たちは悲劇を自然現象のように受け止めるよう
になる。

国際報道の舞台裏
国際報道が真に迫らないのはなぜだろう。ベトナム戦争終結時を
サイゴンで迎えた新聞記者の体験談を聞いてみよう。(古森義久・
近藤絋一著『国際報道の現場から』中公新書、1984年)

古森「日本で得た予備知識で、南ベトナムの民衆は90パーセント
ぐらいは解放戦線、北ベトナムを支持していると思っていた。とこ
ろが実際に取材してみるとまるで違うんだな。十人のうち八人は、
南ベトナム政府も嫌いだし、アメリカにも文句がある。けれども
ハノイ政権や北ベトナムはもっとずっと恐ろしく嫌いだという(略)」

近藤「それまで得ていた知識と、現場で肌で感ずるものとが違う(略)。
報道が現実に遅れているぞ、と。その格差を埋めるための闘いが
サイゴン特派員の主要な仕事になっていた(略)。ベトナム戦争の間
、日本の新聞報道はどえらい間違いをやって、軌道修正できないま
まにサイゴン陥落を迎えた(略)。いまだにそれが活かされていない」

本書によれば、そもそも特派員がきちんと現場を取材し、理解して
記事を書くことが少ない。

すなわち、外国での取材のやり方についての指針や基本ルールが
新聞社にないこと、日本人特派員の比較的短い駐在期間と語学の
ハンディ、現地の人間が持ち込む記事や外電を裏を取らずに翻訳し
て自分の記事として送る慣行などが指摘されている。

現地になじんだ一部の記者は、西欧社会が作った概念にあてはめて
それ以外の社会を表現することの難しさを実感する。民主主義、人権
、公正な選挙などの概念ではあるがままの現実を言い現し尽くせな
いことに気づき、言葉を模索し始める。

苦しんだ末に、記者が現実に迫った原稿をものにして送っても、
特派員電よりも外電を信用しがちな東京本社がボツにする。

当地(ロンドン)の特派員に本書の内容を確かめたところ、全て認め
た上で、「しかし真実に迫らないという点では、国内報道の方がひ
どいよ」とさとされた。うーん。

報道機関は現実をいったんきちんと理解した上で、それを視聴者や
読者がわかるように伝える義務があるのでは。もっと真実や本質に
迫ってほしい。

鈴木大拙の言葉を繰り返そう。世界と一体化し(世界のできごとに
責任をもち)、概念にとらわれず(あるがままの現実を先入観なく
見)、問いとひとつになる(自分の問題として捉える)ことで、
解決が生まれる。

人類の共生にめざめるとき
報道の伝えない部分は、自分で補おう。世界はボーダーレス化し、
自分で現場に行ったり、現場にいた人に会って話を聞くことも容易
になった。

旧ユーゴ紛争について私は、パリのホテルで給仕として働いていた
サラエボ出身の女性や、ブダペスト在住でザグレブ留学経験もある
日本人研究者から話を聞いたが、連邦の分裂とそれに続く戦火が「
民族の違いを原因とする紛争」だという説明は疑わしいと思う。

多民族が平和共存している地域は世界にたくさんあるし、旧ユーゴ
でも平和な時期が長く続いた。多民族社会は自動的には民族紛争へ
と転化しない。

本件の真因は、経済的に自立可能だったスロベニアとクロアチアが
、他の貧しい連邦共和国への冨の配分を渋って連邦離脱したことに
あると私は見る。ドイツが性急に両国を国家承認し、分裂は後戻り
不能となった。

これまでの物質的な豊かさは、分子(冨)の増大によって達成する
のが常だった。低成長時代を迎えて、分母(配分人数)を減らすこ
とで豊かになろうという動きが随所で見られる。民族の差は、仲間
外れや切り捨てを正当化するための口実にすぎない。

分母を減らす「いす取りゲーム」の思想は、先進国でも高まる失業
率や企業のリストラにも表れている。その際、分断の境界線が民族
から学歴や営業成績やコネに変わるだけのこと。

地球上でこの上さらに境界線が引かれ、ますます分断と差別化が進
めば地獄だ。なぜならば、それらは本来ひとつである人間社会を無
理矢理分断するため、人々の友好や信頼関係を引き裂くからだ。
そうならないように、あるがままの世界を見据え、過去の傷口は癒
し、未来を混乱に陥れる因子を除去しよう。

人類は共に生きている。宇宙から見た地球に国境はない。
(初出"World Plaza" No.47, August-September 1996)


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