427−3.民主主義の遅さについて



白鳥様
はじめまして、ナマステといいます。
多種連結党、すばらしいと思います。
ただ、、、民主主義の遅さについてどう思われますか?
民主主義は遅いと思います。会議、閣議、議論、、、、
今話題のKSDの問題も、この遅さを嫌うことで起きたことだと思いま
す。世の中に議事工学のようなものでもあればよいと思うのですが、
そんなものはありません。
タレン党の趣旨からいくと集団をある一つの方向に向かわせるのに
ずいぶんと時間がかかってしまうように思うのですが、この点に関し
てなにか有効な方策など既に考えておられるのでしょうか。
もう一つ、なんとも悔しく歯がゆいことに現在の日本では正しいこと
清いことが即力強い政治に結びついているようには見えません。

白鳥様と意見を異にするのですが結構多くの人が自分の意見をもって
いるように思います。
どのような立場に立脚しているのか、またどの程度深くまで読んで
いるのかの違いが答をいくつも乱立させています。
ある意見を採ることはある立場を否定することになります。
多数決では議論の局面は立脚地の地盤に左右されるため必ずしも誠
実で正直な論者が勝つとは思えないのですが。
この点についてはどう思われますか?
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※ 民主主義の「遅さ」についてのご質問
   
何事にもその時代の意識(自我)の成熟度というものがあります。
悠久なる歴史の中でその時代時代の一般的な意識の中でパラダイム
は形成されてきました。それが巫女を通した神がかり的な言葉を
一般大衆が素直に信じて政(まつりごと)が行われた時期もありま
した。また武力で威圧して脅して政治が行われた時期もあれば、一
つの道徳的価値観を一般大衆に「刷り込む」ことによって治安を治
めようとした時期もありました。

現在は一応「民主主義」は正しいという価値観が世界的に一般大衆
受けしています。その現実を考慮しながら事を運ばないと何事もう
まくは行かないでしょう。
ところが仰る通り同じ民主主義という言葉ひとつを取ってみてもそ
の認識の深さの度合いの差というものもあれば、認識の「好み」の
差というものもあります。そして「認識の深さの度合いの差」とい
うものは論議を順当に進めていくことのよって自ずと明らかになっ
てくると思います。
ただこと「好み」というものに関してはこれをいかに優劣の論議し
あってみたところで如何ともしがたいものがあります。それでも
人間には支配欲というものがありますから自分の好みを他人にも
強要したいのです。それで日本でも春がよいか秋が良いかとかつて
の貴族達は歌会で論議しあっていたのです。

  私もライオンと虎とどっちが強いか、サメとカバはどっちが強い
かということに興味はありますが、やはりこれはその戦う土俵によ
って違ってくるわけで一概には言えないでしょう。
だから現在ほとんどの人々が民主主義は絶対的価値観であると思っ
ている中ではまずその民主主義という言葉の生まれた背景を探るな
どして民主主義という言葉に対する共通認識がなくては私の言う
「正当なる論議」というものは出来ないでしょう。共通の土俵をま
ず作るということです。

 それがなされていないまま日本では多くの政治的論議がなされて
いるので実は論議になっていないのです。そのことに議会での質問
者や応答者が気がつかないのは、実は自分で言っていることを自分
で理解していないのです。
現代人は確かにボキャブラリーに関しては豊富ですが「言葉」が全
て空虚なのです。空虚な言葉の概念遊びをやっているだけなのです。
言葉というものの本来的な成り立ちについての認識を多くの人々は
気付いてはいないのではないでしょうか。

旧資質を離れては一つの動物である人間としての幸福はありえない
にもかかわらず、そのことを多くの人々は忘れてしまっています。
特にインテリと呼ばれる人々ほどその傾向は強いようです。

さて「民主主義は遅い」ということでありますが、実は「遅い」と
捉えるか「早い」と捉えるかは「目的に対する概念」が明確でなけ
れば意味をなさないことです。またその目的にたいする個人個人の
ビジョンにも違いはあるでしょうし、目的に対する「思い入れ」の
差というものもあるでしょう。またビジョンが全く同じで思い入れ
の度合いも同じだとしてもそれを実現するための「手法の好み」と
いうものも当然あるでしょう。それは「個性」と呼んでもいいので
はないでしょうか。
一つの山の頂きに上るのに危険の少ない平地を選ぶ人もいれば、
あえて危険を冒し崖っぷちの最短距離を行こうとする人もいるでし
ょう。

同じように、「社会を改革したい」という思いを二人の人が持って
いたとして一方の人はジワジワやる方を賢明だと考えるだろうし、
もう一方の人は気が短くて急進的にやらねばと思うかもしれません。
ただここにおいて同じ「改革したい」という思いでもその根本にあ
る動機が同じならばそのやり方に対する好み(個性)の違いという
ものは当然認められるべきですが、動機が違う場合には大いに問題
があります。自分や自分の家族また自分の住む故郷また自分の住む
世界に対する愛情から社会変革を願ったり企てたりする者もあれば
、単なるバーチャル的な好みから世界を変革したいと思うものもい
るでしょう。それは自ずとその人の「人柄」に現われ出てきます。
それを見抜けないところに多くの不幸があるのだと思います。

 私自身としては「民主主義」という言葉の背景自体を疑問視して
いるところがあります。民主主義という言葉の中は人間を取り巻く
自然環境に対する配慮があまり織り交ざってはいないように感じま
す。
 長い中世暗黒時代から開放された人間の「驕り」が感じ取れる言
葉なのです。もはや何々「主義」という言い方はあまり使わない時
代になってくるのではないでしょうか。
ただ人間社会は、一人一人に「我欲」がまだまだ根強く残っている
以上、ある程度は理性で抑えることも大事だと思いますので、人間
社会の政治形態に関しては「民主主義」「民衆主義」でもよいと思
います。
 でも「民衆主義」と言った方が日本的で温かみがあると思います。

  私もかつてはバーッチャル的な人間で急進思想を好みましたが
、今では漸進的にやっていくのもいいと思っています。できるだけ
犠牲の少ないかたちでやらないと被害者がいっぱい出てくるからで
す。なんといっても私自身が被害者になりたくないので。私自身も
結婚し子供を作り人の心が若干分かるようになりましたので、かつ
ての若い頃とは好みも思いもかなり違ってきました。社会改革に対
する動機も徐々に正されてもきました。

以上民衆主義の遅さについてのご質問にお答えしました。


※ 「清いこと」「正しいこと」が「強さ」に結びつかないという
  お苛立ちについて

  まさに仰る通りで、私自身も苛立ちを感じています。ただ最近
はそれもまた自分自身の人生や社会を長い目で見れば面白くしてく
れているのであろうと静かに考えられるようになりました。
 「清さ」も「正しさ」も汚濁と不正義の中でこそ光輝くものです。
貴殿(貴女?)も光輝いてください。

※ 多くの人が自分の意見を持っているかどうかについて
 本音のところでは自分の意見を持っていない人は一人もいません
。赤ん坊といえども。
 ただ自我意識が強くなってくるほどに自分自身の本音にある「意
見」を自分自身で自覚しなくなるのです。
  
 今「意見」という言葉を使いましたが正確には「思い」です。「
思い」を言葉にしたのが本来の「意見」なはずですが、みなが自分
の思いを正直に表明しない(できない)ので言葉が全て上滑りをし
ていると私はいうのです。

※ 正直で誠実な者が必ずしも勝たないことについて
 短期的にはそのように捉えられることが多いでしょうが、長い目
で見ればまた別です。歴史はそれを証明しているのではないでしょ
うか。
 人は自分自身の奥深い心の底から聞こえる「良心の声」に従って
言動を発すべきだと思います。
先ほどは抽象的にお答えしてしまったので貴方の御納得がいくよう
な答えになっていなかったのではないかと反省しています。
それではっきりとした私自身の本音で貴方にお伝えしたい事を述べ
ようと思います。

「人主主義の遅さ」と「清さ」や「誠実さ」が通らないという貴方
の苛立ちについては、私も全く同感です。
それで貴方の納得のいくようにはっきりとした私なりの考をご紹介
したいと思います。

まずサシミ(3対3対4)の法則が世の中にあるとお見ます。私たち
の意見や考え方に同調する人は約三割います。賛意を抱かない人も
三割、どうでもいい人(勝ち戦にならつくという人)が四割。
ところがその三割の中にもサシミの法則がありますから実際私たち
と同調し行動も共にやってくれるという人は約一割いるということ
です。そういう人だけを見つける努力だけすればいいのではないで
しょうか。

したがって、今の段階で9割を相手してもしょうがないことで時間の
無駄だということに私は最近気付きました。したがって今までのよ
うにひたすら敵を作っていくようなやり方は全く損で自分の目的の
実現を遠ざけるだけなのだと気付きました。

私は「愛」だけを求めてさ迷ってきたように思いますが、考えてみ
れば愛を求めるのも金を求めるのも名誉や権力を求めるのも「求め
ている」ことには変わりがありません。何を求めているにせよ好み
の違いというだけです。人間はみな欲求不満者で「心身障害者」だ
と思えばいいのだと自分に言い聞かせています。

それで私は貴方と同類の人間であると思いましたのでお力を貸して
いただきたいのです。仲間作りを一緒にしたいのです。私の活動に
関してはホームページにアップしていますのでご覧下さい。

私は今から40年後には日本は沈む(物理的にも)という前提で行動
をしています。日本列島は日本諸島になると思っているのです。
そのために一番大なことはそれ以降の時代に生き残れる自分らの後
継者を造るということです。強い種族を残すのは自然(地球)の意
志だからです。私たちは自然の一部です。
今一番大事なことは「子供たちの教育」ではないでしょうか。それ
で日本の山々に「大地塾」を造りたいのです。

是非貴方のお力をお貸しください。

活動のご紹介http://www1.odn.ne.jp/chuuwa
        以上。   
  白鳥 宙
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421−1虚妄に踊り狂った二十世紀という時代にコメント
 ヤムホイ 
>今こそ日本人は巨額の個人資産を世界 
>の貧しい人々のために放出しないといけない。かってイエスは「金
>持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」といっ
>た。日本人の持っている個人資産の10パーセントを世界のために
>放出したならば、環境問題も食糧問題も解決するだろう。

これは無理ではないでしょうか。いくらボランティアが大事でも、
自分の財産の10%もつかうでしょうか?それに、資本主義世界で
は金儲けは善です。イエスは資本主義でない時代だったからで、
中世を経て金儲け(利子・利潤の追求)は善であるとなったから資
本主義が発達できたと小室直樹先生は言ってます。(『資本主義の
ための革新』より)環境破壊は深刻であることはわかりますが、今
の生活水準を下げるのには反対をいう人はおおいのではないでしょ
うか?リサイクルとかフロンの規制みたいな環境対策は必要でしょ
うが、それが景気悪化を招くならなかなかすすまないでしょう。
技術の進歩(環境にいい方向の)しか手はないと思います。 

いま日本人に求められているのは真の意味でのボランティア精神と
いうのは理想的すぎて、現実にはないのではないでしょうか。
環境ベンチャー(?)が金になる時代がくればいいんでしょうけど
。。。 


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