426−3.日本のインテリゲンチャへ



白鳥宙

知者とは誰であるか。賢者とは誰であるか。
知者も賢者もいない。
空しい知識を腹一杯詰め込んで、ピーチクパーチク口を動かしなが
ら、何か喋っている。彼らのことばは空しい響きを帯びて、聴く者
の心にはまったく届かない。
しかし彼らは、自分が一人前の知識人だと思われたいので、無知を
隠すために、なおも激しく口を動かし、言葉を連ねる。しかし言葉
はますます空しくなるだけ。
「先生、先生」呼んでもらえることは心地が良い。彼らは、他の同
業者より一歩優れたいと思っている。何のために? 何のためだか
わからない。とにかく仰ぎ見られるようになりたいのだ。

実は彼らは孤独なのだ。暗い一室で本ばかり読んできたので、陽の
当たる場所が恋しいのだ。他人の賛美のあるところ、皆に拍手をし
てもらえれば、天にも登る心地がする。それはえも言われぬ甘美
な味。
中には、一見謙虚さを装ってはいるが、腹の中は同業者を小ばかに
している鼻持ちならないのもいる。

わたしは、彼らの高くそびえ立つ鼻を砕こう。彼らの知識を空しい
ものにしよう。
彼らは空しいことばを並べて生活費を稼ぎでいることに、恥じらい
というものを感じていない。
人は神を知らなければ、真に良心的に生きることはできない。彼ら
は最後には、自分の命を救うために、何もかもおっぽり投げて逃げ
出してしまう。自分の言動に責任など持ちはしない。責任を持って
いるなら遠の昔に職換えをしている。

 彼らは、口を動かし、ものを書くことでしか生活をしたことがな
い。額に汗して、全身を使って働くことの無上の喜びを彼らは知ら
ない。彼らは脳というものを余りにも重要視し過ぎているのだ。
 彼らは、自分の手は決して汚したくないのだ。責任が自分に降り
かかってくることだけは何としてでも避けたいので、言ったことが
外れても、「それは状況が変わったので、そうなったので、自分の
ミスではない」と言い張る。
 はっきり言おう。彼らは自分たちの偽善と虚偽のためにすでに咎
を負っている。彼らの良心は深く傷ついている。だが彼らはあまり
にも傲慢なるがゆえに、自分の良心にも、良心の痛みにも気付きは
しない。彼らは明らかな病人だ。

 自分の無知を自覚する者たちは幸いである。彼らはさらに努力を
し、真の知識を得るようになっていくだろう。だが、自分を有識と
する者たちは災いである。実は、かれらは何も知ってはいない。
彼らの言葉は空しいが、多くの人々がそれに騙される。彼らが一番
欲するのは他人の賞賛。なぜなら、彼らは孤独なのだ。良心に反し
たことをすれば、孤独となるのは当然の流れだからだ。
神を知らないで、最期まで自分の良心に従って生きるというのは難
しい。もし自分の良心に従って、自分の命を捨てるという人がいれ
ば、彼はすでに神を知っている。

 神を信じない愚か者(ディスクリクティナ)には四つのタイプが
ある。これは、日本文化の古里であるインドのヴェーダンタ哲学が
教えているところである。現代日本人の99.999パーセントは
、このディスクリクティナに当てはまる。「私は神を信じている」
と言い張る者も、聖典に従った生き方をしていないのであれば、皆
このディスクリクティナである。
 さて、このディスクリクティナの四つのタイプについて説明しよ
う。
まず第一のタイプは「ムーダー」――「どうしようもない愚か者」
という意味だ。彼らには神の言葉はどのようにしても耳に入らない
。なぜなら、彼らは自分の肉体を生かすことにのみ一生懸命だから
だ。彼らの生活はロバのような生き様だ。ただひたすら働くだけ。
主人には歯向かう気概もない。ムチが怖いので、働かずにいるとき
は、ただオロオロ主人の目色を気にしている。働いて、食べて、交
わって、寝るだけの生活。時には歌のようなものを口ずさんだり、
哲学じみたことを言ったりするが、そんなものは他人にうるさがら
れるだけだ。
 次に第2のタイプは「ナラーダマ」と呼ばれる。「悪徳の者」「
最低の人類」「恩知らず」という意味だ。「わたしは恩知らずでは
ない」と確信をもって言える者は、恐らく日本人の中に0.000
001パーセントもいまい。日本人の好きな親鸞は、人間は全て罪
人であると言った。クリスチャンも同じように教えている。自分を
善とする者ほど困った者はいない。
 3番目のディスクリクティナは、「マーカヤ・パフリタ・ジャニ
ャーナ」と呼ばれる。凝り固まった思想家(哲学者)、博識者やイ
ンテリゲンチャたちの中で、似非の権威をもつ者たちの中にこのタ
イプが多い。かれらは確かに頭は悪くない。だがしかし、かれらの
魂はいくばくかは病んでいる。このタイプも大変始末がわるい。
なぜなら、かれらは多くの大衆に悪い影響を与えており、彼ら自身
はそのことに気付いていないからだ。彼らは、この世の全ての力や
知恵の源がどこであるかを知らないし、あまり知ろうともしない。
空しい前提に立って、自分たちの理論にならない理論を組み立てて
いる。かれらに優れた頭脳を与えたのは誰かも知らない。その意味
では、このタイプもまたナラーダマといえる。
 最後の第4番目が「アースラム・バーヴァム・アシュリター」で
ある。これは「悪魔主義者」という意味だ。誰かに対して「神など
はいない」と教える者はみな、このアースラム・バーヴァム・アシ
ュリターである。彼らは救いようがない。彼らにとっては、神がい
てもらっては困るのだ。それほど、彼らの心は悪徳に満ちており、
彼らの魂は深く深く病んでいる。

 以上4つが、ヴェーダンタ哲学が教えるところの不徳者ディスク
リクティナの意味だ。自分がこのどれにも当てはまらないと言い切
れるインテリは日本にいるだろうか。

 神の国は幼子のような心をもった者にしか見ることはできない。
幼子の中には、四つのタイプのディスクリクティナはいない。神の
国は彼らのものだ。だが、彼らもやがて肉の年齢を経るごとにディ
スクリクティナになってゆく。その原因をつくっているのは、母親
の責任が80パーセントである。あとは父親と先生だ。

 さて、わたしはあなたがたに気付きを与えよう。すべての力、す
べての知恵、すべての生命の源が何であるかについて。あなたがた
は、自分のあらゆる行為の出発点を知らない。あなたがたの顕在化
された意識は、あなた方がもっている広大無辺な意識の極々一部に
しか過ぎない。ちょうど1個の玉ねぎ全体があなたの意識だとすれ
ば、あなたが自覚している意識(健在意識)は、玉ねぎの一番上を
おおっている薄皮一枚にしか過ぎない。
 あなたがたは知るがよい。すべての万物(人間も動物も虫も花も
石ころも水も空気も素粒子も)は一本の糸で繋がれているのだとい
うことを。
 あなたがたは独立した存在ではない。あなたがたの知識も、あな
たがたの発する言葉も、みな最初からあなたが所有していたもので
はない。したがって、あなたがたの中に真に自由な者は一人もいな
い。人間が肉体を持って地上にいる限り、真の自由を獲得すること
は極めて難しい。何かに依存し束縛を受け、独立を拘束されている
不自由な者にとって、自由という言葉の意味を真に理解することは
できない。そんな奴隷のような状態にある自分たちが、自由や運命
というものについて、いくら考えてみてもそれは空しいことだ。
思考は堂々巡りを繰り返すだけである。
 わたしはここで、自由というものは運命そのものであると結論し
よう。この意味を理解できる者は、極僅かしかいない。
 真理を愛し、真理を究めよ、それがあなた方の努めである。


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