420−1.観念、道教など



観念宇宙
日本には哲学はありません。
共産主義から仏教、資本主義まで、人間の精神作用があって、言葉
があるから、観念が成立するのでしょう。
日本の かんながらの みち を哲学考察することは為にするにな
ります。日本人は異文化を 道 に収斂してしまいます。
フラワーアレンジメントは華道
サートーマスリプトンは茶道
ポプリは香道
「人権は人の道」
道で袖擦れ合うも多少の縁 縁は異なもの味なもな。
道を横文字にしますとカルチャースクールとも言っています。
先生の教え方が未熟だと生徒は逃げていきます。
しかし、坊主はまる儲け、宗教は仕入れして在庫負担が無いとも言
えますから、だから立ち上げやすいですね。
ですから、ポストモダンも市場になりカルトスクールはマルチ屋か
ら原理屋、魑魅魍魎まで百鬼夜行の筋道の見えないクライシスイン
テリジェンス必携の道暗し暮らしを覚悟しま、、、、むむ、、
むずかしい。
              覚悟に迷う IMO
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「no.415-1観念の迷宮で宙づりになって」に対して
はじめまして。田中眞一といいます。

宮内勝典の『善悪の彼岸へ』をぼくも読んでみて、思うところがあ
りました。
ぼくの場合は、得丸さんとは逆に「失望」は感じなかったです。
たぶん、この本の値打ちは、内容が等身大であることなのだなとい
う感想をもちました。
(つまり、得丸さんの言葉を借りれば“観念に流されないように注
意深く書かれている”のだと言い換えてもよいと思います。)

>先進国の意味の不在が、意味への渇きが、オウムという怪物を生み
>出した。これ以上は語れない。次の世界をどう構築すればいいかを
>語る力量は著者にはない。
>どうしていいかわからないまま、私たちは宙づりになっている。
>安易な希望など誰にも語れない。語ると嘘になる。回答を求めるの
>ではなく、問いを発することだ。問いが現れれば、意識も対応する
>だろう。その思いが強ければ、やがて形になるだろう。」
>という力ない結論で、正直いってがっかりした。

ぼくは、じつは“がっかり”しなかったのです。
「問いを発する」「安易な希望を語らない」ということは、一見陳
腐な物言いに聞こえますが、これは、けっして「力ない結論」でも
なく、かなり上質の提言だと、ぼくには思えます。

ぼくは、仕事の都合で、宗教関係のひとたちや、精神世界のひとた
ちと多くかかわってきました。そしていつも感じるのは、誰もが
“答え”や“生きる指針”や“確かなもの”を欲しがっているとい
うことです。
そして、そのような真面目なひとたちほど、安易な新興宗教にだま
されやすいということです。そう、インチキな新興宗教ほど、多く
の答えや指針を“与えてくれる”ものなのです。

>1 新興宗教のメカニズム
>パッチワークでもなんでもいいから世界の既存の経典のいいとこど
>りをすれば教義は作れる。ちょっとばかしカリスマ性のある教祖が
>もっともらしくその教義を説明し、当ったか外れたかが鮮明でない
>予言をすれば、信者は集まり、新興宗教は興せる。だから教義が正
>しいかとか、予言が当ったかどうかを議論しても始まらない。それ
>らはすべて観念(概念)の世界のことである。
>
>むしろ観念にとらわれないこと、言葉(概念)に酔わないことが大切
>なのだ。どうすれば観念にとらわれなくなるかを考えてみるべきだ。

そのとおりだと思います。
しかし、観念というものは、とくにノイローゼ集団のようなもの(
この場合は宗教団体)をすこしでも見たことのあるひとならば分か
ることですが、そんなになま易しいものではありません。“観念に
とらわれないで生きていこう”というひとはたくさんいます。しか
し、それができているひとに、すくなくともぼくは会ったことはあ
りません。
観念とは、ものすごく恐ろしいものです。
かつてヒトラーに力を与えたのは思想ではなく、観念の力です。
そして観念が、あれだけの人々を殺したのだということを思い返し
ていただければ、ぼくの言うことが理解できると思います。

>2 現実の重みを感じるために、身体感覚を磨く
>現代は、何が現実で、何が仮想現実か、わかりにくい社会。それは
>身体感覚が鈍ってきたから、頭脳だけでものごとを理解するように
>なってきたため。本物(現実、現実存在)と、偽物(仮想現実)の見分
>けがつかない人が増えている。
>身体感覚を磨く必要がある。それには、武道や華道のような手習い
>ごとを行うこともひとつ。また、自己意識の中に深く入り込んで、
>心のモヤモヤを自分で整理する(自分が何を考えているかを理解す
>る)ことも大切。

そのとおりだと思います。
ところが、その身体感覚を磨くべく、日々きびしい修行に明け暮れ
ている修験道の行者や、真冬の雪国で一週間の断食をし、氷を割っ
て水垢離をくりかえしているようなひとたちが、いかに愚かな観念
に取り憑かれて、人々を惑わしているかということに、思いを馳せ
るべきだとおもいます。ぼくらが「身体意識をとりかえすべきだ」
と言ったとき、その言葉が、すでに観念の毒に犯されていることが
とても多いということに、ぼくらはもっと自覚するべきだと思いま
す。

>論語や孟子を読むと、観念の話は一切出てこない。

いいえ、そうは思いません。観念的な言葉が出てこないというだけ
のことです。
注意深く読めば、そうではないことに気づくはすです。

精神が脆弱であればあるほど、かんたんに結論を欲しがるものです。
精神の脆弱なひとほど、「じゃあ、どうすればいいんだ?」とたず
ねるものです。
そして、そういうひとほど、観念の罠に陥るものです。
ぼくは、宮内勝典がほんとうに戦っていた相手は、そうした「脆弱
な精神そのもの」であるような気がするのです。
「問いを発し続ける」というメッセージは、こうしたことを考えれ
ば考えるほど、とても優れた結論のように、ぼくには思えるのです。
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「no.415-1観念の迷宮で宙づりになって」に対して
本当によくわかります。

軍隊のような教育制度というと共産党の諸君が怒るし、右翼が跋扈
するし。
実際、今の親の中にもそのようなものを創り出しているのがかなり
いるということです。
定年になって、今、個人商店で手伝いごとをしているのですが、や
はりダメなのはダメですね。
大正末生まれが、(私は昭和一桁)、二代目を重役出勤だなんて
11時頃こさせるようではダメ!
私は外資系が長いので、彼らは上に立つほど朝早く来て遅く帰りま
すよ。
オームもやはりそのような戒律があるから魅力があるのではにので
しょうか?
学校の先生だっておかしいいし、皆おかしいですよ。

67歳になっても私はもし、若年層老人のための、予備国防軍でも
あったら生きがいをそこで、みつけたいですね。
そこで、若者と、幼稚園児などと一緒になって話し合うような場所
があったらなと思いますね。 ゲートボール派も賛同すると思いま
すよ。

駅前か駅徒歩1分以内のガード下にそのような施設でも作ればよい
のにと思いますよ。 野戦のような建物で宿泊できて自治を守るよ
うな場所でね。
宗教は否定しません、当然イズムの後にきているレリジョン闘争の
時代なんですから。
すみません、酔いまして。
Tomy
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●得丸(145) 題名:NO.415−2日本における道教の影響
Fさん、
>道教は、気の文化であり、感じるを大事にする。儒教は論理を大事
>にする。気功は道教、論語は儒教である。この2つが日本では融合
>している。両文化が、交じり合っている。

僕はまだ道教のことを勉強していないので、たいしたことは言えま
せんが、いいとこどりの得意な日本人ですから、儒教と道教のいい
ところをそれぞれうまく撮り入れているのかもしれないですね。
たとえば昔の都市計画や方位、(たとえば紀貫之が土佐日記の中で
「かたたがえ(方違え)」をしたのも、道教の影響でしょうね。
道教は、大地や宇宙のエネルギーや気の流れ、それらの時間的な
変化を教えてくれたのではないでしょうか。儒教にはそのような考
えはほとんど含まれていません。

>日本では、すべてに「道」と付ける。華道、茶道、武道、柔道や
>サラリーマン道など。日本人は道が好きなのです。気を使うことが
>好きであるから、このように道が付くのであろう。

道を極める、道を志す、求道すなわち道なり、、、、
道という言葉にはそこを歩き出してまっすぐまっすぐその道を歩き
つづけていれば、いつかある次元にたどり着くという原理、安心感
があります。

>もう1つの道教の特徴が、雑然としたエネルギーを大切にする。
>矛盾も認める力が道教にはあり、混沌とした状態は力がある状態
>と見なしている。
>この混沌とした状態が日本に今、必要なのでしょう。

混沌が力を持つためには、私利私欲でお金や利権をあさっていては
だめでしょうね。日本の、世界の未来のために、誠心誠意で考え、
語り合い、行動してこそ混沌は力をもつのでしょう。
今の日本は混沌としているのかもしれませんが、単なるドタバタし
た混乱かもしれません。

自分の心のターゲットを、日本人の幸福なり世界人類の幸福なり、
はっきりと定めて、その上で融通無碍に発想し行動することが大切
だと思います。
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(Fのコメント)
さすが、得丸さん。その通りですね。日本人が私利私欲の塊になっ
てしまったような気がしますね。これをどうにかしないとダメでし
ょうね。
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●得丸(135) 題名:心を清くする神道、心を形づくる儒教
心の話題からちょっと発展してみます。相変わらず思いつきですが。

キリスト教では、人間は弱いものと教えられるのではなかったでし
ょうか。

孟子は、人間にはみんな生まれながらにして良心が備わっているか
ら、それを伸ばすことが大切だ、それを伸ばすところに人間と獣の
違いがあるが気づいて実践している人は少ない、と言います。
「論語」や「孟子」の思想は、古いようで、実は他の哲学や思想が
扱っていない人間の心の造形というきわめて新しい(というか僕た
ちが普段あまり気にしないだけのこと)問題に迫ってきます。
孔子は、吾は生まれながらにして之を知るものにあらず、といいま
す。礼儀や仁義や徳義は後天的に学習して獲得していくものです。

これに対して、神道は、僕のイメージでは、とにかく自分の心を清
らかにすること、真っ白にすることを教えてくれるのではないでし
ょうか。神道の教義は知りませんが、シンプルな建物の中にいる神
様の前で頭をさげることは、自分の中に信仰心をはぐくむことです。
シンプルなご神体への信仰心をもつことが、心を清くする。なんと
なくそんな感じがします。

儒教は教育的であり、神道は直感的といえばいいでしょうか。
どっちも大切ですが、すーっと神道の世界に入っていけるといいな
、と思います。
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ひょっこりひょたんIT島

なーみを、チャプチャプチャプチャプとかきわけてー
くーもを、スイスイスイスイスイ追いかけてー
ひょうたん島はどーこへ行く
僕らをのーせて どーこへ行くうぅぅぅぅぅぅぅぅー
丸い地球の水平線にぃぃ なにかがきーつとまぁているぅ
苦しいこともあるだろさぁ 悲しいこともあるだろさぁ
だけど 僕らはくじけない 泣くはいやだ 笑っちやおぅ
進めぇぇ ひょこりひょうたんじーま
        ひょっこりひょうたんじーま
ひょっこり ひょうたんじぃぃぃぃまぁぁぁぁぁぁぁ

                   日本人 IMO
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(Fのコメント)
ひょっこりひょたんIT島ですか。面白い命名ですね。私もどこに行
くのか分からないですね。読者の皆様が行く先を決定するのですか
ら。

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