418−3.文化のはく製標本 ー くそくらえ、文化遺産



得丸
・ 冷凍庫のような合掌造りの家の中
 一昨日、大雪の中、ニューヨークからおみえになった荒川修作氏
を案内して富山県五箇山地方を訪れ、ユネスコ文化遺産に指定され
た合掌造りの集落を訪れた。そのときに、何軒か合掌造りの家の内
部にも入ったのだが、そのあまりの寒さに驚いた。家の外より、家
の中のほうが、数段寒いのだ。どうしてこんなところに人間が住ん
でいたのか、住むことができたのだろうかと、不思議に思った。

 今晩、富山市内の寿司屋で寿司をつまみながら、この疑問を口に
すると、板前さんが「合掌づくりは、24時間毎日毎日囲炉裏で火を
焚いているものなんですよ。そうしないから冷える。文化遺産の指
定を受けてから、家の中で火を焚いてはいけないということになっ
て、人間が住めなくなったんです。」というのだ。

 これには驚いた。文化遺産に指定されたために、合掌造りの住居
は、住むところから、保存するものに変わった。生活の一部から、
文化財へと「格上げ」された。しかし、果たしてこれはいいことな
のだろうか。

・ 文化財は文化の死骸のはく製?
>得丸さんは、文化は心だ、文化は人間の外部ではなく内部にある
、とおっしゃっていますが、ではユネスコの世界文化遺産のような
文化財保護運動はどうお考えになるのですか、

という質問を受けたことがある。
 文化と文化財の関係は、生きた動物とはく製標本の関係に等しい
のではないか、と常々思ってきた。あるいは、文化財は文化の過去
形だと。

 文化財と呼ばれているのは絵画や仏像などの美術品や工芸品、神
社仏閣などの建築物、そして遺跡。そういったものの中には、見る
者を圧倒させ感動させる作品もあるし、人間の叡智の結晶として作
り上げられたものもあるだろう。

 しかし、だからといって、それらの作品を人間の手の触れられな
いところに後生大事に隔離して保管し、ときどき芸術作品あるいは
文化財として「すばらしい作品だ」と鑑賞する行為に一体何の意味
があるのだろう、と思う。それらの作品は、仏様として直接的な感
動を与えるべきであり、神の居られる場所として訪れた者の心を清
らかにするべきものなのだ。

 たとえば、古い仏像や寺社建築を文化財として保存したり保護す
るというが、一体どの時点に合わせて保護するのがもっとも正しい
といえるだろうか。たとえば仏像には、出来たてほやほやのピカピ
カな青春期もあったし、表面が風化し金箔が剥がれて渋みを帯びた
老年期もある。いったいどの時点に合わせて、保存すればいいのだ
ろうかと迷う。

 このような普段は考える必要のない迷いが生まれるのは、文化財
保護というものが、時間を止める行為であるからだ。「子、川の上
(ほとり)にありて曰く、逝くものは斯の如きかな、昼夜を舎(お)か
ず」(論語、221)で孔子が表現したのは、時間が一時たりとも止ま
らずに過去から未来へと流れ続けるということではなかったか。
だが、文化財保護には、風化や劣化といった時間の流れに抗するあ
まり、時間そのものを止めてしまって逆に文化を殺してしまうとい
う面はないだろうか。

 江戸末期、日本から陶器がヨーロッパに輸出されたとき、陶器の
包み紙として浮世絵が使われた。それがフランスの印象派に影響を
与えたことも知られている。その伝統が日本に残っていないことか
ら、日本人は浮世絵の芸術としての素晴らしさがわからなかったと
いった批判を耳にしたことがある。

 しかし、浮世絵は、現代でいうならば夕刊フジや日刊ゲンダイの
ヌード写真と同様に、使い捨てられるべきものとして存在していた
のではなかったか。だとすれば、それを後生大事に保管して、「あ
りがたや、ありがたや」と拝めばよかったとは決して思えないので
ある。

・ 文化は現在進行形
 ある時点で固定して止めてしまうのではなく、伊勢神宮で20年ご
とに行われる式年遷宮のように、繰り返す行為、再生産する行為こ
そが文化ではないだろうか。そのためには、現代に生きる人間が、
自らの心の中に文化を培養する必要がある、神社建築の技をすべて
身につける必要がある。

 この文化継承の労力たるや大変なものである。その手間を惜しむ
あまりに、手っ取り早く文化財保護を行っているような気がする。
しかしそれは文化を窒息させて殺してしまうことになりかねない。

 文化は、心である。日々の生活の中に、仏様を拝み、浮世絵を楽
しむという行為がある。それらを生産、再生産していく行為がある。
それは川の流れのように、けっして止まらない、止まってはいけな
い。時間が止まらないように、我々の心も休むことなく日々動いて
いる。文化は現在進行形でしかありえないのだ。
(2000.01.17)


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