416−2.文化の現実と仮想現実



得丸
 このコラムでいくどとなく「文化」と「文明」について話してき
た。

 私なりに文化を定義するならば、「文化」とは、「生活や生産活
動、表現や意思疎通に関して、個人が後天的に獲得して意識の上に
定着する技や芸や型」であり、言語活動、生産活動、造型、礼儀作
法、宗教、思想などは文化に属すると考えている。

 一方、文明とは、「個人個人に文化を獲得することを許す社会環
境」である。
文明とは、教育的であり、相互啓発的である。家族制度、地域共同
体、国民教育制度、大学制度などの社会単位は文明の構成要素であ
り、また、あるひとつの時空間が体系的でまとまりのある社会環境
を構成するとそれは「古代ギリシャ文明」とか「江戸徳川文明」と
か、「近代西洋文明」と、ひとくぎりの時空間を支配する文明とし
て語られる。

 文化と文明の間には、相互作用がある。それは文明の中において
文化が獲得されるという一般的な文化培養機能(言語習得、しつけ
、技芸の継承)のほかに、あらたに文化が文明の域まで高まったり
(茶道や俳諧など)、文化が文明に代替されたり(火打石で火をつ
ける必要はマッチに代替され、暗算機能は電卓に代替されるなど)
といった関係である。

 これらの言葉の定義において、そもそも合意がなされずに議論が
行われると、議論は混乱し収拾がつかない。私の定義に疑問を呈し
たり異論を唱えたい方は、まず自分自身で別の定義を提示して、
どこが違うのか、なぜ違うのかを明らかにしてから議論してもらえ
ないだろうかと思う。そうしないと議論にならない。

 毎日新聞の2000年1月7日(日曜日)の「<21世紀>の視点」に「時
代批評としての文化論 『事実上の標準』に抗して」という題で、
劇作家の山崎正和氏が一文を寄せられておられる。さすがに劇作家
だけあって、文化という言葉の意味をはっきりとさせている。たく
さんの文化人や評論家が文化や文明を語るが、ここまではっきりと
文化を定義して語っている例も珍しい。

 また、山崎氏は、文化相対主義(+商業主義)の悪弊を鋭く批判
している。これも現代においては珍しいといえるが、私はまったく
同感である。このコラムで文化についての議論が深まらないのも、
多くの方が文化相対主義的な文化の定義を受け入れてしまっている
からではないかと私は常々思っていた。この機会にちょっと長くな
るが山崎氏の言葉を一部紹介することによって、文化相対主義的な
文化の受け止め方を止めることを提案したい。

 なお、ここで山崎氏が語っておられることは、すでに1980年代後
半に、アメリカではアラン・ブルームが「アメリカン・マインドの
終焉」(みすず書房)の中で、フランスではアラン・フィンケルクロ
ートが「思想の敗北 あるいは文化のパラドクス」(河出書房)の中
で指摘していたことである。どちらもあまり多くの支持を受けるこ
とがないままに忘れ去られた著作である。時間のある方は読んでみ
てはいかがだろうか。

時代批評としての文化論 『事実上の標準』に抗して(山崎正和)
よりの抜粋

 なりふりかまわず生きているとき、人間はまだ文化を持っていな
い。生きるなりふりに心を配り、人にも見られることを意識し始め
たとき、生活は文化になる。喫茶のなりふりを気遣えば茶の湯が生
まれ、立ち居ふるまいの形を意識すれば舞踊が誕生する。文化とは
生活の様式だが、たんに惰性的な習慣は様式とは呼べない。習慣が
形として自覚され、外に向って表現され、一つの規律として人びと
に意識されたときに、文化は誕生する。

 (略)文化が生活の意識化の過程だとすれば、その最後の到着点
には文化論がなければならない。文化論は文化についての後知恵で
はなく、文化そのものが自己を完成した形態なのである。(略)

 そういう観点から見たとき、二十世紀は旺盛な時代でもあり不毛
な時代でもあった。この百年ほど人間が自意識を強め、同時代論に
関心を深めた世紀も珍しい。シュペングラーからジョージ・オーウ
ェル、リースマンからダニエル・ベルと、世紀の前半にも後半にも
優れた現代論が続出した。しかし反面、二十世紀はこの自意識の鬼
子ともいうべき思潮、内容的には正反対の思潮が、猛威をふるい、
文化論の深化を妨げてもいたからである。

 一つはもちろんマルクス史観であって、これは経済の立場から歴
史の法則なるものを設け、その法則を尺度に文化を善悪二つに分類
した。進歩的と反動的に二分された文化は、その本来の多様性を認
められる道を失った。もうひとつの弊害はこの一元主義とは逆に、
タコツボ的な専門化の思潮から襲ってきた。人間の問題を考えるの
に総合的な人間像を忘れ、学問の方法ごとに部分だけを見る努力が
重ねられた。ここでは文化は本来の有機的な脈絡を失い、生きるこ
との意味づけ、時代批評としての文化論も道を狭められた。

 当然、人間の生きる姿勢、文化活動そのものも二つの方向に歪め
られた。生き方は一方で粗雑な政治主義に傾き、他方では視野の狭
い「専門バカ」に堕した。
(略)

 だがそれとは別に、この文化的な自意識を根本から覆し、政治主
義も「専門バカ」も無差別に押し流すような力が、世紀の初めから
ひそかに用意されていた。
従来あまり関連を指摘されていないが、商業主義と文化相対主義の
暗黙の連携である。ラジオやテレビや映画の繁栄、そして文化に無
記名の人気投票を行う大衆の台頭が背後にあった。それは自意識と
規範の弱い文化の興隆であり、いわば文化論抜きの文化の圧倒的な
普及であった。

 文化相対主義は前世紀の人類学に始まり、民族文化の価値を平等
視する思想として誕生した。やがて、これになぞらえて階層文化を
平等視する主張が現れ、ハイ、ポピュラー、サブといった文化区分
を相対化する思想が広まった。論者の主観的な意図とは別に、これ
が商業主義の席巻を助けたことは確実だろう。漫画と文学、ファッ
ションと美術の区別なく、売れるものが文化を支配することになっ
た。同時に、常に現在を重視する市場原理の結果として、ベストセ
ラーがロングセラーの存在を難しくしてしまった。

 これに止めを刺すかたちで、前世紀末に芽生えたのが「デファク
ト・スタンダード」を容認する気風である。理由もなく、意識する
ことさえなく、流行したものは正しいとする風潮である。国家より
も市場が、文化運動よりもグローバルな消費動向が優越するなかで
、明らかに時代を批評する現代論の傑作も乏しくなった。しかし機
械仕様の事実上の標準はやむをえないとしても、本来、意識化の産
物である文化がこのままでよいはずがない。

 党派性や階層差別は乗り越えながら、個々の文化活動、自分が生
きる時代を批評する精神を復活しなければならない。それぞれの「
私」が生きるなりふりの表現として、自己の文化的な規範を論じな
ければならない。人間にデファクト・スタンダードがあるとすれば
、動物的な本能か、文化以前の惰性的な習慣のほかにはないからで
ある。(2000.01.07, 毎日新聞より)


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