415−1.観念の迷宮で宙づりになって



得丸
友人にすすめられて宮内勝典著「善悪の彼岸へ」(集英社、2000年
)を読んだ。
1944年生まれで、これまで世界を旅し、ニューエイジやカルトにつ
いて自分から飛び込んで取材をしてきた著者が、オウム真理教につ
いて雑誌に連載した記事がまとめられたものだ。

連合赤軍による浅間山荘事件の後のように、オウム真理教による地
下鉄サリン事件のせいで、精神性を求める若者たちが白けきって、
ニヒリズムに陥ってしまうことを著者は気にした。(現実には新興
宗教に入る若者はますます増えているのではないか。)

だから、金とセックスと食い物だけしかない日本に絶望したという
オウム信者の若者たちに向って、「きみたちの動機は間違っていな
い。だが、君たちはグルの選択を誤ったのだ。」と著者は呼び掛け
続け、上祐を含め信者たちの声にできるだけ耳を傾けた。

世界のさまざまな宗教について関心をもっている著者は、20年以上
前にガイアナで大量集団自殺をとげた人民寺院や、その他の集団自
殺を行った新興宗教教団にも詳しい。著者はまず、オウムの教義が
間違っていると思い、なんとかしてその論破を試みる。しかし、チ
ベットやインドの経典を調べると、殺人や近親相姦を正面きって認
める経典が見つかるのだ。オウムは明らかにそれらの経典に準拠し
ている。教義によってオウムを論破しようという著者の試みは、結
局徒労に終わる。(殺人を認めた経典がインドにあろうとなかろう
と、殺人を認めたオウムの教義は間違っていると断言すればいいの
にと、私は思うが。)

著者の結論をまとめると、「ふるさとや鎮守の森を失い、家族が崩
壊しつつある日本のニヒルな現状が、オウム真理教を生み出した。
教義の正しさなんてどうでもよかったのだ。離人症の感覚をもつ、
透明な存在の若者たちは自己の実在性をリアルに体感させてくれる
ものを求めていた。だから激しい修行をしたのだ。

先進国の意味の不在が、意味への渇きが、オウムという怪物を生み
出した。これ以上は語れない。次の世界をどう構築すればいいかを
語る力量は著者にはない。
どうしていいかわからないまま、私たちは宙づりになっている。
安易な希望など誰にも語れない。語ると嘘になる。回答を求めるの
ではなく、問いを発することだ。問いが現れれば、意識も対応する
だろう。その思いが強ければ、やがて形になるだろう。」
という力ない結論で、正直いってがっかりした。

この本を読んで私が思ったことは、

1 新興宗教のメカニズム
パッチワークでもなんでもいいから世界の既存の経典のいいとこど
りをすれば教義は作れる。ちょっとばかしカリスマ性のある教祖が
もっともらしくその教義を説明し、当ったか外れたかが鮮明でない
予言をすれば、信者は集まり、新興宗教は興せる。だから教義が正
しいかとか、予言が当ったかどうかを議論しても始まらない。それ
らはすべて観念(概念)の世界のことである。

むしろ観念にとらわれないこと、言葉(概念)に酔わないことが大切
なのだ。どうすれば観念にとらわれなくなるかを考えてみるべきだ。

2 現実の重みを感じるために、身体感覚を磨く
現代は、何が現実で、何が仮想現実か、わかりにくい社会。それは
身体感覚が鈍ってきたから、頭脳だけでものごとを理解するように
なってきたため。本物(現実、現実存在)と、偽物(仮想現実)の見分
けがつかない人が増えている。

身体感覚を磨く必要がある。それには、武道や華道のような手習い
ごとを行うこともひとつ。また、自己意識の中に深く入り込んで、
心のモヤモヤを自分で整理する(自分が何を考えているかを理解す
る)ことも大切。

3 
論語や孟子を読むと、観念の話は一切出てこない。すべて具体的な
現実社会の話である。それに比べると、仏教には観念が多いような
気がする。もっと儒教を勉強しなくてはならない。
(2000.01.15)
==============================
410−3.日本人の自覚に対して

>とくに日本には、武道や各種稽古事があります。これは大変にす
  ばらしい。しかし今いったいどれくらいの人が武道を実践している
  でしょうか。どんなに武道が立派であっても、あなたがそれを実践
  しなければ意味はない、実践していくなかで、あなたの肉体が、精
   神が、自信が培われる、と思います。

 ちょっとちょっと(笑)。じゃあ仏蘭西でフェンシングをやって
  ない奴は騎士道精神がないからダメなんですかね?

自分の書いたものへのコメントだと思いますので、一言。

僕の言ったことの真意は、武道をしていない人が武道を誇ることがあ
まり意味がないということで、全員が武道をやればいいということで
はありません。

ただ、実際に身体を使ってみると、武道の大切さはけっして笑い事で
はないということがおわかりいただけると思います。

あと、ついでにもう一言。

歴史を教えるということですが、歴史教育はイデオロギー的なことが
非情に大きく影響するので、なかなか教育改革は大変です。

むしろ今のありのままの世界を見せて、そこで日本人の意識を変える
、目覚めさせることのほうが、有効ではないでしょうか。
(得丸久文)


コラム目次に戻る
トップページに戻る