414−3.暗黙の世界標準化



思想的論争の欠如
 冷戦終結後の世界のなかで、七不思議の一つともいえるのは日本
共産党の成長だろう。旧自由主義国の共産党が各国で解体し変貌す
るなかで、日本の党だけが体制を変えずに存続している。党名も綱
領も、一枚岩の党運営の体質もそのままに、この十年、党勢を拡張
してきた。国民の共産主義離れは明白なのに、この党はいっさいの
思想的論争なしに、黙々と勢力を広げつづけている。
 
 この謎を主題にして、「中央公論」の8月号が「日本共産党の研
究」を特集した。
読んでみて驚いたのは、当の共産党が国民の思想状況に関心がなく
、若者のマルクス離れに憂慮していないことであった。国会対策委
員長の穀田恵二氏は特集のインタビューに答えて、若者が本を読ま
ないのは世の時流にすぎず、それと彼らの政治参加は別だという主
旨の発言をしている。共産主義は党内部の原理原則であって、国民
はそれとは別に、ただ目先の生活のために1票を投じればよいらし
い。

 これを取りあげて共産党が国民を欺き、イデオロギー隠しをして
いるなどと疑うつもりはない。それよりも、この原理原則の党がい
まや原理原則で争わず、思想の戦線で勝つことをめざしていないこ
とが興味深い。国民を価値観の点で変革し、さまざまな現実の意味
について教育する意図がないことが、注目をひく。たとえば穀田氏
は、共産革命は遠い未来のことだろうという。それはよいとして、
革命という社会の基本的な価値観の転換について、いま国民の意識
に問いかける意図さえこの党にないことが、印象深いのである。

 もちろん、この思想的な無関心は現代日本の広い風潮を反映して
いて、逆に共産党への批判の声をも弱めている。

 昨年、雑誌「アステイオン」は欧州の共産主義論争を紹介し、ス
テファン・クルトワ氏の『共産主義黒書』の長い序文に加え、批判
派、擁護派の論文をまとめて掲載した。共産主義をナチズムになぞ
らえるクルトワ氏の分析は、欧州では共産党崩壊の引き金ともなっ
た問題作であった。だが1999年の日本では、この特集は一部の
知識人を除いて、一般の世論からはほぼ完全に無視されてしまった。
すでに事実として崩壊した党について、その崩壊の意味を問うこと
は興味をひかなかったのである。

 政治から倫理にいたるまで、昨今、社会の基本的な価値観を論じ
る風潮が一般に衰えている。これは特に日本において目立つが、そ
の背景には冷戦後の世界的な傾向があるともいえる。ベルリンの壁
が崩れて十年がたったいま、欧米でも価値観の勝敗は過去の事件と
なり、すでに決着のついた問題として忘れられかけている。人権も
民主主義も当然の正義とされ、市場自由主義を含めて、だれもその
根拠をあらためて論じようとしない。だから一部のイスラムやアジ
アの諸国がそれに疑義を唱えると、欧米人は常識を否定されたよう
な驚きを覚える。
驚きのあまり説得の努力さえ忘れて、いち早く、宿命的な「文明の
衝突」に直面したと思いこみがちになる。

国家の顔が見えぬ
 だが振り返ると、ソ連の崩壊は価値観の勝負の結果ではなかった。
あれは西側の軍事的、経済的な圧力の勝利であり、東側の民衆の富
への欲望、恐怖からの開放への要求の勝利であった。少数の知識人
は精神の自由を説いたが、それが民衆を動かした決定的な力ではな
かった。その証拠に解放後に貧困と混乱が襲うと、ロシア人は現に
ふたたび強い指導者を求め始めている。価値観の勝利というのはお
もに西側陣営の、政治家と知識人の錯覚にすぎなかった可能性が強
い。

 だがあの「事実上(デファクト)」の政治的勝利は、先進国の知
識人にそれ以上の錯覚を招いた。人権と民主主義は世界の「事実上
の標準(デファクト・スタンダード)」であり、それについて説明
責任はだれにもないという感覚が広がったのである。実際には、こ
の政治思想はかつて近代の知識人が創造し、不断の説得によって実
現した正義であった。それは数学的真実のような絶対的普遍の理念
ではなく、人類が歴史の経験のなかで証明してきた善であった。
いいかえれば、それは歴史の新しい段階ごとに再確認され、説明さ
れなおされるべき理念なのだが、今日の国際政治の場にそういう思
想的努力は見られない。

 それにつけて、もう一つ悪い条件をもたらしたのが、世紀末のグ
ローバル化という現象である。グローバル化は従来の国際化と違っ
て、それを進める国家という主体の顔が見えない。利益を主張しイ
デオロギーを説き、影響の拡大をめざす国家という顔が見えない。

文明の衝突の原因に異文化の説得怠る
 市場原理であれ、IT革命であれ、英語であれファッションであれ
、エイズや麻薬犯罪ですら、グローバル化するものはすべて自然現
象のように広がる。コンピューターのキーボードの文字配列が象徴
的だが、そこには特定の国の主張した標準は見あたらない。あらゆ
る基準は気がつくといつのまにか、「事実上の標準」として世界を
支配しているのである。

 政治の場合でも、現代では政策を主張する国家や個人の顔が見え
にくい。国際政治を動かすのもまずは「世論」であり、非政府組織
に加わる大衆である。ソ連のプロパガンダはもちろん、サッチャリ
ズム、レーガニズムなどと個人名のつく政策も見られなくなった。
というより世界政治の大潮流はまず市場が決定して、国家の政策は
それへの対応に追われているようにみえる。すべての面で無署名の
力が世界を左右する時代のなかで、それを見慣れた人びとは社会の
基本的な価値観についても、それが「事実上の標準」として働くこ
とに異常を感じなくなったのであろう。

 だがIT革命やファッションとは違って、政治理念を含む基本的価
値観は人間の倫理に関わっている。社会が「どうなるか」ではなく
、社会を「どうするべきか」に関わっている。それは本来、個人が
責任をもって選ぶべきものであり、それをめぐる合意形成のために
積極的に努力すべきものである。そしてそのためには、人びとは価
値観を暗黙の了解に任せるのではなく、根拠づけと説明につねに新
たな思考を働かせるのが当然だろう。

 たとえば人権ひとつとっても、それが現代では国家主権よりも尊
重されねばならないのは、なぜなのか。神はまず個人を創造したか
らであり、人権は神が与えた価値だからであるのか。あるいは個人
はすべてかけがえのない実存であり、かけがえのある法や制度より
上位の存在だからなのか。それとも人類の歴史は世界化の歩みであ
って、かって村や血縁から独立した個人は、つぎに国家をも超える
のが趨勢だからなのか。このように、そこにはさまざまな根拠づけ
が可能であり、古い民族主義者に対する説明も多様にあるはずなの
である。

 こうした思考を先進国の側が怠っているのに対応して、民族原理
主義者も彼らの独自の「事実上の標準」に拠っている。

 伝統の生活習慣や固有の宗教がそれであって、いずれも民族の
暗黙の了解、説明不可能な価値観として固執されている。それは
暗黙の了解であるために合理的な分析も受けつけず、したがって真
に守るべき部分とそうでない部分の区別もつけれない。結果として
、彼らの文化は片鱗の変化も許さないものとなり、生きた文化とし
ての成長も妨げられる。さらにその頑迷さが先進国を不安に駆りた
て、「文明の衝突」の悪循環の原因にもなるのである。

 グローバル化と民族主義の対決は、こう考えると21世紀の文明
形成の危機だと見ることができる。文明形成とは無意識の伝統や生
活習慣を意識化して、いいかえれば暗黙の文化を論理的な言葉に翻
訳して、それを知らない異文化の人間をも説得することだからであ
る。

 ローマ文明にはローマ法があり、大航海時代にはキリスト教があ
り、19世紀工業文明には啓蒙主義思想があった。これに対して二
つの無意識が対立している現代は、むしろ「野蛮の衝突」の時代と
呼びなおすべきかもしれない。しかしもちろんその原因は歴史の宿
命ではなくて、人間の怠惰にほかならない。

 不思議なことに、こうした価値観の無意識化は、さらにグローバ
ル化と無関係にも現代社会をむしばんでいる。近代とともに進んだ
脱宗教化、宗教的な規範の無意識化が、むしろ逆にそれを暗黙の規
範として強めるという現象を生んでいる。その典型的な一例が、か
ってほかでも書いたが、生命倫理の奇妙なねじれである。クローン
羊の誕生が世界を驚かせたとき、欧米の政府は間髪を入れずにこの
技術の人間への応用を禁止した。一方、人体を機械と融合させる
サイボーグ技術については、脳内に記憶チップを挿入することを含
めて、科学者に自由な研究が許されている。

 合理的に考えれば、生命に人工の手を加える程度の点でも、結果
として人体を改造する効果の点でも、サイボーグ技術はクローン技
術よりはるかに強力である。クローン人間が無性格なロボットにな
る恐れは低いが、サイボーグ人間が予測できない性格変化を起こす
危険は高い。にもかかわらず、西洋社会がサイボーグに甘くクロー
ンに厳しいのは、明らかに世俗化されたキリスト教規範のせいであ
る。一方が生命創造という神の仕事に似ているのにたいして、他方
はすでに生まれた生命の補修の作業にしかみえないからである。

寛容さは両刃の剣 
 だが真の問題は、現代ではこうした議論の提起が難しいのみか、
そもそもこのような疑問が浮かびにくいということである。もし昔
のように、クローン人間がローマ教皇の命令だけで禁止され、規範
をつくる権威の明確な顔が見えていたら、それに疑問を抱くことも
容易であった。天動説が教会の明示的な価値観であったとき、ガリ
レイは「それでも地球は廻る」と呟くことができた。だが今日の
クローン人間禁止は、無数の大衆の心のなかで常識となり、「事実
上の標準」となった宗教心によって行われている。各国首脳もただ
それを代弁しているにすぎず、懐疑的な精神を刺激するような力に
は乏しいのである。

 21世紀はすべてに寛容な時代になり、価値観の多様性がますます
許される時代になるであろう。イデオロギーの対立は消滅し、文化
の相対主義もさらに広く認められるであろう。だがこの寛容さがも
ろ刃の剣であり、社会の基本的価値観への無関心につながり、一転
して恐るべき無意識の通念、独善的な規範の支配を招く恐れを忘れ
てはなるまい。抑圧や対立のない時代に、懐疑的な精神を持ち続け
ることは難しい。しかしそれが可能であることを証明してこそ、
来世紀は人類史のなかで真に新しい時代になりうるはずである。

大下

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