414−2.神道思想とは



●コスモス(15) 題名:自由に、楽しく私論を持ち寄りましょう
 私の禅は私論ばかりです。これを『野狐禅』というのですが、
こうした思考ゲームもまた楽しいものです。釈尊もまた、「鶏が先
か、卵が先か」などというような哲学論議を愛好しておられたとい
います。真剣に人生に悩む人々には不謹慎かもしれませんけど。
言い訳を、同意してもらう事を諦める事。仏教の諦観とは、欲望を
諦めるのではなく、上記のような意味ではないでしょうか?

 さて、前回に禅を銘打っておきながら、参考に出来る知識を増や
しておくべきと思い、今回は神道の知識を御紹介したいと思います。
 神道には、『死穢』という概念があります。死者ならびにその
遺骸は、生者にとって災いを為す穢れに満ちており、よってその穢
れを祓う手順、清め祓いの技術を神道は進化させてきました。
 死刑撤廃論者とその反対者の討論をTVで見ていた時、「ああ、
死刑に立ち会ったというこの撤廃論者は、死の穢れに触れたのだな
」と思いました。

 別に邪霊の類を取り上げているのではなく、単純に「人が死ぬ現
場に、なんの心構えもなく立ち会った者は、その圧倒的な現実の前
に深いトラウマを負う事になる」という私論です。

 撤廃論者のその女性が、安易に死刑に立ち会った、などというつ
もりではありません。どんなに気をつけても、相当な準備がなけれ
ば、死穢からダメージを受けてしまうのです。
 例えば愛する妻子の死に直面したり、目の前で交通事故が起これ
ば、誰もが激しいショックを受けるものです。病気で、もう覚悟し
ていたのに、その死に際して自分でも驚くほど嗚咽してしまう。
 理性で感情は制御できない。悲憤にかられて不幸の道を辿る。
そうした近しい人々を見続けてくると、感情的にもろい日本人は、
死に穢れがあると思ってしまうのでしょう。

 穢れという言葉がいけないのかもしれない。その言葉が差別的な
ものを連想させるのかもしれない。しかし連綿たる歴史の中で人々
の生き死にを見据えつづければ、まだ人生を重ねていない私達には
分からない真実の相があるのかもしれません。

 以前、血の吹き出ないディズニーアニメについて言及した事があ
りました。『バトル・ロワイヤル騒動』を見ても、現代人の現実感
覚がどんどん退化していくように思えます。死穢を迷信だと一笑に
付す人々が、安易な正義やアニメというファンタジーの世界に一日
を過ごすのは皮肉です。

 迷信でもいい。「私は死に、自分のもののみならず、他人の死に
直面するのが怖いのです」と認めること。自分の弱さを認めること
も、トラウマから身を守るには必要だと思うのですが。


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