411−2.得丸コラム



●得丸(36) 題名:近代思想よ、さようなら
 近代に生まれた自由・平等・博愛や、人権、民主主義という政治
思想には、人間の思考や行動を型にはめようとする契機が欠けてい
る。これらの思想は、どちらかというと人間が自己主張をするため
の道具でしかない。自己の内面を反省する契機や、相手の立ち場を
思い遣って身を引く契機を欠く思想だと思う。

 現代においては、ファッションやブランドと同列に現代思想が語
られる。そこで語られる思想は、個々の思想家の思索活動の結果生
まれたかのように扱われる。何をするのか、どう生きるのかよりも
、誰が語ったか、誰の思想かが問題にされる。思想や行動哲学より
、思想家のブランド商品として、ファッションとして意味がある。
どうしてそんなことになっているのだろう。

 「現代思想」などの思想雑誌を見れば一目瞭然だが、そこでは、
不特定多数の人間による相互批判や概念の純化は行われない。まず
何よりも難解さを信条とし、難しい顔やしたり顔で議論するためだ
けの記号として、人間の意識から乖離した概念として、思想が扱わ
れている。誰かがどこかでこう言ったという引用ばかり目立って、
自分はどう生きるか、君はどう生きるべきかという、行動哲学が含
まれていない。どうすれば徳を積んでよりよい人間になるかという
自己鍛練の技法に欠ける。

現代思想はひとりよがりなブランド陶酔者たちのなぐさみものにお
としめられ、人間は生きるための指標(レファレンス)や基準の得ら
れない時代になってしまったのだ。

 かつては人間が社会的に文化的によりよく生きて行くための知恵
として思想は存在していたのに、寺子屋や学校や地域共同体や家庭
などさまざまな場所で思想が語られ伝えられたのに、今は自分を直
くしまっすぐに生きていくための思想を受容する機会が激減してい
る。

 21世紀に人間が行動する際の基準として用いることのできる普
遍的な思想を取り戻すことはできないか、と改めて思う。それには
まず第一に論語や孟子などの古典に求めるべきではないだろうか。
それらは反復と伝承によって生きるための指針としての正しさが証
明されているように思う。
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●得丸(41) 題名:パリの街には出会いがある
パリの街を歩くと、ときどき出会いがある。4年前に僕は個人通信
「地球浪漫」35にこんな記事を書いていた。

「12月初頭のパリ、シャンゼリゼ通りの真ん中にあるFDルーズ
ベルト駅の、1番線と9番線の乗換え通路の中で、パイプオルガン
のような荘厳な響きが耳を捉える。アコーディオンを抱えた若い男
が通路の脇でバロック音楽を演奏している。通勤や買い物客が行き
交う中、しばし足を止める。
 先へ急ぐことをやめて、今という瞬間の永遠性に身を委ねよう、
という思いがよぎる。」

2年前に日本から出張で立ち寄ったパリで、RER(高速地下鉄)のオベ
ールという乗換駅で、八人から十人の弦楽者たちが、演奏している
のに出くわした。それまで耳にしたことのない曲だったが(僕はクラ
シック音楽をほとんど知らない)、とても魅力的な旋律で、その曲目
が終わって、次の曲(ビバルディの「春」)になるまで、じっと聞き
惚れていた。

パリの後に南西フランスのツールーズに行った。その街で、僅かに
あった自由時間のときに、旧市街の迷路のような路地にあったCD屋
で、視聴もせずに2、3枚のCDを買った。Janacekという名前は知っ
ていたので、試してみようという軽い気持ちだった。

日本に帰ってCDを聞いてみると、なんとそのCDの中に、オベールで
街頭音楽家たちが演奏していた曲目が入っていたのだ。"From the 
House of the Dead"というのがそれ。これには感動した。

この中のあるフレーズを着メロにしようと努力したが、うまくいか
なかった。


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