409−1.きまじめ読書案内



福田宏年著「時が紡ぐ幻 ー 近代芸術観批判」(1998年、集英社)

西洋近代の啓蒙思想にこそ人類の驕慢と暴走の源泉、現代の文化喪
失・教養喪失の遠因があるのではないか。文化や文学や芸術だけで
なく、人間行動の大本となる思想の次元においても「近代」は「超
克」されねばならないのではないか。求められているのは私たちが
美しく生きるための「型」であり個我滅却の手法。

・ はじめに  文芸批評を通じた近代芸術観批判
東京で3年間続けてきた読書会鷹揚の会は、この1月でいったん打ち
切ることにした。その最後のテキストに選んだのが、「時が紡ぐ幻
」である。

今やあまり多くの人が読まなくなった文芸批評。そのなかでもとく
に話題にならなかったのがこの本である。ひとつには、著者が急逝
してその後に出版されたこともあるが、近代啓蒙思想批判という大
きなテーマが、現代人に受け入れられなかったということもあるの
だろう。

西洋近代の啓蒙思想は、個人主義的イデオロギーとともに、新たに
「芸術」という新しい概念をつくった。これは、ことさらに個人の
創造性を強調するもので、一回的・個性的・完結的で、合理主義(
分解したり組み立てたりが自由自在にできるという考え方)とリア
リズム(目で見、手でさわったものしか信じない)を信条とするも
のである。

個人の創造性を強調する背景にあるのは、人間が神に変わって世界
の造物主の地位についたと考える驕りたかぶった考えが働いていた
のだろう。そもそもクリエーティブという形容詞は、近代以前には
人間に使われるべき言葉ではなかったらしい。

この近代以降の「芸術」は、それ以前に人類が育て培って来た「芸
」とは根本的に違う。けれん味が多く、熟練度に欠けるほか、再現
性や伝達可能性がない。この芸と芸術の対比の切り口として、本書
は考察を加える。

・芸は身体的に獲得される文化。芸術は怪しげな宗教のようなもの
 か?

芸は、世襲的な伝承の上になりたつ反復的熟成と技法の積み上げに
よって成立する。芸は、個々の人間のもっている青臭くて鼻につく
個性というものを、反復と積み上げによって取り去り、「型」とい
う共同的で伝承可能な高い次元の文化領域へと誘うものであった。

たとえば定型短詩である短歌の本歌取り、縁語の積み上げと豊富な
メタファーは、数ある現代詩がすべて消えても生き残る力をもって
いる。著者は現代詩はすべて消え去ったとしても、斉藤茂吉の晩年
の作品などは時代を超えて生き残るだろうと著者はいう。

一方でいわゆる芸術であるとされる現代詩には、そのような力はな
い。そもそも口語自由詩がコマギレな行分けによって書かれている
のも、そうしないと詩であるということがわからないからだという。

・思想が商品記号と化して、私たちが生きるための型を見失った時代

著者は近代に生まれた芸術というものを批判しているが、まったく
同じ批判が近代以降の思想に対しても行われうるだろう、と私は思
う。

近代に生まれた自由・平等・博愛や、人権、民主主義という政治思
想には、人間の思考や行動を型にはめようとする契機が欠けている。
これらの思想は、どちらかというと人間が自己主張をするために道
具でしかない。
自己の内面を反省する契機や、相手の立ち場を思い遣って身を引く
契機を欠く思想ではないか。

現代においては、ファッションやブランドと同列に現代思想が語ら
れる。そこで語られる思想は、個々の思想家の思索活動の結果生ま
れたかのように扱われる。
何をするのか、どう生きるのかよりも、誰が語ったか、誰の思想か
が問題にされる。思想や行動哲学より、思想家のブランド商品とし
て、ファッションとして意味がある。どうしてそんなことになって
いるのだろう。

「現代思想」などの思想雑誌を見れば一目瞭然だが、そこでは、不
特定多数の人間による相互批判や概念の純化は行われない。まず何
よりも難解さを信条とし、難しい顔やしたり顔で議論するためだけ
の記号として、人間の意識から乖離した概念として、思想が扱われ
ている。誰かがどこかでこう言ったという引用ばかり目立って、自
分はどう生きるか、君はどう生きるべきかという、行動哲学が含ま
れていない。どうすれば徳を積んでよりよい人間になるかという自
己鍛練の技法に欠ける。

現代思想はひとりよがりなブランド陶酔者たちのなぐさみものにお
としめられ、人間は生きるための指標(レファレンス)や基準の得ら
れない時代になってしまったのだ。

かつては人間が社会的に文化的によりよく生きて行くための知恵と
して思想は存在していたのに、寺子屋や学校や地域共同体や家庭な
どさまざまな場所で思想が語られ伝えられたのに、今は自分を直く
しまっすぐに生きていくための思想を受容する機会が激減している。

21世紀に人間が行動する際の基準として用いることのできる普遍
的な思想を取り戻すことはできないか、と改めて思う。それにはま
ず第一に論語や孟子などの古典に求めるべきではないだろうか。そ
れらは反復と伝承によって生きるための指針としての正しさが証明
されているように思う。

思想道場 鷹揚の会 最終回 1月19日(金) 18:30より 
東京都港区新橋3-16-3 港区生涯学習センターにて
「時が紡ぐ幻」の第4章から終章までを読んできて下さい
(2000.01.12)
得丸 久文(とくまる くもん)


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