407−3.邪馬台国はここだ!=その3=



                      Mond
第三章
1.東遷すべき合理的理由
 周知のように、邪馬台国九州説の欠点は、邪馬台国が東遷しなけ
ればならないところにある。欠点というのは、常識的には国を挙げ
て移住するなどということは考えられないからである。邪馬台国の
東遷とは、オーストラリアがよい土地だからといって、国もろとも
集団移住し、首府をシドニーにでも置いて日本本土を直轄の植民地
に格下げするようなものである。皇室も首都も国もすべて移住する
のであるから、本社ビルの新築移転とは桁が違う。常識的に考えれ
ば、そこがどんなによい土地であろうとも、侵略して植民地にする
くらいが関の山で、丸ごと移住するなどとは考えられないのである。

 統一戦争なら理解できるのである。当時は国家の統一過程にあっ
たことは判っている。我々の疑問は、なぜ国家主体を北九州から、
気が遠くなるほど遠い近畿まで遷都したのかである。これが邪馬台
国近畿説と北九州説に分かれた大きな原因の一つともなっている。
合理的な理由がない限り、大挙して故郷を捨てて集団移住するよう
な邪馬台国の東遷は、暴挙とでも呼ぶべきものである。まさに神話
的な御伽ぎの国の出来事になってしまうのである。現実にあったと
いうのなら、是非とも納得できる理由を見つける必要がある。これ
がなければ邪馬台国の東遷を歴史的過去とは誰も認めないだろう。

 邪馬台国の東遷が真実であるなら、モーゼのエジプト脱出には天
変地異が起因したように、決定的な原因、あるいはそれに代わる有
力な原因仮説がなければならない。モーゼがたとえ卓越した指導者
でも、生活に行き詰まらなければ集団は団結して目的地に向かおう
とはしなかっただろう。同じ事が邪馬台国の東遷にも言えるのである。
 あるいはまた、誰もがそうであるが、たった一つの理由で簡単に
決心し、行動に移れるというものではない。重大な理由が二つ三つ
と重なって初めて決心がいくものではないだろうか。国家の政策決
定でも同じである。神の御告げで人や社会が簡単に動くと考えるの
は間違いである。絶大な権威を独り占めにしていたと思われる卑弥呼
(天照大神)の御告げにしても、荒唐無稽な御託宣であれば権威を
貶めることになりこそすれ、高めることにはならないと考えるべき
である。卑弥呼の権威の卓越性はその御告げが時宣にかない、当を
得て賢明であったためと考えるべきであろう。そうであればなおさ
ら、なぜ冒険的な遠隔地ヘの征服遷都を断行したのであろうか。
 邪馬台国の東遷が現実に起きたというのであるならば、国全体が
何か差し迫った状況に追い詰められ、やむを得ず東遷したとしか考
えられないのである。

2.
 私がここに提出するのは、世界的疫病蔓延説である。当時の中国
では後漢王朝を倒し、中国古典文明までも滅亡させるほどに猛威を
ふるった流行病があったらしいことは幾らか我々の眼に触れる文献
に載っている。
 例えば、中国医学の古典である「傷寒論」序文には、著者(張仲
景)の一族二百人の内三分の二が十年で死亡し、その七割が傷寒(
チフスであろうと考えられている。)によって死んだことが書かれ
ている。その時期は後漢末(建安元年から十年間。西暦196年か
ら205年)といわれている。張仲景一族だけに起きた災厄と考え
ることは困難だろう。黄巾の乱以後の群雄割拠の形勢の中で、戦い
に傷ついて死んでいったものもあっただろうが、傷寒は疫病である
から、広範囲に犠牲者が出ていたはずである。

「余が宗族素多し、向きに二百に余る。建安紀年以来、猶未だ十稔
ならざるに、其の死亡する者、三分の有二、傷寒十其の七に居る。」
     (中国傷寒論解説」東洋学術出版社p.124ー125)
三国時代になるとその人口は後漢盛時の十分の一(約五百万人)に
まで激減したことが指摘されている。
 「三国の合計は約五百万人らしい。皇甫謐(215ー282)は
一四○年の後漢の南陽郡、汝南郡の戸籍統計を引用して、「これを
今に方べるに、三帝が鼎足して、二郡を踰えない」と言っている。
これは五百万人弱ということである。黄巾の乱以来、中国の人口は
十分の一以下に激減したわけで、これは事実上、中国人種の絶滅で
ある。...」
       (「倭国」P.59−60岡田英弘著:中公新書)
  もうひとつ。貝塚茂樹著「中国の歴史」(岩波新書)全三巻の上
,210ページの人口表について
 魏     663,423戸   人口 44,328,801 人
 蜀   約 280,000戸         940,000 人
  呉   約 520,000戸       2,300,000 人

 これによると魏では66.8/戸,蜀では3.36/戸,呉では4.4/戸とな
り間違いは明白である。魏の人口を呉の割合で計算すると人口
 2,919,061人となる。このように補正して計算し直すと三国時代の
中国の人口は約616万人となり,やはり大変な人口の激減があっ
たことを窺わせる。(貝塚先生はこれを信じられなかったようだ。)
 五胡十六国時代などは、ゲルマン人の侵入と同じで、明らかに
人口の激減を前提にしないと考えられない。また、H.G.ウエルズは
その「A short history of the world」(P.132)に、ローマ帝国と
後漢帝国が揃って滅亡した原因のひとつは世界的に流行したペスト
であると書いている。ウエルズがどの様にして調べたのかはよく解
らないが、ペストという病名を別にすれば我々の調査とよく一致する。

3.
 当時、大陸の混乱を避けて移住して来る難民もいたであろう。
あるいは、利を求めてやって来る貿易船もあったかも知れない。
そうであるなら朝貢貿易を始めていた北九州の邪馬台国にこの疫病
が上陸し猛威を振るったことは十分に考えられることである。想像
を逞しくすれば、大陸同様に,疫病猖欠を極め、社会不安は極限に
達し、絶大な信望をほしいままにして君臨してきた卑弥呼の勢威に
も陰りが見えて来つつあった,のではないだろうか。
 こう考えるとき、王都を最も遠い征服地の近畿まで遷都したのが
、はじめて理解出来てくる。他に考えようはないのではなかろうか。
あるいは卑弥呼の死はこの流行病のせいかも知れないのである。
 −−−疫病が流行している土地から離れて王宮を構えるのは、誰
もが気がつく防御法である。疫病が流行していれば社会不安が発生
する。王朝の盛時を過ぎていれば中国のように反乱の中に王朝の崩壊
を見るだろう。一方、若い国家であれば社会不安を外に振り向けて
領土拡張に撃って出たり、遷都をしたりして、人心一新を考えるで
あろう。
 聖武天皇がよい例である。天災人災あるいは天然痘の流行する中
、社会不安が蔓延していた聖武天皇の御代、彼は五年にわたって遷都
を繰り返し、平城京ヘ戻ってからは東大寺の大仏建立に血道をあげ
たのである。歴史は繰り返す。まさに卑弥呼王朝の実行したであろ
うこと、そのものではないだろうか。大仏建立の代わりに対外征服
戦争を起こしたまでの事である。天然痘より悪質な疫病が猖獗を極
めていたとすれば、もっと理解しやすくなるのではないだろうか。
 打つ手がなくても国家の責任者は責任を取らなければならないの
だから、ありとあらゆる政策を採ろうとする事は了解可能なことで
ある。

4.
 次に、卑弥呼の死より神武天皇までを日向三代王朝というが、
この様に奥まった地に王宮を置くようになったのは、ひとつには征
服戦争のせいであろう。魏誌倭人伝によれば狗奴国との戦争は継統
中である。記紀によると出雲征伐と神武東遷がたて統いて起きた
時期である。(日向三代王朝は統計的に三代約三十年と考えてよい。
)あるいは出雲との戦争のために内陸に王宮を構えるのは理解でき
ることである。
 このように読み解くならば出雲との戦争は疫病の流行する中、
社会不安を対外戦争に振り向けた西日本統一の覇権争いであったこ
とがはっきりする。これに勝利した後は勢いに乗って統一するばか
りである。これが所謂神武東遷(邪馬台国の東遷)である。当時の
兵站線を考えてみれば、日向(杷木町)より博多湾岸諸国ヘは北西
ヘ一直線であるし、北ヘ道をとれば遠賀川を利用して岡田の宮(岡
垣町)はすぐだし、関門海峡ヘはクキの海(今の洞海湾)から廻り
込んですぐだった筈である。あるいは筑後川の水運を利用する手も
あったであろう。水量は現在のようなものではなく満々たる流れで
あったはずである。

5.
 邪馬台国の東遷が終了した後の十代百年ほど、歴史上の空白の時
代が続く。古事記や日本書紀の記載からは何があったのか判らない。
同じように中国の史書からも同時期の日本の記述が消えてなくなっ
ている。神武東遷までは華々しい活気を感じられたのが以後百年ほ
ど、我々は何も知らされることがない。余りの情報量の少なさに
神武天皇から開化天皇までは架空の天皇であるなどと定説になるく
らいである。このように混乱するのは一体何故であろうか。
 思うに、神武東遷以後、疫病が日本全土に拡散し、中国と同じよ
うに社会を営むに足るだけの人口が激減してしまったのではないだ
ろうか。それまでの活発な国内交易や、人々の行き来は縮小し、
まさに三十年戦争後のドイツのように荒面してしまったのではない
だろうか。それが、もとの人口まで戻るのに百年を要したというこ
とではないだろうか。ついでに言えば、その頃になると、地方にも
新しい力を持った勢力が興ってきて、大和朝廷には従わなくなって
きたのである。そこで改めて日本の再統一戦争が必要になったので
あろう。崇神天皇以降の討伐軍の派遣記事はこのためであろう。
 このように疫病説を採れば無理なく解釈出来るようになる。

 ー説によると,古墳時代に日本に渡来した大陸系の渡来人は
百四十八万人位いたらしいと遺伝学からの統計的推計が発表されて
いる。しかるに、一般的に考えてみると、農民気質というのはよそ
者を嫌う。国にしても百四十八万人などという大げさな人口の受け
入れは耐えがたいものではないのだろうか。それなのにかくも沢山
の渡来人を受け入れることには理由があった筈である。注意すべき
事は大和朝廷に敵対的に侵入してきた形跡がないことである。これ
らを考え合わせてみると、謎の四世紀は疫病によって人口が激減し
、大和朝廷は政策的に渡来人を受け入れたと考える事もできる。
 ただ、ここでは古墳時代の人口は五百万人と推計されており、
弥生時代人口から数回の人口爆発があったことが前提とされている。
これは遺跡調査によって割り出したものであるが、もし、疫病が
蔓延する度に村落を廃棄していたら遺跡の数は増えても人口は増え
ないか、減少するということがある。つまり、遣伝学のほうから
相対的にどれだけの遣伝子プールがあれば現代日本人の形質を説明
し得るかという視点から、五百万人に対して百四十八万人必要であ
るという答えが出たのであって、五百万人という数値が根拠を失え
ば当然この数値も変化してくるのである。人口は常に変動している
ことを忘れると大変な誤解が生まれることになる。

 ある人口統計では弥生時代晩期では二百八十万人、そして崇峻朝
頃に四百万人という数字がある。これを基にして考えると、古墳時
代の人口五百万人というのは晩期で、それも多めに見積ったものと
考えてよさそうである。こう考えれば古墳時代初期の疫病蔓延説は
かえって渡来人の受け入れを――数字は別にして――よく説明出来
るのである。

6.
 このように世界的疫病説を採れば、漢王朝崩壊と五胡十六国時代
の到来、ローマ帝国崩壊とゲルマン族の侵入建国などと同じ理由に
よって、卑弥呼の死から神武東遷と崇神天皇頃までの不明の百年が
、合理的に説明できる。
 邪馬台国の東遷は疫病蔓延から逃れるためのひとつの方策であっ
たというのが筆者の結論である


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