406−2.邪馬台国はここだ!=その2=



                  Mond
第二章
1.
 ここまで解れば芋蔓式に導き出せることがある。例えば、「やま
と」の意味を簡単に読み解くことが出来る。
 邪馬台は「やまと」と読み、その意味は「山門」である。
−−−博多湾岸に住み着いた農耕民が、いつ頃から内陸の筑紫平野
に植民していったのかは判らないが当然「母市と植民市」という
関係があったであろう。そして湾岸諸国と内陸諸国には交通交易が
成立していたであろう。そのころ湾岸の民は内陸の国を何と呼んで
いたであろうか。やはり地形、方位等の目安で呼び始め、それが
国名になっていったと考えるのが妥当であろう。日本、中国などの
例を挙げるまでもないだろう。考えてみるとよい。その交通は二日
市市付近の、山々が門のように左右に迫った狭い「地峡」(=山門
)を通る地はない。そうであるなら湾岸の民が内陸の国を山門
(やまと)と呼んで何の不思議があるだろうか。
 この推論が正しいならば、逆に邪馬台国はこの地峡を制圧してい
た国であると考えて良い。すると、邪馬台国の版図は二日市市のこ
の地峡から杷木町付近まで広がっていたであろうことが判る。
そうすれば、この地峡を制圧したことが戦略的優位に力して大なる
ものがあったことが判る。
大和朝廷が邪馬台国と明らかに異なる系統の国家であることが証明
されるなら別だが、そうでない限り、これほど似かよった名前の国
は同一の国とすべきである。邪馬台国はヤマト国と読むべきである
というたいヘん常識的な判断こそ素直に受け取るべきである。
ヤマトは「倭」であったが、西日本の主な勢力を統一したので
「大倭」となり、倭の字がよくないというので和に字に代え、
「大和」をヤマトの当て字としたのである。
次に、日向の地が比定されたので、神武天皇以前の所謂日向三代王
朝は実はここにあったのであり、かの神武天皇はここから東征に
出発したということになる。

2.(投馬国の比定)
 邪馬台国の位置が解れば魏誌倭人伝の読み方が決ってくる。例え
ば、投馬国が比定できる。この国は「其の戸数道里を略載し得べき
」国のひとつであり、五万余戸ばかりの国とし、官に弥弥、副官に
弥弥那利があるとしている。決して「遠絶にして詳らかにし得べか
らざる」国ではない。その上、「自女王国以北」とあるのだから、
どう考えても博多湾岸諸国の、伊都国、奴国、不弥国、邪馬台国に
近隣する国の筈である。加えて、水行のみで行くことが可能である。
そういう位置を占めていて、邪馬台国七万戸に次ぐ大人口を養える
地理的条件を持つところといえば、遠賀川流域だけではないだろうか。
 投馬国が遠賀川流域の大国であるならば、当時の国際環境から次
のようなことが解る。
 1.二世紀の「倭国の大乱」は主に邪馬台国と投馬国の覇権争奪戦
    であった可能性。
 2.邪馬台国の北九州における覇権は投馬国の協力によって成立した。
  つまり、邪馬台国の覇権が確定した。
 3.台与は高木の神の娘であるが、高木村が筑紫の日向である杷木
    町の北隣にある。高木の神は投馬国の有力者ではなかったかと
    いう推理が成り立つ。というのは、邪馬台国がその王宮を奥地
    の日向まで引き上げるくらいであるからは、投馬国も同じよう
    に奥地に移動しただろう。すなわち、日向と高木という隣同士
    になるのである。
  蛇足ながら、その東隣(日田方面)には大山村がある。「木の花
咲くや姫」の父は大山祇の神である。この頃は日向三代王朝時代で
あった。

3.(狗奴国の比定)
 狗奴国について、魏誌倭人伝をまともに読めば邪馬台国の南方に
あることになり、いろいろ矛盾がでてくることになる。すなわち、
 1.南九州方面の考古学的調査からはいまだに邪馬台国に対抗し得
    る国の存在を立証できない。
 2.もし邪馬台国連合内の敵対分子ならば、一大率の例で判る通り
    有り得ない。
 3.もし邪馬台国内を二分しての争いならば、出雲の介入を招き、
    反対に出雲に征服されたであろう。一大率の威令に畏憚してい
    る状況から推し量るに内乱といったものではないだろう。
 4.狗奴国が邪馬台国の南方にあれば帯方郡との交通を邪馬台国連
    合に既に制せられているので、南には大きくなる余地はない。
 これだけで十分であろう。つまり、南方にあったわけではないし
、九州にあったわけでもないのである。また、九州外としても瀬戸
内海方面ではない。やはり、邪馬台国に死命を制せられているから
である。それ以外の国で我々がよく知っている国で、且つ邪馬台国
によく対抗できる国といったら出雲以外に考えられない。記紀には
高天原に対抗する勢力として出雲系の神、のスサノヲの尊が語られ
ている。狗奴国の王、卑弥弓呼(ひみここ)の名は十分に卑弥呼と
の関係を連想させる。記紀ではスサノヲの尊は天照大神(卑弥呼)
の弟である。

 魏誌倭人伝において卑弥呼が戦う相手は狗奴国の卑弥弓呼、そし
て記紀において天照大神が戦う相手はスサノヲの尊である。卑弥弓
呼=スサノヲの尊は十分に考えるべきことである。例えば、狗奴国
の狗奴は単に「くに」と読んでよいのではないのだろうか。出雲と
いう国の在所を教えず、単に「くに」としか教えなかった可能性も
考えてよいと思う。

4.(一大率)
 狗奴国を出雲とすると、一大率の謎が解ける。魏誌倭人伝に「女
王国より以北に特に一大率を置き諸国を検察す。諸国之を畏憚す。
常に伊都国に治す。」とあるが、諸国とあるのは対馬国、一大国、
末羅国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国のことである。いま狗奴国
と戦争状態であるから、邪馬台国にとって怖いのは、外交的に不利
な立場に立つことであろう。邪馬台国が帯方郡と手を結んだのも外
交的に有利な立場を確保したかったからに違いない。それなら半島
と交通する海人族の国々である、上記七ヶ国を抑えて交通を独占し
ておく必要がある。もしこの七ヶ国が離反すればこの戦争に負ける
くらいは誰でも理解できる。一大率はそのような事態を防止するた
めに置かれた特命機関であったため、畏憚されたのであろう。


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