405−2. 邪馬台国はここだ!=その1=



                     Mond
(はじめに)
  邪馬台国論争を聴くにつけ,見るにつけておかしいと思うこと
がある。それは日本古代に大和朝廷があったのは確かだとする一方
,魏誌倭人伝によると,当時邪馬台国があったとするのにも関わら
ず邪馬台国をヤマト国と読ませずヤマタイ国とし,別の国であるか
のように議論することである。常識的に考えてこれほど発音が似て
いる古代随一の覇権国は同一の国と考えるべきである。そして邪馬
台国は「ヤマト国」と読むべきである。違うというのならそれこそ
証明すべきなのだ。

 そもそも大和を「ヤマト」とよむいわれはどこにあったのか。
小国に分かれていた倭が統一されたために大倭と称し,倭の文字が
屈辱的だというので和に代え大和とし,統一した国の名が「やまと
」であるために大和と書いてヤマトと読ませたことくらいは誰でも
考えつく。

 一方,魏誌倭人伝を自分の目で読んだ人は誰でも解るように倭人
の国,邪馬台国は九州である。どこをどう読んでも奈良盆地には行
き着かない。うそだというのなら自分で自分の思考力を信じて原本
を読んでみられたら良い。こうなるといわゆる神武東遷を史実であ
ると認めない訳にはいかなくなる。

 伊耶那岐(イザナギ)の尊の「禊ぎの地」は、いくつか説があっ
て確定していないようである。筆者がこの問題に興味を持ったのは
、俗説にあるように、もし天照大神が卑弥呼として実在ならば、
伊耶那岐の尊はその父であるから、その禊ぎの地を確定すれば論理
的帰結として邪馬台国の位置を確定できるのではないだろうか、
ということにあった。私は邪馬台国の位置を特定し、そうすること
によって、投馬国、狗奴国の位置を比定し、一大率の役割を推測し
、神武天皇はなぜ東遷しなければならなかったのか、その合理的理
由を考えてみたい。

第一章
1.
 今まで誰も試みたことのない方法で邪馬台国の位置を法定する事
は出来ないものだろうか。私の試みた方法はこうである。
 卑弥呼が天照大神の実在モデルならば天照大神の父である伊耶那岐
(イザナギ)の尊は実在していて卑弥呼の父であると仮定するので
ある。そうだと仮定すると「伊耶那岐の尊」の活躍舞台を特定でき
るなら「天照大神」はその娘であり、また「天照大神」が「卑弥呼」
なのであるから、その地がすなわち「邪馬台国」ということになら
ないだろうか。つまり、卑弥呼親子が実在し,政権の委譲があった
と仮定するのである。ここで前提条件としているのは「卑弥呼は
天照大神と同一人物である」という仮説だけである。

2.
 古事記によると彼伊耶那岐の尊は国産みの最中に、その妻、伊耶
那美(イザナミ)の尊が死んで黄泉の国ヘ旅立ったのを悲しんで、
彼の国を訪ねる。ところが散々なことになって逃げ帰ってこう言う。
 「吾はいな醜め醜めき穢き国に到りてありけり。かれ吾は御身の
禊せむ。」
 そこで、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ
祓えたまいき。」となるのだが、ここで彼、伊耶那岐の尊、「上つ
瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し。」と言って、「初めて中つ瀬に潜きて
、滌ぎたまふ...」という具合いになる。
日本書紀にも同様の記述があるが、まとまった記述は後にも先にも
これだけである。
 一読して判るのは、
 「竺紫の日向(ひむか)の小門(おど)の阿波岐原(あはきのは
ら)」を流れている川があって、その上流は流れが速く、またその
下流では流れは緩くなっている。流れが速や過ぎもせず、緩(ゆ)
る過ぎもしないその地点で、伊耶那岐の尊は禊ぎ(みそぎ)をした
というのであろう。上つ瀬とか、下つ瀬とかいうのであるから、海
や湖ではないだろう。川と判断したい。次に地名が幾つか挙がって
いるから、これを頼りに伊耶那岐の尊の禊ぎの地を特定できるかも
知れない。ただ、これが地名だとしても約二千年の時の経過がある
ので、あるいは変化していることも当然考えておかなければならない。

3.
 一般に、禊ぎの地は彼の治める国の中でも神聖な土地であろう。
つまり、高天原の中でも最も神聖な場所であり、邪馬台国のなかで
も卑弥呼の直轄地中の直轄地の筈である。
一般的に考えると、「竺紫の日向」は九州の宮崎県であろう。なぜ
なら、日向はヒュウガであり、宮崎はヒュウガの国であるだったか
らである。宮崎に「橘」や「小門」や「阿波岐原」という地名など
があるだろうか。また、そこに川が流れていて、急流から緩流ヘと
変化しているだろうか。そこで字(あざ)まで載っている比較的詳
しい地図帳で調べてみると本当にあるのである。そこはなんと宮崎
市であった。川の名は大淀川といい、その河口付近に小戸町、その
北側に阿波岐原町がある。また橋の名に河口の方から小戸橋があり
、一つおいて橘橋がある。必要条件は全部出揃っているのであるが
、あまりに揃いすぎているので逆に信じられない。疑問点が幾つか
ある。
 1.現在の宮崎市あたりに邪馬台国の本拠があったと考えるのは果
    して妥当だろか。
 2.位置的には平野に川が貫流していて地名が一致しているのはよ
    いとしても、
  本文のニュアンスは急流から緩流ヘ移り変わる中流域にある。
    ここは余りに河口に近過ぎはしないだろうか。
 3.二千年を経たにしては字ずらがあまり変化していないようであ
    る。もう少し変化していた方が自然な気がする。
 そこで試しに明治三十五年版の五万分の一地図によって確かめて
みたところ、小戸町も小戸橋もないし、阿波岐原町もない。ただ
アオキ(檍)村があるばかりであった。
 考えてみれば、「日向」という国名を賜ったのは景行天皇の九州
巡幸の折りであった。
  日本書紀の景行天皇十七年の条に、
 「子湯県に幸して丹裳小野に遊びたまふ。時に東の方を望して左
右に語りて曰く「是の国は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。
故に其の国を号けて日向と曰ふ。」とある。
 景行天皇は第十二代である。神代(かみよ)の時代から約百五十
年ほど後の代である。古事記にも、九州には白日別(筑紫の国)、
豊日別(豊の国)、建日向豊久士比泥別(肥の国)、建日別(熊曾
の国)があるとして、宮崎はすっぽり抜け落ちている。あるいは
熊曾の国に入っている。伊耶那岐の尊の時代にはまだ宮崎の地は
登場してこないというべきであろう。

4.
 それではどの様に考えたらよいのであろうか。
現実に伊耶那岐の尊の禊ぎの地は存在するのだろうか。
 1.「竺紫」は筑紫の島か筑紫の国である。島ととれば九州全体
    になり、国ととれば筑前、筑後の国となって狭くなる。
 2.「日向」は日向の国ととれば宮崎県となるが、上述のように
    一度は失敗している。「ひむか」という地名ととれば捜し様は
  あるだろう。あるいは地名以外に考えようがあるかも知れない。
 3.「橘」や「小門」や「阿波岐原」は訛ったりして変化してい
  ても地名ではないだろうか。
 4.「阿波岐原」という平野(野原)に川が流れていて上流は急
  流であり、下流は緩流になっていて、この地点では速過ぎもせ
  ず緩過ぎもしない様な地点。
  あるいは急流がこの地点にさしかかる頃ようやく流れが穏やか
  になるような地点である。というと、山中を流れ下ってきた急
  流が平野に出て、ようやく穏やかな流れになる地点の平野の名
  が「阿波岐原」またはその訛った名である所。
 この際、宮崎県は熊曾の地に近すぎると思われるので置いておこ
う。そうすると「竺紫」は福岡県とその周辺に限られてくる。そこ
で地名の「日向」を捜す一方、地理的な条件である阿波岐原平野に
川が流れている、そこは山から平地に流れ出たところであるという
条件を満たすところを捜そう。
 比較的詳しい地図を頼りに「日向」という地名を捜せば五、六ヶ
所見つけることが出来る。
 1.前原三雲の東方にある日向峠
 2.秋月東方の日向石
 3.耳縄山中の日向部落
 4.大分県日田市東方の日向野
 5.八女市東方の矢部川上流の日向神
 6.熊本県側の山中に日向部落
 このうち山中の日向部落は「ひなた」部落といって意味を異にし
ているので除かなければならない。それにしても平地の「日向」は
ないではないか。この中での共通点はというと、東方、それも当時
から人家があったであろうと思われる平地からみて東方に「日向」
の地名があるということくらいである。
 「日向」を古語辞典で調べてみたら面白いことが書いてあった。
岩波の古語辞典によると、
日向(ひむかい)----日の射す方、東東(ひむかし)日向しの意。
                    しは風の意から転じて方向を示す。
とある。これは、ヒムカ ⇒ ヒムカシ ⇒ ヒンガシ ⇒  ヒガシ
と考えてよいだろう。「日向=東」と解釈して不都合があるだろうか。

   ひんがしの野にかぎろいの立つ見えて
        かヘり見すれば月かたぶきぬ(柿本人麿)

 宮崎の場合は故意か、まるで逆の発想になっている。本来なら「
向日(むかい)」とでも名付けるべきだったのである。たとえば
建日向日豊久士比泥別という国があったのだが、これを建日、向日
、豊、久士比泥別と分けたら向日がちゃんとあるではないか。(古
事記に「次に筑紫の国を生みたまひき。この島も身一つにして面四
つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の國を白日別といひ、豊の國を
豊日別といひ、肥の國を建日向日豊久士比泥別といひ、熊曾の國を
建日別といふ。」とあり、脚注に、誤伝があるとして、日向の別名
が挙げられているのだろうが、そうすると面四つというのに合わな
い、とある。)
 日向というのが東であるならば、竺紫の国の東の方ということに
なる。竺紫の国の東方で山から平野に川が流れ落ちてきて、急流が
緩流ヘ変化するような処を捜せばよいことになる。そこに地名とし
て「小門」や「橘」や「阿波岐原」という名があれば、かなりの
確率でそこがまさしく伊耶那岐の尊の禊ぎの地であろう。

 地図帳でそこを捜してみると、ドンピシャリの場所があった。
筑後川の中流、大分県との県境付近である。日田盆地から筑後川は
岩を喰んで急流として流れ落ち、平野に出て大河然とその風貌を変
えていく地点である。地名に「橘田」がある、「杷木(←阿波岐原)
」がある。竺紫の日向の地である。小門はなかったが、五つ中四つ
が揃い、地理的条件はまさに当時そのままの場所が見つかったので
ある。
 福岡県朝倉郡杷木町付近、それが答えである。

5.
 ここが日向であるという暗示は日本書紀の景行天皇九州巡幸、
十八、十九年の条にもある。「(十八年)八月に、的邑に到りて
進食す。......昔筑紫の俗、盞を号けて浮羽と曰ひき。十九年
の秋九月の甲申の朔癸卯に、天皇、日向より至りたまふ。」とある。
実際に本文に当たってもらったら判るが、その文脈は「日向=浮羽」
と読んでも違和感がない。それから、浮羽からどの道筋をとって帰
ったか全く触れていないのである。また、せっかく北九州までやっ
てきて博多湾岸地方を巡幸しないというのも変な話であるし、わざ
わざ遠回りして当時の道なき険しい山道を宮崎県(日向)まで出て
帰るというのは理解出来ないことである。常渡的には博多湾岸諸国
を巡幸してそこから船に乗って帰るというものではなかろうか。
そうであれば、景行天皇はこの地に約一年滞在したことになる。
理由はこの地が遠い祖先の故地であったからに他ならない。この様
に理解するならば斉明天皇が白村江の戦いの折り、この地に行宮、
「朝倉橘広庭の宮」(大本営)を営んだ理由も半分は解けたことに
なる。
 記紀の作者達が神話作成上、高天原が、実際に地上界にあるのは
まずいと考えてもその気特ちは理解できる。そこで日向を筑紫の国
から九州に拡大して、筑紫の日向の故地からその名を抹殺したので
はないだろうか。いま福岡県南部や熊本県北部に残る、「山門」の
地名は、当時の邪馬台国の辺境に残った国名の名残であろう。この
様にして真実を作意によって霧の中につつんだのだと思う。
 伊耶那岐の尊の「禊ぎの地」には高(香)山がある。はっきりい
えば高山の麓に当たる。そしてこの山は俗に「天の香久山」に比定
されている山である。また、この地に生まれ育った老人によると、
上流にダムが出来る前はこの朝倉橘広庭宮跡前までが急流だったそ
うである。地図によれば旧河道などがあって、当時そのままの河道
ではないようだが、推理の手掛かりになる話である。


コラム目次に戻る
トップページに戻る