400−2.形而上学と神学



 ほそかわです。NO.393−3の「形而上学と神学」について
お送りします。
 素人なりのノートです。ご専門の方がいらっしゃいましたら、修
正・補足をお願いします。

<得丸様/とくだ様>
> >>「神学」という学問は、論理(言葉、概念)でしかない一神教
> >>の神の存在をめぐる学問であり、日本の神道の場合は神学その
> >>ものが存在していないわけです。 
>
> >この神学の定義は少しピントが外れていると思います。基本的に、
> >神の存在を議論するのは形而上学であり、神学は神を既に認めて
> >いる人が「啓示」に基づき、さらに深くその視点に立って世界の
> >諸領域を考えていくものです。 
> 
> 形而上学と神学の区別は私は不通であり、よくわかりません。
> どうかわかりやすく教えてください。 

 現在、神学といえば、主にキリスト教神学をさして用いられます。
これに限れば、とくだ様の記述は大略そのとおりと思います。しかし、
キリスト教以外も視野に入れると、定義をもっと広くする必要があり
ます。
 神学とは、広義には「有神論をとる個別宗教の信仰や教義をその
立場で研究する学問」(水垣渉氏)と言えましょう。この定義は、一
神教や啓示宗教に限らず、あてはまります
 広義であれば、日本の神道に神学がなかったとは言えません。ち
なみに、日本語の「神学」という言葉は、「神典・神道を研究する学
問」をさして使われてきました。ただ現在では、英語 theology の訳
語として、主にキリスト教神学をさして用いられているので、一般的
でないだけです。

 訳語としての「神学」の原語は、 英語では theology です。この語
は、ギリシア語のテオス theos (神) についてのロゴス logos (言論、
教え、説明) を原義とするテオロギアに由来します。この語は元来
ギリシアで、神々について神話論的に物語ることを意味しました。
のちアリストテレスが、哲学的・形而上学的な原理としての神につい
て論じ、この学問をテオロギケーと呼びました。そして、アリストテレ
ス哲学が、キリスト教に採り入れられて、西洋のキリスト教神学が
展開されてきました。それゆえ神学の語には、神話論的神学と学問
的神学の両義があるわけです。

 日本神道について言うと、神道は古代ギリシャの宗教と同じく多神
教に分類されます。神道において、神々について物語ることを神学
と呼ぶことは、theology の原義にかなっているのです。また、神道
の教義・倫理・信仰生活等の学問的な研究を、神学と呼ぶことも
可能です。それゆえ、わが国の中世以降に現れた、さまざまな神道
の教説・研究を、現代の立場から神道神学と総称することができま
しょう。

 次に、神学と形而上学の関係についてですが、これらは本来対立
するものではありませんでした。神学は、形而上学の一分野だった
からです。
 今日では、形而上学は、一般に「経験的現象を超越した実在、原理
あるいは仮説、想定に関する理論的考察」(茅野良男氏)という意味
で使用されます。必ずしも神の存在を前提にせず、特定の宗教の信
仰とも関係しません。
 形而上学(metaphysics)は語源的には、アリストテレスの講義草稿
が編集された際、自然学(タ・フュシカ)の後に (メタ)、全体の標題のな
い草案を置いて整理されて、「自然学の後に置かれた諸講義案 (タ・
メタ・タ・フュシカ)」と呼ばれ、これがメタフィシカ metaphysica と称され
たことに基づきます。
 アリストテレス学における「形而上学」は、内容的には、自然学に原
理上先立つ存在者の一般的規定を扱う第一哲学、すなわち今日言う
ところの「存在論」と、自然的存在者の運動の起動者としての神を扱
う「神学」を含みました。それゆえ、アリストテレス学では、「形而上学」
の一分野が「神学」だったわけです。

 ローマ帝国の滅亡後、アリストテレス学は、イスラム教圏で発展し、
非常に高い水準にあったと言われます。これが当時は辺境の後進地
帯だったヨーロッパに輸入され、キリスト教神学に採り入れられました。
そこで教父たちによって展開されたスコラ哲学は、今日もキリスト教界
に影響を及ぼしているようです。一方、ヨーロッパ近代において「呪術
からの解放」と全般的合理化が進展するとともに、形而上学のキリス
ト教神学からの分離が進んでいきました。
 西洋近代哲学では、ウォルフ、カント、ヘーゲル、シェリング、ショー
ペンハウアーなどのドイツ観念論や、ニーチェ、ベルグソン、ハイデ
ガー、ヤスパースなどにおいて、それぞれの立場からの形而上学が
論じられました。なかでもハイデッガーは、かつて形而上学の一分野
であった存在論を根源的に問い直しました。「存在者の存在とは何
か」という彼の問いは、時間性から言葉・大地等へと深められ、西洋
文明・現代技術文明への根本的批判を発するものとなりました。

 わが国では、戦前からハイデッガーの影響の下、独創的な思索が
行われてきました。それは、西洋の「存在(有)」の根底に考えられる
「無」を原理とした形而上学です。絶対無の場所の哲学を展開した
西田幾多郎の思索には、仏教を始めとする東洋思想・日本文化の
影響が色濃く見られます。
 もともとメタ・フィシカの訳語に使われた「形而上」という言葉は、儒
教の経典「易経」から採られたものでした。この字義での「形而上学」
は、「有形の器すなわち自然の形象を超えた無形の道すなわち原理
の学」(茅野良男氏)の意味となります。ギリシャに始まった「形而上
学」が、ヨーロッパを経て日本にいたり、東洋の精神的伝統と出会う
ことによって、新たな思索の界域へと入ったわけです。
 西田哲学の宗教的側面は、田辺元、西谷啓治、滝沢克己らに継承
され、キリスト教・西洋哲学と東洋の伝統思想に共通する原理が追求
されています。この試みは、東西の宗教の対話を促すものともなりま
した。
 また、トランスパーソナル学においては、これまでの心理学・精神医
学の諸学派、世界の諸宗教や霊的伝統を総合的に地図化して、魂
の発達を追求する、新しい実践的な形而上学が展開されています。
その代表的論者に、ケン・ウィルバーがいます。

 日本神道にも、こうした成果を活用することは可能であり、神道神
学を、現代形而上学を用いて展開する試みが期待されます。

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ほそかわ・かずひこの<オピニオン・プラザ>
http://www.simcommunity.com/sc/jog/khosokawa
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