399−1.生きるための行動指針



Re:いろいろな思想を遍歴した結果、論語と孟子に行きついた 
                        BABEL
   
得丸さん、質問が山積みでお忙しいと思いますが、もう1件追加さ
せていただけますか。 

>なぜ、何を考えて、思想家たちの側にいたのかわからないけど、
>興味だけはあった。 
世俗的多神教的宗教観の上に立った和風表現を許していただけるな
ら、神様が得丸さんを導かれたのでしょうね。 

> 思想というものに、世界を変える力を感じていたのかな? 
そして、世界と一体化して、歴史の一瞬一瞬をそこに生きる人たち
と共に紡ぎたいと思われたのですか? 
「388−1 南アフリカ 3部作」を読ませていただいて、そう
感じました。 

>東洋古典の思想は、まず何よりも自分を律する思想。
>外の世界を美しくするためには、自分自身を美しくしなくてはな
>らない、というものだった。 
>これも荒川修作の言っていることと同じですね。 
>西洋近代の啓蒙思想は間違っている、自由、人権、民主主義なん
>て概念にはちっとも思想性がない(自分を律するところがない)
>と思い至ったんだ。 
>福田宏年「時が紡ぐ幻」を読んで、その思いはますます強くなった。

「自由主義に思想性がない」というフレーズに、私、目がテンにな
りました。得丸さんの切り口には、しょっちゅう、ぎょっとさせら
れます。 
自由主義が西洋のキリスト教を中心にした啓蒙思想の賜物であるこ
とは、特に取り上げる必要はないと思います。 

得丸さんは、自分を律するところのない自由主義を意識の行動基準
としては失格だとおっしゃるのですね。確かに、キリスト教が体に
染みこんでいない人にとって、自由、人権、民主主義は自分を律す
る方向づけの薄い概念かもしれない。 
私は、今の憲法を否定しないけれど、借り物の制度だと思っていま
す。以前、得丸さんが書かれた「343−2 和魂なき憲法論争」
には同感する点が多いです。 
あ、今のテーマは憲法論議ではありませんでした。すみません。話
を元に戻します。 

じゃあ、自由主義はやめだ。例えば吉田松蔭の「仁・智・勇」を心
に実践しようとふみきれるか、というと私は、ためらってしまいま
す。「これから、日本人は何をよりどころに生きていけばいいのか
」、「今何かしないといけないのでは」と、日頃迷っている者にと
って、得丸さんの論は、一つの答えになり得るのです。 
でも、「よし、try and error だ。とにかくやって
みよう!自分を律して、よりよく生きるんだ」とふみきれないので
す。 

なぜだろう、と考えました。 
私達は、自由主義、個人の尊重を頂点に戴いた教育を受けてきまし
た。その影響があるかもしれません。でも、一旦は無条件で植えこ
まれた概念だって、心から正しくないと思えば破棄できるはずです。

それなのにそうできないのには、他に理由があるからではないだろ
うか、と思ったのです。つまり、自由主義の本質は、西欧社会の啓
蒙思想、それだけではない気がするのです。そこで、(もうすぐ
ROMに戻る)私の質問の妥当性を含めて、得丸さんにお答えをい
ただけたらと思いました。 

自由という概念には、強烈な魅力があるのです。 
自分の好きなことを好きなようにすることがすばらしい、と言われ
て、うれしくない人がいるでしょうか。(たとえ、「公共の福祉に
反しない限り」というハートフルな制限条件がついていても) 
自由主義の心地良さは、啓蒙思想のありがたみというより、むしろ
私達のだれもが持っている生の本能に沿っているからではないでし
ょうか。 

生物を個のレベルで支配する遺伝子の神様は、決して「汝、律せよ
」とは言わない。「汝、よく自己増殖せよ」です。(ハチ・アリ社
会に見られる種のレベルの統制は考えないでください)
生の本能 = 遺伝子の神様が支配するアニマルな部分は、自由主
義となじみやすくはないでしょうか。 
だからこそ、自由主義を簡単には手放せない、ということはないで
しょうか? 

私は、利己的な女だからことさらなのでしょうが、自分の中のアニ
マルをよく意識します。自分の中の理の部分(よりよく生きたいと
いう願望)と本能=アニマルな部分は、時にせめぎあい、時になび
きあいながら常に存在するのです。 
仁・智・勇の世界は美しい思想の世界です。 

>思想は人類が長い歴史の中で造りあげた、よく生きるため、美し
>く生きるための文化だと思います。 
同感です。 

>思想は、あるかないかの問題です。思想なしに生きるのはアニマ
>ルです。人間は思想とともに、思想をもって生きなくてはならな
>いと思います。 

一部、異論ありです。私は、自分の中にあるアニマルな部分も活か
す行動をなんとか取れないかと思うからです。 
なぜなら、そこにはやはり私が生きている本質が存在するからです。 
本能と思想は相反することも多いけれど、決してそれだけではなく
て、生を完遂するために補完・相乗しあうこともあるからです。 
でも、ものすごく制御が難しい。論語には、この制御方法について
は書かれていなかったように思います。 
師は、アニマルの苦悩をスイスイ乗り越えてしまったから、わざわ
ざ書く必要がなかったのかもしれないけれど、アニマルも思想も
意識している私は、この関係にどうやって対処すべきかを知りたい
のです。 
結論が得丸さんと同じようにアニマルを排除して、仁・智・勇に生
き切ることに行き着くにしても、思想の進化過程を知りたいのです。 

>身体の一部としての思想、意識に焼き付けられた思想、現代の行
>き詰まりを打開するには、それがもっとも大切なのではないだろ
>うか。そんなことを思っています。 
>だから、できればこの国際戦略コラムの場を、思想獲得の場にし
>たい、若い人たちが、間違わずに生きていけるように、思想を彼
>らの意識の上にインストールする手伝いをしたい、、、 
>そんなことを考えています。こういうの思想家の仕事っていうの
>でしょうかね。 
では、思想家、得丸久文さんへ質問です。 
アニマルと東洋古典の思想(自己を律し、よりよく生きるための行
動指針)をすりあわせ、両者を活かす方法はあるでしょうか? 
もしもあるとすれば、どのようにすれば良いとお考えですか? 
==============================
自由と仁智勇との両立について       得丸久文
BABEL様、 

いつも深く丁寧な読みこみと、厳しい質問を投げかけていただき光
栄です。厳しい質問とはいっても、その背後にあなたの温かい心を
感じます。 

>世俗的多神教的宗教観の上に立った和風表現を許していただける
>なら、神様が得丸さんを導かれたのでしょうね。 
あなたとの短い出会いも、きっと神様のお導きなのでしょうね。 
もうすぐROMに戻られるというのは、冬眠ですか、それともどこか
他の星にでもお出かけになるのですか。 
この地球上にいるかぎり、いつかまた国際戦略コラムに遊びにきて
ください。 

>そして、世界と一体化して、歴史の一瞬一瞬をそこに生きる人た
>ちと共に紡ぎたいと思われたのですか? 
対象と一体化して、問いを発せよ、というのは鈴木大拙「禅」の中
の言葉でした。そのように生きたいと思います。 

>「自由主義に思想性がない」というフレーズに、私、目がテンに
>なりました。 
思想が、自らの意識を型にはめるものであるとすれば、西洋の自由
主義や啓蒙思想には型性が感じられませんよね。だから思想性がな
いと言ったのです。(ここでいう型とは、武道の型と同じ意味で使
っています。武道の場合には、型を覚えることが自由な技使いにつ
ながります。) 
斎藤孝「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生」(NHKブック
ス)も読んでみてください。 

>確かに、キリスト教が体に染みこんでいない人にとって、自由、
>人権、民主主義は自分を律する方向づけの薄い概念かもしれない。 
キリスト教には、植民地主義の尖兵になったという暗い過去があり
ます。南アフリカも、南米・北米も、インドも、どこでもヨーロッ
パの植民地主義とキリスト教宣教師は共犯関係にあったのではなか
ったでしょうか。キリスト教には、もちろんいい教えもあるし、
わが身を呈して奉仕活動をしておられる方も大勢いますが、植民地
化に加担した罪は、反省していないし、消えていないと思うのです
が、いかがですか。 

>つまり、自由主義の本質は、西欧社会の啓蒙思想、それだけでは
>ない気がするのです。そこで、(もうすぐROMに戻る)私の質
>問の妥当性を含めて、得丸さんにお答えをいただけたらと思いま
>した。 
>自由という概念には、強烈な魅力があるのです。 
> 
>私は、自分の中にあるアニマルな部分も活かす行動をなんとか取
>れないかと思うからです。 
>なぜなら、そこにはやはり私が生きている本質が存在するからで
>す。本能と思想は相反することも多いけれど、決してそれだけで
>はなくて、生を完遂するために補完・相乗しあうこともあるから
>です。でも、ものすごく制御が難しい。 
>論語には、この制御方法については書かれていなかったように思
>います。アニマルも思想も意識している私は、この関係にどうや
>って対処すべきかを知りたいのです。 
>結論が得丸さんと同じようにアニマルを排除して、仁・智・勇に
>生き切ることに行き着くにしても、思想の進化過程を知りたいの
>です。
> では、思想家、得丸久文さんへ質問です。 
>アニマルと東洋古典の思想(自己を律し、よりよく生きるための
>行動指針)をすりあわせ、両者を活かす方法はあるでしょうか? 
> もしもあるとすれば、どのようにすれば良いとお考えですか? 

自由主義や自由の言葉の定義にもよりますが、仁智勇を生きた吉田
松陰は、実に自由に死んでいきました。安政の大獄での刑死でした
が、本人はあえてそれを望んでいたそぶりがあります。 
(関根悦郎著「吉田松陰」によれば) 
その結果、彼の業績は不朽のものとなり、今なお我々に直接語りか
けてくる著作を買うことができるわけです。 

この自由は何なのでしょう。 
肉欲や物欲を絶ちきったうえで、純粋に心のための自由を求めた結
果ではないでしょうか。無私の境地は絶対的な自由を与えてくれま
す。何も恐れるものはないのです。自らの命すら惜しくはないので
すから。

松陰は物欲(手足目耳口鼻があって成り立つ欲望は物欲)と、心の
欲する欲望とを分けます。人間は心があるから人間なのです。 
心の赴くままに生きることが一番自由な生き方ではないでしょうか。 
物欲は一時的な欲望を満足させますが、心の欲望は絶対的で永遠です。 

自分の心を純化させ、礼を尽くし、愛を交わした結果行われる生殖
活動であれば、それをアニマルと呼ぶことはできない。 
つまり大切なことは真心(仁)に従って、礼にかなった行為を取っ
ているかどうかです。 

仁智勇は私たちの取るすべての行為を人間らしいものにしてくれま
す。何も恐れる必要はありません。何も失うものもありません。 
何者もあなたを束縛することはできません。あなたの存在自体が
「絶対」になるのです。 

あなたの本能を否定する必要はないのです。ただそれが礼にかなっ
ているか、真心から出たものかを確かめればいいのです。 
少しはこれで仁智勇の実践に興味をもっていただけたでしょうか。 

重ね重ね丁寧な質問をいただいたことを感謝します。 
お元気で 
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(Fのコメント)
BABELさんは、子供さんを出産するためにROMになるのです
よ。また、BABELさん、元気な子供さんを産んで、戻ってきて
ください。

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