395−1.心とは何か



おはようございます、得丸です。

今朝12月26日の富山は、夜来の雪がつもって真っ白です。
我が庵 野山庵からはまだ降り続く雪と、枝を雪で真っ白にした
公園の木々とが、見えます。
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就職活動をする大学生たちのための仁智勇

12月17日に博多で就職活動をする大学生たちのために短い講演をし
ました。その中で、仁智勇についてご説明しました。皆様のご批判
ご意見をいただければと思い、簡単に要旨をご報告します。
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社会人になるということは、人間として社会に形づくられることで
あり、また社会人として育った暁には、自らが社会を形づくる責任
をおうことになる。

就職活動とは、社会人になるための通過儀礼。あまり余計なことは
考えずに仁智勇だけを考えて臨みなさい。

仁とは、行動の動機づけ。
1 仁とはまごころである。親身に相手の立場にたって、相手のた
めになることをひたすら考えてあげること。不況業種だから行かな
いではなく、不況業種だからこその大変さがあるのだろうなと思い
遣る。不祥事や事件があったなら、そのときの関係者の気苦労を思
い遣る。
 幼いころからの自分を見つめ、自分の適正や好きなものは何かを
探り当てること。これもまた真心である。

2 仁とは自分の損得を考えないことである。無私の精神。給料の
多い少ない、待遇のいい悪いに惑わされてはいけない。計算をして
はいけない。

3 仁とは感受性でもある。会社の社風と自分ははたして合うのか
どうかを会社訪問のときに感じ取りなさい。

智とは、行動の照準。
1 智とは本を読むこと。それも本に書いてあることを真に受けて
はいけない、かといって疑ってかかってもいけない。先入観をなく
して、著者は何が言いたいのだろうかと自分の心を本の中に入れる。
この読書術はなかなか簡単には身に付かないだろうが、真に受けず
疑わずという態度で本を沢山読みなさい。

2 智とは現場に行くこと。実際に人が働いている現場に行ってみ
る。経験者の話を聞いてみる。あるがままの様子を無心に見つめる。

3 智とは、対象と一体化することで、生まれてくる問いでもある
。本で読んだこと、実際に見聞きしたことを整理していくうちに、
問いが自分の中で自然に生まれてくる。問いが生まれれば、それ自
体がすでに解決に結びついている。

勇とは、実行の決断。仁も智も勇がなければ意味がない。勇がもっ
とも大切。
1 勇とは時機(タイミング)を逃さないこと。そのためにはいつで
も決断できるように平素から心掛けておかなくてはならない。

2 勇とは、気概を持つこと。英雄や聖人だって一人の人間にすぎ
ない。自分だって同じだ。世界を変えてやるくらいの気概と自信を
もって行動に望むこと。臆するな。

3 勇とは、まず自分から動くこと。相手が動くかどうかは相手が
決めること。自分が動くかどうかは自分で決められるし、コントロ
ールできる。自分が動くと相手も動く。
 かりに今年募集のない会社であっても、自分がどうしてもそこで
仕事をしなくてはならないということを説得できれば、道は開ける
かもしれない。

 就職難といわれるが、就職口なんてあなたに適したものがたった
ひとつあればいいのだ。何の心配もいらない。仁智勇だけを武器に
して、就職活動に臨みなさい。
以上
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得丸@財団法人環日本海環境協力センターです。
一年ももうすぐ終わりです。
この一年いろいろとお世話になりありがとうございました。
私は大厄の年でしたが、転職して富山に住み始め、おかげさまで大
過なくすごすことができました。これも皆様のおかげと感謝してお
ります。

みなさんにとってはどんな一年でしたか。
http://totsuka-yacht.com/
戸塚ヨットスクールのホームページに「心とは何か」という記事が
ありました。
かつて戸塚先生は、仏教のお坊さんに空とは何かを訊ねたのですが
、お坊さんはこたえてくれなかったそうです。

−1− 教戒師にお灸
(以下 戸塚ヨットスクールのHPより引用)
戸塚 宗教家、特に仏教の人が、「心と精神は違う。皆さんがいう
のは精神であって、仏教でいうのは心です」という言い方をします
が、そういっている坊さん自体がわかっているとはとても思えない
です(笑)。

 私が拘置所に3年間放り込まれていた時、、、、信州・東本願寺
に所属する名古屋・東別院という所から坊さんがきました。、、、
「仏教というのは『空』(くう)を説く宗教ですか」と聞くと、「そ
の通りです」という。

 「では、『空』の定義をしなさい」
 「どうしてですか」
 「あなたは『空』を説こうとしているわけでしょう」
 「その通りです」
 「だったら、当然、『空』とは何かを知っているはずでよね」
 「───そういうことになります…」
 「だから、まずその説明をしてください」
 すると、
 「戸塚さん、『空』というのは非常に難しい概念でして…」
と言いだす。

 そこで、「それは嘘でしょう」いってやります。そんなむづかし
いものが流行るはずがない。誰にでも分かる簡単な概念だからこそ
、仏教が世界三大宗教の1つになれたわけです。「それはあなたが
分からないということでしかない。『空』というのはすごく簡単な
概念だから、それをいいなさい」といったわけね。「どうしてそん
な質問をするんです」というので、「あなたの話が聞くにたえるも
のかどうかを、まずテストしてるんだ。そのくらいのことが分から
ずに、今まで何をしてきたんです」とね。すると「ここは私がしゃ
べる場であって、あなたが私に説教する場ではない」ときた(笑)。

 「いいでしょう。あなたが分かっていないということはよく分か
った。でも、東別院が分からないはずはないでしょう。東別院に帰
って答えを出して、また来なさい。1週間あげます」と追い返すわ
けです、教戒師を(笑)。

 それで1週間、拘置所中が心待ちにしていました。ところが、来
ない。それで、電報を打ってやります。「このウソツキ」と。する
と慌てて飛んで来て「私は嘘などいってない。あなたが1週間で来
いといっただけで、私は来るとはいってない」という。「まあ、そ
れはいいとして、答えは出たのか」というと、「うーん…」と頭を
抱えている。「何という情けない人達ですか。よし、東別院には『
空(くう)』を定義できないことは分かった。だけど、まさか東本
願寺ができないわけはないでしょう。1ヶ月あげます。東本願寺の
答えを出してらっしゃい」といって、それっきり来なかったです(笑)。

−2− 空とは何か、戸塚さんの定義
戸塚 人間というのは非常にずるいですから、相手を上回るという
結果だけを手っとり早く得て、嫉妬という不快を取り除こうとしま
す。その結果が、相手を引きずり下ろすという行動になるのです。
一人でかなわなければ、よってたかって足を引っ張る。それで、相
手が自分より下に見えれば、嫉妬が消えて快感が湧く───そうい
う間違った使い方をします。これが『我(が)』です。本能どおり
の正しい理性が『空』、本能に反する理性が『我』です。

ですから坊さんが様々な修行をして必死になって『空』になろうと
するのは、見失ってしまった自分の本能を探り出そうとしているわ
けです。意識を1つのことにずーっと集中し、他のことに理性が働
かなくなるようにします。そうすると、本能の情報処理を知ること
ができるから、それを改めて理性に変えればよろしい。これが座禅
です。

−3− 得丸流の「空」の定義  空=冲 (デルタのt, 瞬間)
戸塚さんの経験談は大変おもしろいのですが、この「正しい理性」
という定義では少なくとも「色即是空、空即是色」における空の説
明にはならないような気がします。

私は「空」を違った形で定義してみようと思います。
「逝くものは斯くのごときかな、昼夜を舎(お)かず」(論語、221)
この論語の言葉の解釈はいろいろとできますが、時間が止まること
なく、常に、不可逆的に(一方方向だけに)流れつづけていく様子
を私は感じます。

時間の不可逆性と悠久性は、個々の人間の生命の短さと対称的です。
宇宙が生まれてから百何十億年(?)の時間、地球が生まれてから
数十億年の時間、人類が誕生してからの百万年くらいの時間、日本
列島に人間が住むようになってからの少なくとも一万年以上の時間
、、、、、、、、

そのような悠久の時間の流れの中で、私たちの人生は限りなく短く
、はかない。どんなに長くても、私たちの寿命が受精または誕生か
ら数えて百年を大きくこえることはない。

個々の人間の人生は大河の一滴にすぎない。その人間の生きている
時間は、かぎりなく短い。
しかし、一滴一滴の水のしずくがなくなれば、川は干上がってしま
うように、個々の人間がいなければ、どのような立派な歴史も生ま
れない。

一瞬一瞬の短い時間がなければ、何百万年、何十億年の時間の連続
も生まれない。
たしかな歴史の時間に見えるものが、実は実体などないもので、
よくよく見ると一瞬一瞬のできごとの積み重ねに過ぎないのだ。歴
史は瞬間瞬間の人間活動の結果として存在しているかのように見え
るだけであって、歴史そのものからは何ひとつ生まれない。

この瞬間のことが「空」ではないかと思うのです。
短い人生だけど、一瞬一瞬を大切にして生きなさい、一瞬一瞬に全
てをかけて悔いのない人生を歩みなさい。
それをいうために「空」という概念があるのではないかと、私は思
いました。
色即是空、空即是色も、「そこに世界として厳然と存在しているよ
うに見えるものも、実は一瞬一瞬のできごとの積み重ねに過ぎない
、一瞬一瞬の積み重ねこそが世界をつくりあげるのだ」と読みたい。

空=冲 (デルタのt, 瞬間)
というのが私の仮説です。
空は時間概念だったんです。空間概念は、むしろ無ではないでしょ
うか。
座禅では、無になる(自分自身の中から雑念や私心を取り除く、
自分自身の心の中を空っぽにする)ことによって、空に集中できる
、空に対応できるようになることを目指しているのではないかと私
は思っています。無の話はまた別の機会に。

皆様よいお年をお迎えください。
(この話は11月6日に富山市内で開かれた立山止観の会のフリー
トークの時間に、参加者である和泉回心氏より、「空と無の区別を
するように」という命題が出されたのを受けて、試みられたもので
す。)
得丸久文(2000.12.28)
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(Fのコメント)
面白いですね。毎回、心の問題を得丸さんは話題にしている。
私も、昔から座禅をしているが、「空は、全脳が活動している状態
であると、定義している。」空即是色、色即是空は、全脳開機する
と感覚が全開する。また感覚を全開させると脳が全開すると読む。

悩みは一部の脳が働き、ぐるぐる空転している状態で、問題を解決
できない。解決するためには、脳の全体の機能を全開して使う必要
があるのです。このためには、訓練が必要で、心を無にして、脳が
感じる全ての信号を感じる必要がある。座禅をすると、まず、心が
いろいろなことを思い、頭の中はその処理をするため、脳の一部し
か使われない。しかし、1時間もすると思いが尽きる状態になる。

そうすると、いろいろ普段は聞えない音が聞え始める。遠くの鳥の
声、お隣の子供の声、さらさらそよぐ風の音。そして、遠い昔の懐
かしい人たちが語りかけてくることもある。しかし、人間はよくで
きていて、すべて心地よい思い出になっている。アドレナリンが、
脳に出てくるためで、この状態で懸案事項を解決したことが何度も
ある。しかし、懸案事項をその時点で考えると、解決しない。自然
に、解決案が出てくる感じになる。

どちらにしても、座禅は自己流でしないでください。まず、15分
もすると、足が痛くて我慢できなくなる。そのため、脳がその信号
しか受け取らない。もう1つが、思いが尽きた時、人間の我が全面
に出てくることがあり、この時は座禅を中断する必要があるためで
す。この頃、自己訓練法(リラクゼンション法)が出てきたので、
それから入ることをお勧めします。

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