393−3.得丸コラム



和魂は文明的に構築されるのではないでしょうか   得丸久文
   
 モスクワよりCHOCO 
得丸氏の憲法論議、大変興味深く拝見しました。
たしかに、外見的な世相に見ると、和魂を失った人々が多いように
見えるのが、日本の現状だと思います。

しかし、私の個人的な意見では、いかに世の中が変化しても、根本
的に和魂は不滅だと思います。
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(得丸の回答)
意識には遺伝情報よりも環境(文明作用)のほうが、多くはたらく
のではないかと僕は思います。つまり、和魂が形成されるための環
境というものがあって、そこで生活するとか生育しないと和魂は育
たないのではないかと思うのです。 

たとえば、かつての侍や軍人は、武道をやっていましたね。武道を
やる日本人とやらない日本人で、できあがる魂が違うかもしれない
と思うのです。 

また、テレビゲームやテレクラやフーゾクやパチンコ屋のある時代
とない時代で、日本人は違った生活を送っていたと思うのです。
それが構築される意識の違いに反映されるのではないかと思うので
す。 

日本人はすばらしいとか、和魂はすばらしいとか言いつつ、それが
DNA情報による優勢だという方もおられますが、私はどうしても文
明ファクターのほうが大きい気がするのです。 

みなさんはいかがお考えになりますか。 
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足し算の文明と引き算の文明について 得丸久文 
 368−2.神学の重要性 への亀レス 
とくだまこと(大学生)さんへ、お返事が遅くなりごめんなさい。

>確かに現在、このような意味での「対立」はほとんど無いと言える
>でしょう。しかし、先の大戦中に起こった宗教弾圧のような事態を

私はそのことを知りません。もしよろしければ手短に教えてくださ
い。 

>確かに久保教授の仰る通り、神道は市民宗教(civic religion) の
>地位にあり、日本の精神的な核となっていることは事実です。また
>キリスト教などのロゴス的な一神教(厳密には唯一神教)を中心と
>した、告白宗教(confessional religion) との違いも明白です。

神道について、私が一番いいところだと思うのは、軽いことです。
教義や神学もなく、建物もその中の神さまも極めてシンプルです。
人々は拍手を打って礼をするという簡単な作法でお祈りすることが
できます。

3年ほど前のこと、靖国神社で、神社の本殿の正面から2,300m 
離れたところを横切っていた女性が、ちょうど正面のところにくる
とくるっと横向きになって軽く礼をして拝殿し、またスタスタと歩
いて行く姿を見かけました。 

これも限りなく世俗化した宗教である神道ならではの光景と感心し
たものです。極限まで軽くして、最後に残った信心だけがキラリと
光る、それが神道のすばらしさかなと思いました。

また、私が通っている合気道自由が丘道場の場合は、ごく普通の
多目的ホールに、自分たちで畳を並べてお稽古するのですが、稽
古が終わって、部屋のブラインドを下ろして、電気を消して、扉
を閉めるときに、まったく何もない部屋の中に向かって一礼する
のです。
これも究極の信心だと思いませんか。 

信心は自分の意識の上に構築される実存です。これに対して西洋
の一神教の唯一絶対神は概念上の産物であり、誰もその存在を立
証した人がいないはずです。

日本でキリスト教が広まらないのは、この実存と概念の重さの違
いにあるのではないかと私は思います。 
神道の神は、吉田松陰や東郷平八郎や乃木希典のように、実在の
人物も多く、これとて実存志向の日本人の好みが反映されたもの
と思います。 

>>「神学」という学問は、論理(言葉、概念)でしかない一神教
>>の神の存在をめぐる学問であり、日本の神道の場合は神学その
>>ものが存在していないわけです。 
>この神学の定義は少しピントが外れていると思います。基本的に、
>神の存在を議論するのは形而上学であり、神学は神を既に認めて
>いる人が「啓示」に基づき、さらに深くその視点に立って世界の
>諸領域を考えていくものです。 

形而上学と神学の区別は私は不通であり、よくわかりません。
どうかわかりやすく教えてください。 

>私が一番問題だと考えるのは、「レッテル貼り」です。ヨーロッ
>パ人全てが一神教的な考えをするわけではなく、日本人の中にも
>神道に含まれることを嫌う人もいます。 

レッテル貼りは私も嫌いです。ただ、そこに純然と違いがある場合
は、それを概念化することも異文化交流にとって大切なことではな
いかと思っております。 

つり銭を足し算で数える文化と引き算する文化、名前名字で呼び合
う文化と名字名前で呼び合う文化、積極的に自己アピールすること
が好まれる文化と奥ゆかしさが好まれる文化、、、、これらの区分
が、実に概念神である唯一絶対神を信じる文化と、実存神を好む多
神教文化の境界線と重なるとき、やはりそれに対して何らかの名前
を与えてもいいのではないでしょうか。 


>「デカルト主義者」をどのような意味で用いているのか分かりませ
>んので、もう少しはっきり定義をお願いします。確かに、デカル
>トからカントを経た二元論的な認識論は、現代神学にも大きな影響
>を与えていると考えますが。

デカルト主義者とは、1+1=2となることを当然視する人々だと
私は定義します。西洋近代の啓蒙思想に現れるおおらかな人間の理
性への信頼、これが私のいうところのデカルト主義者です。 

これに対して、東洋では伝統的に己の理性を信じるなと教育されま
す。世界との対峙の仕方が違うのです。 

自分から世界へと演繹するのが西洋の啓蒙思想だとすれば、東洋で
は世界から自分へと帰納する。足し算の世界と引き算の世界ともい
えますでしょうか。 

和(全体の調和)を尊ぶ日本人は、和の前に自分を平気で殺します
。それでいいんじゃないかと私は思うのです。 
押してもだめなら引いてみな。西洋流のやり方だけが全てではあり
ません。

私たちはもっと引き算の文明や文化のよさを認識して、和魂を培っ
て、世界の調和のために、努力しようではありませんか。 
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会社人間である前に、人間になれないのは何故   得丸久文
   
(Fのコメント) 
>得丸さん、会社人間は忙しく、全人格を会社に捧げないと、会社
>は、認めてくれません。日曜日も上司とゴルフです。そして、家
>の話を仕事中にするのはタブーの所もあります。 

>日本は異常です。 

僕は「気が付いたらベッドから落ちてた」くらいの軽い気持ちで
最初の会社を辞めていました。
それくらい鈍いというか自然体で生きていたこともあって、ゴルフ
は一切しなかったし、同僚との焼き鳥やマージャンも時間の無駄だ
と感じていました。反・会社人間的に生きてきたのです。 

それは損な人生ですが、正直な人生でもあります。 
会社人間の最大の問題は、上の人間が間違ったことをしたり言った
りしても、誰もそれを咎めないこと。
吉田松陰がいう「諌言」を実践している社会人が少なすぎる。 

周りに気を使ってか、それとも何が正しくて何が間違っているかを
判断できないのか、日本の会社員も高級官僚もこの点はまったくひ
どい。 

それを外から指摘されないようにお互いに傷口をなめあっているの
がお寒い日本の現実かなと思いました。 
仁知勇の正反対の生き方ですね。 
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(Fのコメント)
その通りであるが、得丸さん的生き方ができる日本人はまだ少ない。
豊かな時代に育った次の世代でかつ、日本の伝統的考え方を持った
人には期待できるかもしれないが。


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