393−2.アパルトヘイトの終焉



第5回 国連とアパルトヘイト

 日本の反アパルトヘイト運動を振り返ると、国連の名前や国連決
議が極めて多用されていたことに気付く。
 南アとのスポーツ・文化交流の禁止、対ローデシア貿易制裁、
対南ア武器禁輸、ナミビア不法統治の非難などなど、国連総会や
安保理の決議がそのたびに引き合いに出され、「国連総会は○○と
決議した。だから日本政府・企業もそれに従うべきである」と言っ
てきた。国連信仰の強い日本だったこともあり、国連が世界の良心
であるかのように引き合いに出されていた。

 僕は二年間国連専門機関で働いた経験をもつが、国連や国連官僚
の実態について知れば知るほど国連信仰なんてふっ飛んでしまう。
しかし国連の反アパルトヘイト活動が果たした役割については正当
に評価しておく必要はあろう。

国際問題としては例外
 そもそも何故一国の人権問題が国際問題に発展したのだろう。
 南アの人権問題についての議論は第一回国連総会から早くも行わ
れた。インドが南アに住むインド人の人権状況の改善を求めたのだ。

 インドがそれを国連で議論すべき問題とした根拠は国連憲章第五五
条の「人種、性、言語または宗教による差別のないすべての者のた
めの人権および基本的自由の普遍的な尊重および順守」を国連は促
進しなければならないという点にあった。

 それに対して南アは同憲章第二条七に規定する「この憲章のいか
なる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉
する権限を国際連合に与えるものではないをもって総会にはこの問
題を議論する権利がないと反論した。
どこの国も国内の人権問題が議論されると同じ条文で逃げるのが常
であり、一国内の人権問題が国連で議題となったのはじつに珍しい。

 結局のところ、国連総会が一九五二年以降アパルトヘイトを国際
問題として扱うことに決めたから、アパルトヘイトは国際問題にな
った。その背景には四八年に成立した国民党政権があからさまな形
でアパルトヘイト政策を推進したこと、旧植民地の独立国が国連に
どんどん加盟して発言力を高めたことがある。

 こうしてアパルトヘイトは人為的に国際問題として扱われてきた
。しかし本質はやはり国内問題であったのだろう。国連総会でいく
ら決議を上げても、南アのアパルトヘイト体制はびくともしなかっ
た。

 ただ国連が決議をあげ続け啓蒙活動をしてきたことは、反アパル
トヘイトへの国際世論を喚起した意味をもつ。対南ア武器禁輸や経
済制裁がアパルトヘイトの終焉に及ぼした影響の多寡は計りかねる
が、国連の活動がなかったら各国は何の具体的行動もとらなかった
だろう。

 ちなみに一九七七年に黒人意識運動の指導者であったスティーブ
・ビコが警察の拷問によって殺害された後、それまで南ア向けに武
器を販売していた関係上拒否権を行使してきたフランスもとうとう
折れ、安全保障理事会が対南ア武器販売禁止命令(決議四一八号)
を出した。連合国の一員として第二次世界大戦を戦った「親藩」の
国に対してこのような決議は前例がない。(日本はいまだに旧敵国
であり「外様」である。)

 国連の具体的活動としては、一九六二年に国連総会の下部委員会
として反アパルトヘイト特別委員会がおかれ、また事務局にも反ア
パルトヘイトセンターが作られた。南アに関連した国際会議・公聴
会の開催、報告書の作成、資料や映画を通じての啓蒙広報活動など
は、この反アパルトヘイト特別委員会のみならずナミビア理事会や
多国籍企業センターでも行われてきた。

 またANC(アフリカ人民族会議)とPAC(汎アフリカ主義者
会議)を解放団体として国連援助の対象として認め、ユネスコなど
を通じて亡命者の教育援助を行なってきた。国連そのものからの援
助もさることながら、国連が認めたという事実をその他の援助機関
が評価したという副次的効果もあったろう。

周辺諸国の安定と復興
 国連・アフリカ経済委員会が一九八九年にまとめた資料によれば
、南部アフリカ開発協力会議(SADCC)加盟九ヶ国が一九八〇
年代に南アの破壊活動によって蒙った経済的損失は六〇〇億ドルを
越え、また一五〇万人もの命が失われたという。

 この数字はやや大袈裟という気がするが、南ア軍による直接の襲
撃と南アが支援していたUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)
やRENAMO(モザンビーク民族抵抗運動)によるゲリラ活動に
よって地域に多大な被害が及んだことは否定できない。新生国家成
立後には南部アフリカ地域全体の復興が急務であろう。

 また南アには近隣諸国からの出稼ぎ労働者が多い。彼らの人権状
況も好転することを期待したい。
(写真 ロンドン市反アパルトヘイト委員会の「マンデラが釈放さ
れるまで止めないぞ、24時間連続ピケ。1986年9月にトラフ
ァルガー広場の南ア大使館前で著者写す。反アパルトヘイトの市民
運動はこの頃から活性化する。)

第五回  補論(コラム)
UNITAの教訓=逆アパルトヘイト
 ところで、アンゴラのUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)
は一九七五年まで南アの支援など受けていなかった。住民への浸透
度が少なかったマルクス主義政党MPLA(アンゴラ解放人民運動
)がソ連の支援を受けて首都ルアンダを制圧し他党派を排除した独
裁政権をたてたために、UNITAとしては苦しい闘いを続けざる
をえなくなり、それを南アやアメリカが支援したのだ。

 独立以前にはむしろ住民の支持はUNITAの指導者サビンビに
あった。OAUも最初のうちはMPLAだけを支持することをため
らっていたほどだ。ソ連が大量の軍事物資とキューバ兵を送り込ん
だことに対して、南アとアメリカがUNITAの支援に回ったのだ
が、MPLAとソ連はこの事実を利用し、「アパルトヘイトと帝国
主義の手先」という誹謗をUNITAに対して行い他のアフリカ諸
国の支援をたち切ったのだった。

 南アの支援を受けたばかりに正統性を奪われた党派は悲劇である
。民衆の支持ではなく支援している外国によって解放戦線を評価す
る態度こそが、アフリカ人を信用せず先進国を信用する一種の人種
差別ではなかったかという気もする。

 新生国家内の政党支持状況をきちんと反映した政権ができなけれ
ば、余計な流血の事態が生じるということがアンゴラの教訓であろ
う。南アにおいても肝に銘ずべきである。

第二部 「アパルトヘイト後」の現代的意味
第六回 改革の原動力
黒人意識運動
 「狂気に満ちた夜にこそ人は真理を垣間見る」というブレヒトの
言葉は、南アの解放闘争の歴史にもあてはまる。一九六〇年にANC
とPACが非合法化されて以降南アの解放闘争は冬の時代を迎えた
が、その中から黒人意識運動という行動哲学が生まれたのだった。

 非合法化されたANC・PACはともに海外に拠点を移したが実
効性のある闘争はできなかった。国内に残っていたメンバーは逮捕
されロベン島に送られた。
治安法が強化され、狂暴な警察・軍隊力によってわずかな反政府活
動ですら逮捕や拷問につながった。おとなたちは戦うことを恐れ、
現実から逃れて酒に逃避するものが増えた。

 絶望的で孤立無援な六〇年代南アの沈黙を打ち破ったのは、共同
学習や相互扶助運動を通じて黒人であることの尊厳と誇りを獲得す
る、主体性重視の黒人意識運動であった。その担い手は若者たちで
あり、映画「遠い夜明け」でも紹介されたスティーブ・ビコが中心
的指導者であった。

 「黒人の解放はまず強いられた劣等感が生み出す心理的抑圧から
自分を解放することから始まる。ついで白人人種主義社会に生きて
いることによる物理的抑圧からの解放である。」(南ア学生機構「
政策宣言」より)それまでは、白人に近づくこと、白人のような生
活を送ることが人間的に生きる指標であると思われていた。黒人意
識運動によって初めて白人文化・白人価値観の呪縛(「文化的帝国
主義」とも言える)から意識の上で解放され、さらにアパルトヘイ
ト体制の終焉と黒人国家建設という現実の解放に向かう視座が確立
されたのであった。

 黒人意識運動は、タウンシップ(黒人居住区)の中学高校生に受
け入れられ、若者を変えていった。一九七六年に、オランダ系白人
の言語アフリカーンス語の義務教育化に黒人の若者が反発して全国
的な抗議行動が起きたが、これ以降南ア解放闘争は若者主導で行わ
れていく。

 若者の意識の変革をもたらした黒人意識運動がなかったら、南ア
の解放はなかっただろう。この黒人意識こそが、今後は新生国家を
新植民地主義から防衛するための理論となると期待したい。

黒人意識運動と対立したANC
 しかしANCは黒人意識運動を認めなかった。まず第一にはANC
=南ア共産党の影響力が減ることを恐れたためであろう。共産党
の「民主集中制」と、黒人意識派の草の根的な運動が体質的に相
容れなかったこともあろう。また、白人幹部を抱えるANCにと
って黒人だけを強調する運動は許されざるものであり、さらに自
分たちの預かり知らぬところで生まれた運動が南アを解放に導く
ということを認めたくないという嫉妬めいた感情もあっただろう。

 アフリカ人民族会議(ANC)は一九一二年に設立され、これ
までの解放闘争をリードしてきたとされる。青年弁護士ガンディ
ーは一八九三年から二一年間南アで活動していたが、その間接的
影響もあってANCはもともと非暴力不服従路線をとっていた。
パス(身分証明書)をわざと不携帯して逮捕されたり、平和的集
会を開いたり。

 そのような平和的抗議活動すら受け入れられず、一九六〇年に
ANCは非合法組織化され、以後ウムコント・ウェシズウェ(民
族の槍)というゲリラ組織による武装解放闘争に入る。多くの指
導者が獄中にいる中で、屈強な南ア軍と警察を相手にした武装闘
争は残念ながらあまり効果を生まなかった。

 つまるところANCの業績はその外交的役割にある。とくに南
ア財界との交渉が今回の民主化を導いた。

南ア財界のイニシアチブ
 一九八五年九月、南ア財界人はANCとの対話を開始した。政
治的ボイコットや経済制裁による国際的孤立、武装解放闘争の激
化による内戦、共産化という危険を巧みに避けて経済利権を確保
するためには、解放組織と協力して南アの「革命をコントロール
する」(南ア準備銀行ストール総裁の発言)という選択は南ア財
界にとっては極めて合理的だった。

 それにアパルトヘイトは今や経済活動の障害だった。政府予算
の半分近くをアパルトヘイト維持のための関連支出が占めた。治
安管理のために警官、軍人、看守などが大量に必要であり、アフ
リカーナ白人の四割以上が公務員として雇われていた。

 また、これまでは黒人非熟練労働者を安く使って利益を得てい
たが、経済が成長するに伴って今度は熟練労働力が不足するよう
になったのだった。もともと財界は黒人中間層の創設こそが権益
確保につながると考えていた。すでに黒人購買力も大きくなって
きており、彼らが商店・商品ボイコットなどをしない安定的消費
者であることも重要だった。

 八〇年代末ソ連東欧社会主義政権が倒壊すると同時に、ソ連が
ブレジネフ時代から練りあげてきた対アフリカ戦略も消滅した。そ
れによってANCをこれまで支援してきた社会主義陣営の影響がな
くなると、財界=ANC協調路線は向かうところ敵なしとなった。
そのスピードの前には、黒人意識運動の地道な努力も霞んでしまっ
た。

写真 スティーブ・ビコの写真、なければ彼の著作の写真 "I wirte
 what I like" 、   南アの子供たちが戦っている写真?

第七回 現実とロマンと ー 奪われた果実
 一九九三年のノーベル平和賞をANC議長のネルソン・マンデラ
とデクラーク南ア大統領が二人で授賞したことは記憶に新しい。南
ア民主化の動きが一九八〇年代後半から徐々に具体化していたこと
を思えば、一九九〇年代にはいってからの民主化交渉の表舞台にで
てきた二人を褒賞することは、むしろ過去より未来を意識した授賞
であったという印象を受けた。

 やはり二人そろっての一九九一年度のユネスコ・ウフェボアニ平
和賞授賞も含めて、これらは財界・国民党=ANC協調路線を成功
させるための援護射撃ではなかったか。ユネスコでの授賞式にはア
メリカからヘンリー・キッシンジャーがきて、授賞スピーチをして
いた。ユネスコの加盟国でないアメリカの元国務長官がわざわざコ
ートジボアール大統領の名前を冠した平和賞の授賞にくること自体
不自然だった。(一九八四年にアメリカがユネスコを脱退したこと
を契機として、ユネスコは財政危機に陥った。危機状態が一〇年続
いて、ユネスコは今や瀕死の状態にある。)

 これらの授賞は、南アの今後がこの二人によって指導されていく
印象を撒き散らして、改革が財界の思惑から踏み外さないようにす
るための世論工作であったようだ。今のところ少なくとも国際世論
は国民党=ANC協調路線に全く異議を唱えていない。これまでの
アパルトヘイト体制についての国民党の責任も不問に付されること
となった。

 ANCも財界の狙いを承知の上で、政権へのより安全な近道とし
て協調路線をとった。ANCは長く亡命生活を送っており、国内で
の草の根的な運動が十分展開できなかった。一九八五年当時の国内
基盤はUDF(統一民主戦線)であり、黒人意識派のNF(国民フ
ォーラム)との競合があった。それに勝って国内で改革の主導権を
握る必要があった。

 その結果としてANCは主要産業の国有化路線を捨て、白人公務
員の年金保証をするなどの白人政権や財界との妥協をしていく。
それが解放後の経済にとって足かせとなることよりも、自分の政治
的足場固めを優先したということになる。

 またANCに権力が具体的なものとして見え始めたこの年以降、
黒人居住区での暴力が激化したことを関連づけて捉える見方もある
。流血はANCが国内草の根派を押さえて主導権を握るためであっ
たというのだ。

 黒人間の暴力については、白人政府が黒人の内部分裂を導くため
の陰謀であったとする説も有力だが、それだけではこの四年間で
一万数千人が殺されたことの説明には不足であろう。

 インカタ自由党とANCの武力抗争はしばしばインカタが一方的
に悪いという報道がなされているが、むしろ残酷な暴力を最初に働
いたのはANC=UDFであったという証言を多くの人から聞いた。

 古タイヤを巻き付けてガソリンをかけて焼き殺す「ネックレース
」はANCの専売特許であり、インフォーマー(当局への通報者)
を処刑するために用いた手法だが、誰が通報者であるかはANCが
勝手に決めたわけだし、通報者とされた人間が身の潔白を証明する
機会など与えられなかった。

 組織力と資金力とネルソン・マンデラのカリスマ性によってANC
がきたる選挙で圧倒的な勝利を得ることは確かなようだ。しかし、
これまで孤立無援の解放闘争を戦ってきた南ア大衆全ての血と汗を
ANCが全て代弁しているわけではない。

 とくに黒人意識運動という黒人の規律や主体性を重視する運動を
切り捨てることで、新生国家を共産主義的・官僚主義的な過ちへと
導くことにつながりかねない。また限られた財源・資源しかないと
きに、財界に協力的な態度をとることが、アパルトヘイト後の黒人
国家としての国家建設に振り向けられる資源を減らし、経済発展の
遅れや大衆の不満に結び付くことを危惧する。

黒人の信頼厚いポピュリスト ウィニー
 ここ数年スキャンダルが続いて失権したかに思われていたウィニ
ー・マンデラが、ANC婦人会議の議長に返り咲き、四月のANC
の選挙名簿で上位にランクされ既に当選確実となっていることに驚
いている向きもあるだろう。

 天性の指導者としての素質に加えて、他のANCの幹部と違って
彼女は一貫して黒人居住区に住み続けアパルトヘイトと戦ってきた
。ANC内でもっとも草の根の信頼と支持を受けているのは彼女で
ある。黒人大衆の信頼が十分でないANCにとっては救いの神だ。

 ウィニーは閣僚ポストをとることはほぼ確実だが、次期大統領の
可能性すらうわさされている。一連のスキャンダルも実はANC内
部の権力闘争によるもので、ウィニーを追い落としたいとする勢力
が仕掛けたという話も聞いた。

黒人大衆のロマン  PAC
 一連の報道によれば汎アフリカ主義者会議(PAC)は、「(超
)過激派」か「実体がない」かである。しかし、今回の取材の中で
もっとも新聞報道と違ったのはPACの評価であった。黒人大衆の
心の中には、PACへの思い入れが根強いというのだ。ANCへ投
票すると言っている人の中にも、ANCでなければPACに投票す
るだろうという人が約四割いるという世論調査結果がある。

 PACは、アフリカ人中心主義による解放を主張してきた。ANC
の全人種融和主義ではアフリカ人を解放できないとして一九五九年
にANCから袂を分かって誕生したPACも、そもそも非暴力路線
だった。

 一九六〇年三月シャープビルという町で平和的に開かれていた
PACの集会に警官が発砲し、六九人が殺されるという事件が起き
た。それから全国的な抗議行動が沸き上がり、その結果国家非常事
態宣言が出されるとともにPACはANCともども非合法化され、
やはり武装解放路線に向かったのだった。だが今年一月にAPLA
(アザニア人民解放軍)の武装解除が宣言され、四月の選挙に参加
する準備は整っている。

 ANCと違ってソ連の支援を得られなかったPACは、たしかに
非力な組織である。これまでヨーロッパの反アパルトヘイト運動
(AAM)もほぼみなANCだけを支持してきた。

 その理由としては、第一にはANCはソ連共産党の支持を受けて
おり、AAMにも共産党系が多かったこと、第二にはANCが全人
種融和政策をとっているのに対してPACは白人との共闘を拒否す
るアフリカ人第一主義であったため白人にとっては過激に映ったこ
とがある。

 しかし僕の記憶では、日本にきて講演をしてくれた南アの亡命者
に党派を尋ねるとたいがいPACか黒人意識派だった。PACの人
はみな一様に温厚で人間味があった。過激派のレッテルは白人が勝
手につけただけで現実を反映していない。

 多くのアフリカ人が自信をもって言っていたのは、選挙の結果第
二党になるのは国民党ではなくPACだということだ。ANCとの
首位争いをしているという意見もあった。

 PACの人気は、アパルトヘイトのない平和で自由な黒人国家を
作りたいと願ってきた南アの大衆の夢の反映ではないだろうか。
ANCには白人幹部が目立つ一方でPACは黒人だけによる解放を
主張していた。また、最近の黒人間の流血事件でもPACは非暴力
であり、ANCが暴力をふるっていた。

 ANCが「南アフリカ・アフリカ人民族会議」というのに対して
、PACは正式には「アザニアのための汎アフリカ主義者会議」と
いう。アザニアとは古代史の文献上で南アを指すのに使われた呼称
である。黒人意識派はそれを独立して新たに生まれる国の名前に選
んだのだった。

 したがってPACはANCより黒人意識派に近い。アザニア政治
機構(AZAPO)が選挙に参加しないため、黒人意識派の票が
PACに集中するのではないか。

 もちろん、黒人意識運動もPACもすべてまぼろしである、ある
いはインテリだけの広がりのない運動だったと主張している人もい
る。 

 この真偽のほどは実際の選挙結果にゆだねることにしたい。四月
の選挙で第二党になるのは国民党かPACかというのは、黒人大衆
がすでにアパルトヘイトを水に流して忘れているか(したがって国
民党に投票するか)、それともこれから新国家を建設することによ
り忘れようとするのか(国名をアザニアに変更するPACに投票す
る)という点にかかっている。

(2000.12.21記す: 残念ながらPACの得票率は低く、第二党になっ
たのは国民党だった。しかし、アメリカ大統領選挙の集計結果をめ
ぐる騒動と見るにつけ、これは本当に正確に投票行動を反映してい
るのだろうかという疑問もわく)

第八回 不名誉な名誉白人 
 南アの入国カードの人種の欄に「名誉白人」と記入した日本人ビ
ジネスマンがいたそうだ。笑えない滑稽さだ。

 一九六一年に日本が南アと通商条約を結んで以来、日本人は名誉
白人として白人に準ずる待遇を受けてきた。アパルトヘイトは本質
的に南ア国内問題であるが、名誉白人に関する限りそれはわれわれ
日本人の問題となる。

 まずはっきりさせておきたいのは、名誉白人(Honorary White)の
「名誉」という言葉は、尊敬されるものという意味ではない。白人
と経済関係がある以上、アジア人のカテゴリーに入れられると極端
な話会食もできないので、便宜上白人と認めてあげましょうという
ことで、あくまであちら様の都合による。南アへの入国査証(ヴィ
ザ)も原則日本人ビジネスマンとその家族に対してしか発給されな
かった。現地に住む日本人によれば、あからさまではないものの結
構差別にあっている。僕も滞在中にそれらしきものを何回か味わっ
た。

 名誉白人を認めるというのは、自分が白人に劣るということを受
け入れているようで、不名誉に感ずる。あるがままの黄色人として
「国際社会において名誉ある地位を占めたい」(日本国憲法前文)
と思う。黒人意識運動に学ぶところ多し、である。

名誉白人の歴史は長い
 名誉白人という法的地位が存在したのは南アだけだが、日本人が
名誉白人的であるのは、なにも南アに限っての話ではない。明治以
降一貫して脱亜入欧・アジア蔑視路線を取り続けてきたため、白い
仮面が顔に張り付いてしまい、意識しようがしまいが名誉白人にな
っており、ちょっとやそっとでは黄色人にもどれないというのが実
情だ。

 明治維新はそもそも尊皇攘夷だったのにどうして脱亜入欧になっ
てしまったのか。その背景には英仏フリーメーソンの息のかかった
とされる大久保利通や木戸孝允が攘夷派の孝明天皇を暗殺したとさ
れるショッキングな事件(一八六六年)もある。それでも明治期か
ら昭和初期の日本には民族派と欧米追随派の緊張関係があったのだ
が、大東亜戦争の敗北により民族派は完全に抹殺されてしまう。

 戦後民主主義は、過去の日本の思想を全否定したうえに移植した
アメリカン・デモクラシーである。自由・人権・民主主義などの美
しい言葉はならんでいるが、それらが日本の歴史や精神風土をちゃ
んと反映しておらず、まるで体になじまないだぼだぼの洋服を無理
して着ているような印象をもつ。(試しに日本国憲法を全文読んで
、自分の政治意識や生活とどう結び付いているか考えてみてくださ
い。)我々が名誉白人という不名誉を受け入れた背景には、戦後日
本が蒙った精神性の危機が作用しているのではないか。

名誉白人やめられますか?
 さて、南アのアパルトヘイト体制が終わると名誉白人という法的
地位は世界から消える。だが我々はどうすれば実質的な名誉白人で
なくなることができるのか。

 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて西洋を体験した先人たちは
、西欧との緊張関係を体験し、日本を紹介するために多くの著作を
残している。岡倉天心「茶の本」、鈴木大拙「禅と日本文化」、新
戸部稲造「武士道」、内村鑑三「代表的日本人」など。ちなみに全
て原典は英語である。

 これらの著作は今我々が読んでもおもしろい。日本がだいぶ注目
されるようになってきたものの、西欧人は日本式経営理論や安部公
房などの一部の西欧受けする作家にしか目を向けない現実を思えば
、それらは一世紀後の我々のために書かれたのではないかと思うほ
どだ。戦前の思想は全て軍国主義的なものだという間違った先入観
で、もっと早く読まなかったことが悔やまれる。

 明治の先人たちが紹介した思想の核は「道」であった。茶道、武
士道、仏道、などなど。彼らには近代合理主義に欠けているものが
見えたのではないか。西欧近代合理主義には倫理もなければ節度も
ない。善悪と別の次元に置かれている合理主義は暴力(人種差別も
含めて)や自然破壊を生む。道の美しさと厳しさが備わって初めて
、合理主義をよい方向に導くことができる。

 かつての日本人がもっていた本質を捉える眼力の確かさ、日本や
東洋に育まれた思想の平和的性格や人間を超越した宇宙観と、西欧
近代思想の小賢しさ、浅薄さ、残虐さの対比は今も通用するのでは
ないか。「道」は紙の上に書いた思想ではない。それは身体を精神
を鍛練するところはら始まって、生きとし生きる者全てにかかわる
宇宙的な知見に近づくための一種の技法である。

 南アの黒人意識運動は残念ながらこの水準にまで達してはいない
が、一脈通ずるものがある。我々が名誉白人でなくなるためには、
西欧白人文明追随から自由になり、自分たちなりの思想をもつ必要
がある。明治の先人たちの足跡は参考になろう。

西欧近代を超える原理を
 まもなく二〇世紀が終わろうとしている。通信と交通の発達によ
り国際社会は小さくなったが、まだ軍事力や経済力くらいしか共通
の支配原理を見つけだしていないのが人類だ。

 自由・平等・人権・民主主義といった価値が、これまで口先では
金科玉条として奉られてきたが、それらの価値は植民地主義や人種
差別を防ぐことはできなかった。そもそもそれらはヨーロッパ人の
都合のいいように使ってきたきれいごとにすぎなかったのかもしれ
ない。

 最近ではソ連東欧の民主化を見ても、民主主義や人権は完全に
意味不明な空虚な言葉になりはててしまったきらいがある。ベルリ
ンの壁が壊れたあとの世界の混沌とした状況は、社会主義の崩壊は
自由民主主義の勝利ではけっしてなく、むしろ自由民主主義の終焉
の始まりであったということを物語っている。日本の自民党政権が
倒れたことも、地球規模でおきている自由民主主義の終焉の一貫だ
った。

 それに代わる理念や価値が早急に見つけだされないと、理念なき
時代、ニヒリズムの時代に突入してしまう。黒人意識運動や日本で
生まれた「道」に世界を救う可能性が秘められているような気がす
るのだが。

岡倉天心・内村鑑三 の写真
「近代合理主義には「道」が欠けている」
「明治の精神は名誉白人を受け入れなかった」

第九回   南ア民主主義の課題と希望
南アバンツー部族の民主主義的伝統
 もともとバンツー諸民族は政治的に成熟していた。一九世紀の部
族社会では合意が重んじられ分裂を防ぐために民主的な議論が行わ
れていた。首長の批判すら自由だった。また、洗練された裁判のシ
ステムがあり、首長すら法のもとで裁かれ罰金を課されるのだった。

 首長は専制的に振る舞うことにより民衆の支持を失うことを恐れ
ていた。というのも、権力の濫用に対して、荷物をまとめて他の首
長のもとに移住するという抗議手段が部族の構成員に認められてい
たからだ。

 相対過半数をとれば相手を押さえつけられるという「野蛮」な多
数決原理はアフリカ人には馴染めないものだった。いくらでも時間
をかけて合意に達するというのが彼らの手法だ。

 軍事的にも、最終的には多くは白人の奸計と近代兵器に破れたも
のの、勇敢なアフリカ人たちは何度も白人との闘いに勝利を収めて
いる。また外交手腕の巧みさの例としてはレソトがある。一九世紀
後半、アフリカーナのオレンジ自由国に侵略されかかったところを
、モシェシェ王の智慧により自ら進んでイギリスの保護領になり国
家としての一体性を現代まで保った。

 これらの伝統は新生南アの政治にうまく引き継がれるだろうか。

民族対立はない
 南アには黒人の民族が一〇あるとされてきた。民族間の抗争はど
うなのだろうか。
 これまでに聞き取りした限りでは、民族の違いはたしかにあるが
、それが亀裂となることはない。もともと南アでは民族という概念
がルーズだったのと、アパルトヘイトをともに戦った共通体験があ
るからだろう。昨今の黒人間の流血は伝統から逸脱している。

 世界中で民族紛争が勃発している折に、異なった民族が協調して
新国家を築きあげることができるとしたら世界の範たるべき素晴ら
しいことだ。

白人が居残る黒人国家
 南アの独立が通常の植民地解放と大きく違うのは、植民者が独立
後も大量に居座り続けることだ。
 英国系白人は逃げ出せる。白人人口の三分の一(約一八〇万人)
を占める彼らの多くは英国籍との二重国籍者か、申請により英国籍
取得が可能である。また英語を話せるので、オーストラリアやカナ
ダなどへの移住も容易である。したがって彼らには何がなんでも
南アに住み続けなければならないという事情がなく、さながら通常
の植民地白人の気分であろう。

 一方、白人人口の残りの三分の二をしめるオランダ系はアフリカ
ーナと自称しているが、この呼称自体アフリカ人という意味である
。英国系は彼らのことを「ボーア(百姓)」と呼んで馬鹿にするが
、実際に農民が多く本国とのきずなは切れて土着化しており、英国
系と違って外国に行くあてもないし行っても生きていけない。南ア
にしがみつくしかないのだ。

 これからはかつての支配抑圧階級とかつての非抑圧階級が共存し
ていかなければならない。南ア白人の豊かさは、これまでの植民地
的収奪の蓄積と安く自由に使える黒人労働力があったから成り立っ
ていた。一部白人過激派が主張する白人自治共和国ができたとして
も、黒人に最低限の人権が認められればかつてのような豊かさは決
してえられない。一般の白人は急激な生活水準の悪化を甘受する以
外にないのだ。

 一方黒人は、白人がこれまでのアパルトヘイト体制下で蓄積した
豊かさを横目に国家建設することになる。黒人のための社会インフ
ラや教育制度があまりに劣悪であったため、独立は自動的には豊か
さにつながらない。これを不満として国家建設の方向を誤らなけれ
ばよいのだが。

 幸いにも南アは豊かな資源に恵まれており効率よく富を再分配す
れば危機は乗り切れる可能性はある。また白人黒人ともに平和への
意志があるので内戦という最悪の事態はないものと期待したい。

南北問題の縮図
 南アが閉鎖環境であるなら、地球だってひとつの閉鎖した環境で
ある。この惑星の上にも豊かな先進国住民と絶対的貧困にあえぐ途
上国住民がおり、地球規模での資源・富の分配の不公正の問題(南
北問題)を構成している。

 これまで双方の住民が、地理的には離れて暮らしていたため、お
互いを意識することなく、直接的関係を築くことなくきた。しかし
現実には移民労働者や難民という国際人口移動が増加しており、
だんだん南アのように富者と貧者が同居する世界になりつつある。

 南アで、少数の持てる者の層と多数の絶対的貧困層がこれからど
のような関係を築いていくのかは、南北問題の解決という点からも
興味深い。

さいごに
 これまで九回にわたって「アパルトヘイトの終焉」を論じてきた
が、南アフリカで現在おきている大変革を理解するための、できる
限り歴史と現実を踏まえた記述となるように心掛けたつもりである。
残念ながら南アの民主化・植民地解放は、「アパルトヘイト終わっ
てよかったね」という具合に単純ではない。

 南アの黒人大衆が解放闘争の過程で生み出した「黒人意識運動」
の哲学がどれだけ解放後に生かされるのか極めて疑問である。財界
の思惑通りにすすめば、植民地からの解放はそのまま新植民地主義
の枠組へと引き継がれるだけの可能性もある。ANCの全人種融和
路線自体、これまでの植民地主義的な人種関係を考慮すると、現実
をきちんと反映していない美辞麗句にすぎないのではないかとおも
える。

 多くは黒人政権が生まれた後でどのような政策を打ち出すかにか
かっている。
アパルトヘイト後には教育・保健衛生・住宅・土地・雇用などの難
題が待ち構えている。我々外野席の人間は、マスコミの誘導や事実
誤認・取材不足に頭を混乱させられることなく、できるだけ事実に
即して南アを理解し、改革の行方を見守る必要があると思う。

 この記事が読者のもとに届くころには選挙の投票が行われている
ことだろう。
社会主義の終焉が自由と民主主義概念の空洞化を招いたように、ア
パルトヘイトの終焉が人権概念の空洞化を招くことがあってはなら
ない。選挙が無事に行われて、南アの大衆の意志を反映した新国家
・新政権が生まれ、何よりも平和裏に改革が進むことを願ってやま
ない。これまでアパルトヘイト体制と戦って傷つき死んだ者達にと
ってそれが最大の供養となるだろう。

得丸久文 (とくまるくもん 一九九四)、平成6年2月12日 
脱稿 「英国ニュースダイジェスト」3月4日号ー4月28日号に
掲載許諾済み 

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