391−1.「民主化」の声に消された南アフリカの「植民地解放」



  ーー  ロンドンで考えたアパルトヘイトの終焉  ーー
                                   1994年4月得丸  久文

  この四月に行われた全人種参加による南アフリカ制憲議会選挙は
、大した混乱もなく無事に行われ、ANC(アフリカ民族会議)が
六三%、国民党が二〇%、インカタ自由党が一〇%という最終結果
となった。南アは黒人多数支配に移行し、ネルソン・マンデラ大統
領が誕生した。

  インカタが選挙の直前に参加を決めて投票用紙に追加でシールを
張り付ける作業が行われたり、そもそも黒人の人口がきちんと把握
できていなかったため投票用紙が足りない地域があったり、不正票
とおぼしき票が大量にありその取り扱いをめぐって開票作業が中断
したりと、ぎこちなくまた怪し気なところもあった。

 結局全部の票を数えたわけではなく、最後は当事者間の「談合」
によって政治決着をみたというのが真相らしい。つまり、ANCは
単独で憲法改正をできないよう三分の二よりは少なく、国民党は副
大統領選出に必要な二〇%を超え、インカタはナタールで過半数を
とることとするという合意のもと最終の数字を決めたそうだ。この
結果の公正さを疑問視することもできるが、むしろ流血なしに政治
決着をみたことを政治的成熟度の証明として評価できよう。

 一方五月二四日に開かれた第一回の全人種議会でマンデラ大統領
は、ANCの復興開発プログラムに国家予算の三%に相当する二五
億ランド(約七〇〇億円)を投入すると発言した。新聞は「この金
額は跡形もなく消えてしまう」「保守的な政策」(五月二五日ガー
ディアン紙)と言うが、今ここでその政策の当否をはかるのは性急
だ。ただ、アパルトヘイトが終わっても期待したほどすぐには黒人
の生活がよくはならないだろうという予感は当たるのだろうか。

 一連の「民主化」プロセスによって、これまで国際社会から「人
類に対する犯罪」として糾弾されてきたアパルトヘイトが歴史から
姿を消した。それ自体は喜ぶべきことだ。しかし、いざ選挙の熱狂
から冷めてみると、「民主化」(黒人大衆に選挙権が与えられたこ
と)と「アパルトヘイト体制の終焉」(法律による人種差別の撤廃
)は、どちらも直接的には南ア黒人大衆の抱える貧困・失業・教育
の必要性(教師養成・識字を含む)・住宅学校建設・衛生医療の整
備などの基本的な問題に解決をもたらすものではないことに気付く。

 感動的な「民主化」の過程とシビアな現実のコントラストを見比
べると、一連の南アの政治変化はなんであったのだろうかと思わざ
るにはいられない。

 私は現在ロンドンに住んでいるが、この国は南アの旧宗主国であ
り、南アへの関心が極めて高い。選挙前は連日特集番組が各テレビ
局で放映されていたし、投票日のBBCは朝から晩まで南アから生
中継の映像を流していた。ANC、PAC(パンアフリカニスト会
議)、インカタ自由党のそれぞれが事務所をもっており話も聞けた
。南ア以外ではもっとも南ア情報が多いと目される当地で考えたア
パルトヘイトの終焉について私見を述べたい。

 今回私は南ア現地には行けず生々しい感動の場面に立ち会ってい
ないので、若干冷めた視点にたっているかもしれないことをあらか
じめお断りする。

1  アパルトヘイトとは何だったのか
  人種差別の代名詞のように用いられていたアパルトヘイトとい
う言葉は、アフリカーンス語で「分離」を意味する。これは一九四八
年に南ア連邦で政権についた国民党が採用した人種差別政策である
ため、人種差別の責任はオランダ系白人アフリカーナにあると言わ
れてきた。しかしそれは正確な理解ではない。

  国民党が人種差別を正当化するスローガンとして「アパルトヘイ
ト(分離)」という言葉を選んだのは、「分離すれども平等なり
(separate but equal)」というアメリカの最高裁判決(一八九六年
)のレトリックの援用だった。第二次大戦後のアメリカではまだ公
民権運動も始まっておらずこの考えが通用していたので、人種差別
は南アに固有であったわけではない。アジアアフリカの多くの地域
が植民地であった当時、世界はどこもかしこも人種差別的支配が一
般であった。

 南アでの人種差別のルーツを調べてみると、結局のところ一六五二
年にオランダ人がケープに植民を開始し、ついで一七九五年英国領
となり、白人が徐々に植民地を拡大していったプロセスに求めるほ
かはない。人種差別を制度化する法律も、植民地化の過程で必要に
応じて作られていく。三〇〇を下らない数あった人種差別法を成立
年次で概観すると、一九四八年を境として量的拡大が認められるも
のの、なんら質的変化はおきていないことがわかる。

・植民地のままで独立
  ではどうして世界でも珍しく「近代国家」において法律による
人種差別体制が出来上がったか。それは、一九一〇年に成立した
南ア連邦に起因する。南ア連邦は、小数白人の優位を継続するため
に、植民地の人権状況をそのまま引き継ぎ、憲法に人権規定を持た
ない国家として「独立」してしまったのだ。植民地で植民者が独立
国をつくった例は世界史上それほど多くはない。アメリカ合衆国や
カナダ、オーストラリアがそうだが、南アの場合は白人が最後まで
多数になれなかった点が特異であった。

 この南ア連邦の英国からの独立が、一九〇九年に英国議会で成立
した南アフリカ法によって行われたことからも明らかなように、「
植民地のままの独立」は当時の欧米列強から認知されている。同じ
試みを一九六五年に南ローデシア(現在のジンバブエ)が「一方的
独立宣言」として行ったが、時すでに遅く、国際社会から一切認知
されなかった。

 世界史の中での南アの特殊性は、植民地的な社会経済関係が国内
に残っているにもかかわらず、植民地解放を行わずして「独立」し
てしまったことにある。子供が反抗期を経ずしておとなになると、
社会生活上様々な軋轢を経験することと似ているかもしれない。
すでにおとな(独立国)になっているのだから、いまさら反抗(植
民地解放戦争)をするのも変だし、かといって子供(植民地)のま
までいるのは周りが許してくれない。いかにしておとな社会の仲間
入りをするかが白人黒人に共通する課題であった。

2  植民地解放闘争と「革命のコントロール」
  独立国であっても実質は植民地であり、黒人解放組織が存在し
た。南ア連邦成立直後の一九一三年に設立されたANCと、全人種
宥和主義のANCから袂を分かって一九五九年に設立されたアフリ
カ人第一主義のPACは、ともに非暴力主義によって南アの解放の
ための活動をしていた。

  一九六〇年三月にPACが行っていた平和的集会に警官が発砲し
て六七人が死亡する「シャープビル事件」が起きると、南ア国内は
騒然となった。政府は全土に非常事態宣言を出し、ANCとPAC
を非合法化し、活動家の大量逮捕を行った。逮捕を免れた者たちも
、国外に亡命することになった。

  こうして政府が解放組織を潰し、警察力・軍事力を強化したこ
とによって、南アの解放闘争は冬の時代を迎えた。
 実際のところ亡命者たちが植民地解放のために活躍するのは難し
い。国連も国際社会も南アの国内事項に対して直接的行動がとれる
わけではなかった。武装解放路線に転換した解放組織にソ連や中国
が軍事訓練を含む支援を行ったが、ゲリラが国内にいないためせい
ぜい散発的な破壊活動が関の山。海外に拠点を移したANCもPAC
も実効性のある闘争は展開できなかった。

 南ア国内では、治安法が強化され、わずかな反政府活動ですら逮
捕や拷問につながった。おとなたちは闘うことを恐れ、現実を忘れ
るために闇酒場に逃避するものが増えた。

・黒人意識運動
 この絶望的で孤立無援な六〇年代南アの沈黙を打ち破ったのが、
共同学習や相互扶助運動を通じて黒人であることの尊厳と誇りを獲
得する、主体性重視の黒人意識運動であった。その担い手は若者た
ちであり、映画「遠い夜明け」でも紹介されたスティーブ・ビコが
中心的指導者だった。

 それまでは、白人に近づくこと、白人のような生活を送ることが
人間的に生きる指標であると思われていた。黒人意識運動によって
初めて白人文化・白人的価値観の呪縛(文化的帝国主義)から意識
の上で解放され、さらにすすんでアパルトヘイト体制の終焉と黒人
国家建設という現実の解放に向かう行動哲学が確立された。

 黒人意識運動は、タウンシップ(黒人居住区)の中学高校生に受
け入れられ、若者を変えていった。一九七六年に、オランダ系白人
の言語アフリカーンス語の義務教育化に黒人の若者が反発して全国
的な抗議行動(ソエト蜂起)が起きた。
この行動が南ア解放の直接の引き金となった。その際に学校と闇酒
場が攻撃の対象となったのは象徴的である。

 ビコは一九七七年に拷問死するが、以後も南ア解放闘争は若者主
導で行われていく。若者の意識の変革をもたらした黒人意識運動な
しに南アの解放はなかっただろう。しかし残念なことに、黒人意識
運動は政権を奪取して黒人自治にまでもっていくだけの組織も力も
持ち得なかった。

・革命のコントロール
 しかしながら最終的には白人財界が南アを歴史の袋小路から救出
したのだった。白人も、既得権益をできるかぎり失わずに、南アが
国際社会に受け入れられるようになるための連立方程式の解を模索
していたのだった。

 一九八三年に公表された憲法改正において白人以外にインド人・
カラードにも一人一票が認められ、人種別人口比に基づく三院制議
会が創設された。白人側にすればぎりぎりの譲歩だった。人口の約
八割の黒人に投票権を与えると政権がひっくり返るので、そうなら
ない範囲でもっとも民主的な外見をもった体制を作り、内外の批判
をかわすつもりだった。

  しかしこれはむしろ火に油を注ぐ結果となり、南アの解放を具体
的に意識しはじめた黒人たちの闘争は激化した。こうして黒人によ
る南アの解放が歴史的必然性を帯びてきた一九八五年、南ア財界人
はついにANCとの対話を開始した。

 政治的ボイコットや経済制裁による国際的孤立、武装解放闘争の
激化による内戦、そして黒人社会主義国家成立という危険を巧みに
避けて経済利権を確保するためには、解放組織と協力して南アの「
革命をコントロールする」(今年一月南ア準備銀行ストール総裁の
発言)選択は南ア財界にとっては極めて合理的な最後の手段だった。

 八九年にベルリンの壁が崩れ、ソ連・東欧の社会主義政権が倒壊
し、ANCをこれまで支援してきた社会主義陣営の影がなくなると
、ANCを使うことで先の連立方程式が解ける目処がたった。こう
してデクラーク政権が生まれ、マンデラが釈放され、二人にノーベ
ル平和賞が与えられ、南アの「民主化」は急ピッチで進んだ。これ
が今回の「民主化」のシナリオであったと思う。

3  「民主化」と「人権」の概念操作
  こうして考えてみると、アパルトヘイトの終焉を「民主化」や「
人権問題の解決」として捉えてきたこと自体が、純粋な勘違いか、
あるいは「植民地」であることを隠蔽するための意図的な世論誘導
ではなかったかという気もしてくる。

   一連の南ア報道で植民地解放の視点は完全に欠落していた。最
初のうちは紋切型にデクラーク国民党とマンデラANCが普通に選
挙戦を闘っているかのように論じ、中盤はインカタの態度にのみ焦
点があたり、選挙後はめでたしめでたしで、歴史的視点に立つゆと
りがなかったということか。

・「民主化」への疑問
 一九世紀南部アフリカ諸部族にとって、相対過半数をとれば相手
を押さえつけられる「野蛮」な多数決原理は馴染めないものだった
。いくらでも時間をかけて合意に達するのだ彼らの手法だ。「多数
が間違うことだってある」というリアリズムを彼らは持っていた。
しかし今回の「民主化」はこのような伝統的民主主義を念頭におい
たものではなかった。

 「民主化」とは、つまるところ黒人大衆が選挙権をもつことでし
かない。これまで一切の政治参加が認められていなかったのだから
、この変化は大きい。

 しかし「民主化」としてしか騒がなかった結果、変革が本来もつ
べきだった「植民地解放」の側面が見えにくくなった。この改革を
「植民地解放」ときちんと意味づけし、植民地体制下で黒人大衆が
長く収奪の対象となってきた歴史にもっと目を向ければ、選挙後の
復興開発政策の優先度も違っていただろう。そのような資源の再配
分が行われないことには、植民地支配としてのアパルトヘイトは終
わらない。

 昨今の日本の政治を見てもわかるように、成人普通選挙制度だけ
でいい政治が保証されるわけではない。「欧米や日本での普通選挙
導入の経緯そのものが、その導入によって国民の政治的圧力を弱め
るという打算・ガス抜き」という側面を持っていた(法政大学の杉
田敦氏の指摘)。南アでも同じ手口が使われたということか。我々
は南アが「民主化」することを手放しで喜んではいけなかったので
はないか。(ソ連東欧圏の「民主化」も実はロシア帝国からの植民
地解放であったとする指摘は、盛田常夫「社会主義崩壊のビッグバ
ンを考える」経済セミナー94年2月号を参照)

・人権問題がなくなっても解決しない
 アパルトヘイトは「国際的」な人権問題とされてきたが、これは
一九五二年の国連総会が「国際問題として扱う」と人為的に決めた
結果であり、具体的に南アと特定国の二国間問題として争われたこ
とはほとんどなかった。要は国内問題だったのだ。

 また、「人類に対する犯罪」概念は人種差別犯罪には時効を認め
ないという点が特徴である。ところが選挙後の南アでは逆にアパル
トヘイト体制に協力した人たちの免訴・免責が急ピッチで行われて
いる。結局裁かないのだ。新生国家が過去の断罪をやめ、社会の宥
和の道を選択したこと自体は歓迎されるべきだ。

 しかしこれは、アパルトヘイトを国際的人権問題、人類に対する
犯罪として糾弾してきたことと矛盾しないか。これまで、南アフリ
カのアパルトヘイト体制は、法律によって人種差別をしていること
が悪だとされてきたのだが、実は人種差別法は植民地支配(主)を
続けるための道具(従)でしかなかったのではないか。だから法律
による差別がなくなれば全て解決してめでたしめでたしとはならな
い。黒人大衆は植民地支配による社会経済格差を受け継いだままの
状態で国家新生の祝福を浴びている。ついでながら、不当逮捕や政
治犯の問題がANC政権になれば起こり得ないという保証はないこ
とも付言しておく。

 人種を理由とした不当差別がなくなったことのみをもって南アの
解放を喜ぶことは、極めて皮相的である。植民地支配の負の遺産に
ついて独立時に清算されたり賠償された前例を私は知らない。だが
、少なくとも南アでは、アパルトヘイト体制下で豊かさを蓄積した
少数の白人と絶対的貧困状態におかれていた多数派黒人がこれから
平和な世界を築いていかなければならない小宇宙では、そのような
作業が行われてもよかったと思う。

4  民族主義・文化相対主義を越えて

 こうして主要な旧植民地は地上から消滅した。植民地解放の理論
であった民族主義の使命も変わらざるをえないだろう。地球上では
民族の違いを「理由」として多くの殺戮が行われている。

 民族という概念自体あいまいであり多分に主観的であるので、民
族が違えば殺しても構わないとするのは人間の本能ではなく後天的
なもの、教育の成果であろう。だったら再教育することでその悪弊
を乗り越えることはできないか。

 たとえばヒトの遺伝子構造の研究によって、民族や人種の違いは
本質的な違いではないと実証されれば、民族間の壁も低まるのでは
ないかと期待する。

 通信・交通手段の発達と、外国語教育の発達により、民族が違っ
てもお互いに理解しあう機会は格段に増えた。私の乏しい経験でも
、日本人に日本語で説明してもわかってもらえないことを、たどた
どしい英語でゆっくり説明して外国人にわかってもらえた経験も
多々ある。民族という縦割りよりも、言葉や文化基盤が違っても思
想や感性が似ているもの同士のほうがよりよくわかりあえるのは事
実だ。

 そろそろ民族主義や文化相対主義(文化を民族のアイデンティテ
ィーととらえる文化観。民族主義を文化の立場から正当化する)に
代わる思想が出てきてもいいのではないだろうか。アパルトヘイト
という狂気のシステムを経験したことで、我々の心の中にはその準
備ができているのではないか。

・イブ理論  =  世界人類はみな兄弟
 ロンドンの一般紙で一連の南ア報道に接する限り、南ア人の書い
た記事は二本しか出会わなかったが、ともにアフリカーナ白人の書
いたものであった。そのうち私がおもしろいと思ったのは、若い時
にアパルトヘイトがいやで国を捨てたこともあるリアン・マランの
「南アフリカ日記」。選挙の直前に始まり、ほぼリアルタイムで南
アの庶民の考えや行動を伝えていた。(ガーディアン紙に四月一四
日から五週掲載)

 南アの「植民地解放」が通常の植民地独立と大きく異なるのは、
解放後もかつての支配階級である白人が五〇〇万人も居残ることだ
。とくにオランダ系アフリカーナは植民して二ー三〇〇年経過して
おり今さら簡単に移住することもできない。これまで人種差別シス
テムに守られて黒人を奴隷のように使う貴族まがいの生活をしてい
た彼らは、これから白いアフリカ人少数派として肩身の狭い思いを
して生きていかなくてなならない。そのような切羽つまった立場に
追い込まれたからか、選挙前のマランの混乱した頭の中に浮かぶ妄
想の中に、民族主義を乗り越えるための思想のヒントがあるように
感じた。その日記の一部を紹介して締めくくることにする。

 「奇妙な考えに取り付かれた。パソコンの前に座り、ぐちゃぐち
ゃにもつれた考えを整理すると、@ 一九八〇年だったか、東ケー
プ州のクラシエ河にある洞窟を掘っていた人類学者たちが掘りあて
た骨は、これまで見つかった中では最古の現人類のものであること
が明らかになった。他にもいくつか証拠はあるのだが、つまり現人
類は俺の生まれ故郷から七〇〇マイルのところで初めて発生したと
いうことだ。 A一九八七年だったか、カリフォルニア大学の微生
物学者A.ウィルソンはDNA研究から、現在生きている全ての人
間は約一四万二千年前に南部アフリカにいたある女性に発生した遺
伝子を共有しているという結論に達した。この時代はクラシエ河で
見つかったものの推定年代とかなりよく一致する。

 ウィルソンのいわゆるイブ理論は、その後何回かにわたって決定
的に論破され、その過ちを白日のもとにさられれた、だけどそれが
どうした。俺は科学的有効性よりもそれが持つ神話的結論に心をひ
かれる。すなわち、@  全ての人類はまさしく兄弟なのであり、
A  すべての人類は南アフリカ人であり、我々が現在この地でくり
ひろげているドラマは、全世界のものなのだ。B  もしここが人類
という種の発生地であるならば、やはりここで最初にエスノセント
リシティー(自民族中心主義)という龍の牙を縫い閉じてしまう場
所であるのだ。それ故にC  俺達こそが苦難を乗り越えていく最初
となるのであり、世界を驚かせ目もくらまんばかりの光の中でお互
いに抱擁しあうことになるのだ。

 しかしなんてこった。ずっと昔、俺はこの国についてのいかなる
希望も捨てた。それ以外に正気でいられる方策がなかったからだ。
しかし、今、ここにあるのは復活の前段階だ。全ての奇跡は完全な
る絶望からしか生まれない、そうじゃないかい?」(リアン・マラ
ン「南アフリカ日記」ガーディアン紙1994年4月28日掲載)
(とくまる  くもん)

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