389−1.ワヤワヤ、南アフリカ



ー 水面下で進む?植民地解放闘争 その4
1−13 ケープタウンの4日目、4年前ロンドンで知り合った当
時インカタ自由党(IFP)のロンドン代表のベン・スコサナ氏と再
会した。

 当時IFPは、黒人居住区で別の「部族」の黒人を誰彼構わず殺
しまくる殺人狂であるかのように新聞で報道されていた。その真偽
の確かめようがなかったので、私はロンドン中心部オックスフォー
ド通りの裏手にあるIFPの事務所を2度訪ねた。

 マスコミのインカタ誹謗報道の針のむしろの上にいた彼は、快く
会ってくれた。「民族衣装をまとってデモを行っているインカタを
野蛮だ残虐だとマスコミや世論は思っているようだが、彼らは週日
は教師だったり労働者で、デモの時だけ民族衣装を着ているんだ」
という話に目から鱗を落とされた。

 我々の脳は、アフリカの民族衣装を見ると、野蛮・残虐だと思う
よう条件づけられているのではないだろうか。自分自身この種の先
入観から自由にならなければいけないと思った。

 また新聞で南ア報道を読む際にも、その記事は記者本人が自分の
目で確かめたことなのか、それとも人の記事を確かめもせずに書き
写したり先入観に従って想像するままに書いたものなのかを判別す
るよう努力した。新聞は結構「見てきたような嘘をつく」ような気
がする。

「国に帰ったら政治はやめて農業に専念したい」と言っていたスコ
サナ氏だが、94年4月の選挙で同党選出の国会議員になった。
国会議事堂前で待ち合わせたところ、彼はボルドーの赤ワイン色を
したピカピカのBMW740に乗って颯爽と登場し、海辺のパブで
食事した。彼はこの3年間に改善されたことがあまりに少ないこと
を嘆いていた。しかし打つ手なしという感じで、「一体どうしたら
いいと思う?」と私に問いかけてきた。

1−14 スコサナ氏と別れた後、またカラードの居住区を回った
。いいかげん見飽きたところで、海岸に出ると、20人ほどのカラ
ードたちが、浜でタイを釣っていた。

 見ていると、ゴミでもひっかけたのか、ある男の釣り竿がポキン
と折れた。この男が家路に着くところを立ち話をした。

 彼は工場で働く労働者。もともとキリスト教徒だったが、10年
ほど前に宗派変えして再洗礼を受けて以来、何でも前向きに受け止
められるようになり、人生が明るく輝くようになったという。「さ
っき竿が折れたよね、おかげで新しい竿を買うことができると私は
感謝しているんだ」という。

 こう思えることはいいことなのだろうか。それとも自己欺瞞か。
物質的な豊かさと無縁だからこう考えて満足しないと日々欲求不満
に苛まれることになるが、一方で不平等な配分の現状を肯定するこ
とにつながらないか。

 歩いて帰るという彼を、車で送った。彼は94年の選挙では国民
党に投票したそうだ。アパルトヘイト体制下で、黒人より少し恵ま
れた待遇にあったカラードたちにとって、黒人政党よりも白人政党
のほうがまだしも身近に感じられ、安心できるのか。

 彼が「せっかくだからこのあたりを案内してあげる」と申し出て
くれ、カラード居住区ミッチェルプレーンの中を車で一緒に回った
。「ここは○○という地区」、「ここは△△という地区」、回って
も回っても地区の名前が変わるだけで、変りばえのしないカラード
用住宅がならぶ。心を安らげる公園ひとつあるわけでない。別れ際
に彼は「もう何十年もここに住んでいるけど、人を案内したのは初
めてだった」という。それは南アの黒人・カラード居住区では予定
されていない行為なのだ。

 西へ走りケープタウンの市内を突き抜け、シーポイントの海岸で
、大西洋に沈んでいく夕日を眺める。和食レストランでMさんの労
をねぎらい、ケープタウンの日程が終わる。

2 ヨハネスブルグ
2−1 4月1日は朝早い飛行機便でヨハネスブルグに移動した。
国内線でも乗客は白人だけ、黒人たちにとって、ケープタウン・
ヨハネスブルグ間の移動はミニバスが主流らしい。黒人乗務員も乗
っていたが、何も仕事せずお客様のようだった。

 その日は一日だけ仕事をすることになり、朝は日商岩井ヨハネス
店勤務の同期と会い、昼からプレトリア近郊にある地球観測衛星地
上受信局を訪問し、夕方市内に戻ってきてロンドンで知り合ったフ
リーダムファイター(自由戦士)ヴィクターと再会した。

 ヴィクターは、ヨハネスブルグ南東郊外にあるアルバートンとい
う街に住んでいた。ここはもともとは白人居住区だったが、最近は
黒人が移り住んできているそうだ。家自体の広さは「マッチ箱」と
大差ないので白人でももっとも貧しい部類の人たちの居住区なのだ
ろうが、庭が広く街路樹が植わっていたりして潤いがある。黒人の
侵入をきらって引っ越す人が多いようで、売り家の看板が目につく。

 ヴィクターは、長年パンアフリカニスト会議(PAC)の軍事組織
にいたのだが、1994年の選挙直前に白人リベラル派政党の流れ
を汲む民主党(DP)に移った。「これからは人種融和が大切であり
、PACの黒人第一主義ではだめだからね」と言って。

 その民主党とはとっくに決別したそうだ。結局民主党の内部でも
白人と黒人は分離して、融和することができなかったのだ。民主党
の白人からは「おいヴィクター、君は教育を受けているから他の黒
人とは違うよね。お互いの階級利益を守ろう」と言われたという。

 白人リベラル派の発想は1994年の前後で一向に変わっていな
い。自分のリベラルな思想や弁舌を誇示し自慢し、その一方で本心
は差別的で子供じみて自己中心的。

 ヴィクターは翌日から5日間にわたって私を連れ回し、様々な人
に会わせてくれた。

2−2 ソエトで商店を経営する黒人ビジネスマンは、マッチ箱を
建て替えた大きな2階建ての家に住んでいた。彼の関心事は、
1994年以前は市営住宅や税金の不払いを推奨していたANCが
、政権につくと過去に遡ってそれらを払わせようとしていることだ
った。歳入不足でANCも過去のいきさつなど構っているゆとりは
ないのだろうか。

 また、小規模で設備の不十分な個人商店しかないソエトで、黒人
が新しくショッピングセンタを作ろうとしても銀行から融資を受け
られないとこぼしていた。
白人資本による大型ショッピングセンターがソエトに建設中だった
ことと対比すると、まだ植民地体制が続いているのかもしれない。

 彼は、南アの現在の状況では、効率性は二の次にしても雇用人数
の多い産業を導入すべきという意見だ。私は、いつまでも安い人件
費をあてにするのではなく、きちんと付加価値を生む産業構造を作
り出さなければならないと思うのだが、求め過ぎだろうか。

2−3 ソエトの中学校を訪問した。休暇中で生徒や先生の姿はま
ばらだったが、ひとクラスだけ補習授業をやっていたので、中に入
れてもらって生徒たちと話をした。

「この3年間で何かよくなりましたか」という質問に対しては、「
何も変わらない」と口を揃えて言っていた。
 実際、学校といっても教材ひとつあるわけではない。技術科、家
庭科、化学、生物の専門教室を見せてもらったが、机と椅子以外に
は何も教材がなく一般授業しか行えない。天井は破れていて雨が漏
るらしい。図書館の本は学校創立以来20年以上買い足しておらず
、役に立つ本がないそうだ。

2−4 新政権になり地方自治・分権というかけ声のもと、自治体
の財力によって学校教育にかける金の多寡が違うようになった。し
かし南アでは、自治体の財力の有無が住民の人種と対応しており、
豊かな白人地域の学校はもともと恵まれた環境にある上、地元や大
企業からの寄附も集まりやすいので益々豊かになる。貧しいままで
放置される黒人地域の学校との格差は広がる一方だ。

 テレビのニュースでは、白人の高級住宅街サントンと黒人居住区
アレキサンドラを両方含むヨハネスブルグ北方の自治体では、税金
を払っていない黒人の福祉や公共サービスのために自分たちの貴重
な税金が使われることに抗議する白人たちの税金不払い運動が報道
されていた。白人たちは、なぜ黒人が税金を払えないほどに貧しい
のかを考えてみたことはないのだろうか。自分たちが広く快適な家
を持てたのは、黒人たちを超低賃金で使用できたからだということ
を理解していないのだろうか。どうしてあえて黒人の気持ちを逆撫
でするような行為をとるのだろう。

2−5 リタというANCの古参女性活動家の案内でソエトの名所
を案内してもらった。

1) まず1976年6月のソエト蜂起の記念碑を訪ねた。
 オランダ系白人の言葉アフリカーンス語の必修化に反対する子供
たちの抗議行動は、戦うことを忘れて飲んだくれてばかりいる大人
たちのたむろするシェビーン(闇酒場)への投石で始まった。

 警察が彼らを暴力的に鎮圧しようとして死者が出たことで、この
暴動は全国規模に膨れあがった。最初に警察によって殺されたとさ
れるのが当時13才だったヘクター・ピーターソンという少年だっ
た。

 この碑はひとりの少年がヘクターの死骸を抱いて泣きながら走っ
ている有名な写真の光景を石に彫り込んだもの。ANC青年同盟が
建立し、ANC議長のネルソン・マンデラが除幕したと彫っている
。碑の周辺には運送用のコンテナを並べて、その中でソエトの生活
にまつわる写真を展示していた。

 リタの説明してくれる内容が自分の記憶と違う。たとえば彼女は
「ヘクター・ピーターソンはANC青年同盟の活動家だった」と言
うのだが、70年代ANCの拠点は海外にあり、国内ではほとんど
活動をしていなかったのではなかったか。「子供たちが抗議行動を
しているところにウィニー・マンデラがかけつけた」というのも耳
新しい。「70年代以来ずーっとソエトの住民はズールー族の暴力
に耐えて来た」のだったっけ。その場で疑問を提示したり嘘を指摘
しなかったが、腑に落ちぬものを感じた。

2) その後で西オーランドにあるネルソン・マンデラの家も覗い
た。どこにでもある普通の「マッチ箱」だった。今は誰も住んでい
ないが、記念館に改装する工事の最中だった。

 ガレージには事務所兼売店があり、寄附を募っていた。また「英
雄の土地」と名付けて、マンデラ家の庭土を10ccほどの容量の
小瓶に詰めてコルクで栓をし、それにウィニーのサイン入り証明書
を付け50R(約1500円)で売っていた。バカ高いと思ったが、
証拠にひとつ購入した。この金はどこに行くのだろう。

3) ウィニー・マンデラの豪華な私邸も外から見た。国会会期中
で彼女はケープタウンにいて不在だったが、屈強な若者が警備をし
ていた。

4) 名所めぐりの最後は、葬儀場だった。なんで葬儀場が大切な
のか最初はわからなかったが、話を聞くと、抗争や事故で死んだ人
の葬式をANCの金で盛大に演出し、ANC活動家として手厚く葬
るのだということがわかった。ANCが人の死を自分の宣伝に利用
しているみたいで気持ち悪かった。

 後でヴィクターに「ソエト暴動でANCはそんなに活躍したのだ
っけ」と聞くと、「あれは(黒人意識運動によって学生を指導してい
た)スティーブ・ビコの影響だ」と一言。そういえば、当時の若者た
ちに大きな影響を与えたと聞いていたビコの写真や彼についての記
述が全くなかったことに気付いた。

 さすがにビコほどの大物だとANCの活動家だったと強弁できな
いから、抹殺するのか。存在するものをあるがままに見ることだけ
でも難しいが、そこにないものや隠されているものを感じたり見破
るのはもっと難しい。歴史を正しく理解する必要はここにあるので
はないか。

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