378−3. 必要なのは行動だけ



一切の議論は無用であり、必要なのは行動だけ
 得丸久文

 議論ではなく行動が必要なんだということ、を言いたい。 

YSさんの昨日の議論もちょっと違うと思うんだ。
新聞の記事のご紹介も、なんとなく的外れというか、解決になら
ない。

我が愛する愚妻、愚妹、愚女友達たちは、口をそろえて、柳太郎
さんとYSさんの最近の議論を以下のようにコメントしています。 

女性が最近黙っているので、あえて紹介しますと、「あの人たちは
、要するに、性行為において「自分さえイケればいい」と思ってい
るタイプでしょ。YSさんには悪気はないようだけれど」 

「そんなに女がどうしようもないと思うなら、日本の女を全部海外
に追放して、クローン人間でもおおいにつくれば良いのです。まっ
たくもって、くだらない。」 

こんな感じで、女性の意見が出てこないわけ。これではジェンダー
を議論する意味ないよね。男だったら、女性が気持ちよくなるよう
に配慮と行動しなくちゃ、ジェンダーに付属する任務を果たしたこ
とにならないよね。 

問題は、フレキシブルな時間預けられる保育所や男女平等雇用など
の制度(文明)にあるのではなく、私たちひとりひとりの意識と行
動(文化)にあるんだよ。つまり私たちの意識や行動様式を変えな
いことには、解決はないということ。 

五月の「『ある』ものとしてではなく、」の記事の中でもちょっと
だけ触れたけど、福岡でご飯を作ってくれない母親を誤って殺して
しまった中学生の兄弟がいたよね。 

彼らはいまごろどこでどうしているだろう。ちゃんとご飯を食べさ
せてもらっているだろうか。誰かに暖かく面倒を見てもらっている
だろうか。(暇な人は永山則夫の「捨て子ごっこ」を読んでみてね)

僕は今も気になる。彼らをギュッと抱き締めて、「君たちは悪くな
い。あれは偶然の過ちだった。安心をし。さあ、暖かいスープを飲
んで。もう二度と君たちのような悲劇が起きないように、暖かい社
会を作ろうね」と語りかけてあげたい。 

現代資本主義社会において、核家族というのは、消費を増大する意
味がある。本来であれば、10人や20人にひとつあれば足りるも
のを、核家族という単位で区切ることによって、5倍から10倍の
数だけ売れることになる。 

その一方で、人間と人間のつながりや触れ合いは希薄になっていく
。昔だったら、近所の誰かが見るに見かねて口を出したり手を貸し
たりするところが、今は何も口出しも手出しもしなくなってきてい
る。 

だから僕らはみんなアダルトチルドレンみたいになってるんだよ。
あの福岡の中学生だけではない。みんなそれぞれ不足している部分
があるんだよ。その不足している部分は人によって違っているし、
危機の度合いも違っているけど。 

周りを見渡してごらん、離婚家庭も増えている、別居家庭も増えて
いる、単身赴任も増えている。かつてのように核家族という単位す
ら維持できない、保全できなくなっているんだよ。 

すると何が起きるか。一番弱いところから、こわれていくんだ。 
それが子供だよ。 
議論なんてしている暇はないんだよ。君の周りを見渡してごらん。

もしそこに料理のできない主婦がいたら、彼女の料理のできなさを
あげつらうのではなく、渋谷のベターホーム協会にでも行って、わ
かりやすい料理の本でも買って送ってあげるんだ。 

お父さんがいなくて寂しがっている子供がいたら、30分だけでもい
いから、キャッチボールをしてあげるんだ。話し相手だっていい。
彼らの話を聞いてあげることができるかい。 

親切の押し売りではなく、ごく自然な形で、隣人として、友人とし
て、具体的な何かをしてあげる。核家族の境界線にとらわれること
なく、友情や人情といった心と心を通わせることによって、確実に
崩壊を続ける社会のほころびや亀裂を、少しずつでも縫合すること
、傷を癒してあげること。お互いに対等の立場で、できることを無
理することなくしてあげる。 

そういった関係を築き、広げなければならない。そのような行為が
求められているんだよ。 
それ以外に現状を変える方策はないのではないか。一切の議論は無
用だというのは、そういうことなんだ。 


コラム目次に戻る
トップページに戻る