377−3.あらゆる矛盾の投げすて場としての『母性』



得丸久文

このところの議論で、男性が女性の母性不足についてコメントして
いるのをみて、黙っていられなくなり、レスします。 

ジェンダー論議に私はほとんど不参加でしたが、それはなぜ今ジェ
ンダー論議が必要かということが理解できなかったためであり、
そもそもジェンダー論とは何かも明確にはわかっていなかったため
である。 

多くの動物や植物と同じように、人間にもオスとメスがあり、オス
とメスで身体や意識に違いがある。それは自然なことであり、その
違いについて議論することの意味がわからないのだ。人間のジェン
ダーと、イヌやサルや銀杏やカタツムリのジェンダーはどう違うの
かが示されていない時に、なぜ人間のジェンダーだけを議論するの
か。 

そもそもジェンダー論とは、何を議論したいのかがわからない。男
と女は違う。それは太陽が東から登って西に沈むのと同じくらい当
たり前のこと。性差があるということに百万言を費やして何になる
というのだろうか。 

我々議論の参加者は、かならず男か女のどちらかであるため、議論
に容易に参加できるが、けっして反対の性を経験することはできな
い。どんなに頑張ってみても、異性の立場を実際に経験することは
永遠にできない。 

だからジェンダー論は不毛ではないかと思った。議論がどんなに続
いても、結論めいたものが見えてこない。 

では何を考え、何を議論すべきなのだろうか。 
かつて「『ある』ものとしてではなく、『作りだす』ものとしての
家族」というコラムを書いたときに、仙台に住んでいる友人から、
鹿野政直著「戦前・『家』の思想」(創文社、1983年)という
本の紹介を受けた。 

その直後にパソコンのハードディスクが壊れてしまい、紹介しても
らった章句も忘れていたのを、今日図書館でその本を借りることが
でき、読み返してみた。やはり心を惹かれる文章であるので、最後
の部分だけやや長くなるがご紹介したい。1983年に出版された
本ではあるが、今日のブレイクワイフやホームレスや子供たちの苦
悩を、家庭内暴力やお受験殺人の悲惨を、みごとに予言していたと
思えないか。 

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ 
以下同書 204ページから 
「戦後の『家』の思想が、戦前のそれをそのまま引きついでいると
みるのは、もとより当をえていない。そもそも制度=枠組そのもの
が一変した。憲法改正の私法版というべき民法改正によって、制度
としての『家』は消滅し、古典的な父権制はいわば象徴天皇制とな
った。 

 それとほぼ並行してさまざまの家庭民主化が唱えられ、またそれ
と少なくとも半ば重なりあうようにしてかずかずの女性論がくりひ
ろげられ運動がおこり、かつまたいくつかの制度上の措置も講じら
れて、女性の隷属性を消去する展望は、戦前とは比較にならぬほど
ひらけてきた。にもかかわらず聖化された『母』のイメージだけは
、無傷のままのこった。(略) 

まず第一に、サラリーマン層=新中間層が飛躍的にふえた。その多
くは、勤務時間プラスますますのびる通勤時間によって、物理的に
『会社人間』となることを余儀なくされているばかりでなく、脱落
者となることへの潜在的な恐怖から、心理上も『会社人間』たるべ
くほとんど運命づけられ、それを誇りに思うべく習性づけられても
いる。 

『会社人間』にとって、家庭は勤務と勤務をつなく束の間の休息の
場にすぎず、そこにおける幼児化(={一面における}ワンマン化)
こそ、カタルシスをもたらすものとして最良の休息となる。 

“疎外”の関係に生きる人間は、おのれにかかわる他者(もっとも
身近な人間が、ふつうその対象となる)を手段化することによって
、つまり“疎外”の位置におくことによって、禁断症状にも似たか
たちで安穏をむさぼるのである。 

象徴父権制は、改正民法によってのみでなく、夫が『会社人間』化
して、家庭に物理的心理的に“不在”であるのをしいられたことに
よっても必然ならしめられた。『もうひとり大きな子供をかかえて
いる』とは、夫を形容する妻の常套句である。(略) 

第二に、資本主義の成熟にともなう高学歴社会の出現が、子供にた
いする『母』の意識をつよめた。置き去りにされた妻は、子供をの
み意志を疎通させあるいはそれをおしつける相手として、日々をす
ごす傾向をもち、閉鎖性を深めてゆく。(略) 

第三に、おなじく資本主義の成熟にともなう高齢化社会の到来は
、妻を否応なく老人看護者へと追い込みつつある。(略) 

ベビーシッターということばがある。両親の外出するあいだ雇われ
る子守のいいであるが、現今の家庭で妻=主婦=嫁は、夫シッター
、子供シッター、老人シッターの三機能を兼ねることを余儀なくさ
れ、その意味で『母性』ないし擬似的『母性』をつよめつつある。
いいかえれば総母子家庭化の進行である。その関係において家庭は
、かろうじて一つの単位として存在するとの様相をつよめつつある。 

こうして『母性』は、国家によってあらゆる矛盾の投げすて場所と
して意図的に称揚され、男たちによって日常的“些事”を肩がわり
してくれる美徳として価値づけられる。しかも一般に、あらゆる面
でも荒廃が深まるだけに、その荒涼たる風景からの救済を求めて、
人びと(=わたくしたち)はつい『母性』へのあこがれをつよめが
ちでもある。それら複合的な導因によって『母性』は女性によって
は栄誉たりつづける。 

これは残酷な詐術である。まず、近代化(具体的には資本主義化)
の結果として人と人との関係が、商品ないし商品的価値を媒介にす
るというかたちで切りはなされ、そのゆきつく先として解体や荒廃
がもたらされたにもかかわらず、原因と結果が倒立したかたちで印
象づけられるべく操作され、『母性』の不在に、解体や荒廃の原因
がおしつけられるという論理が準備されている。 

つぎに、近代化にともなう解体は、その代償として『孤立』ないし
『自立』をともなうべきであったのに、『母性』の強調というかぎ
り、女性の存在意義はつねに子供(ないし擬似的な“子供”)とセ
ットのかたちでしか容認されないという通念を再生産しつづけ、女
性が女性として『自立』すること、ないし女性問題が女性問題とし
て『自立』することを妨げている。 

さらに、『母性』の観念は、太古のその発生期にあっては、『豊穣
』の観念と結びつき、普遍愛への展望をもちえたのであったとして
も、私的所有を原理とする現今の社会では、すべてを私物視せずに
はおかない資本主義的価値意識に思うままに攻めこまれ、『子供』
一般ととらえるのとは対極の“わが子”意識をのみ肥大させつつあ
る。 

そのうえ女性自身によっても、日ごろの従属制閉鎖性を逆転させ、
それらに由来する鬱屈を解消しうる切り札として、『母性』を宝物
視する心性が培われる。もとより時折、その偽装された自己満足の
奥底から激しい渇えの焔が立ちのぼってくるのをとどめえないにせ
よ。 

この詐術は行きつくところまで行きつかずしては止まないだろう。
わたくしたちのなかには、ひとときを安穏にすごすために、進んで
とはいわずとも流れのままに詐術に身をゆだねてゆこうとする心性
が蓄えられている。その心性が生きのびうるかぎり、詐術もそれな
りに有効性を保持できるだろう。 

だが、いかなる詐術も、荒廃や解体の現実を糊塗しえなくなるとき
、人びとはみずから捉えこまれている価値意識に、おのがじし反乱
をこころみざるをえなくなるだろう。それは、かくも深くくいいっ
ている『私有』ないし『私物化』の観念のチェーンからの解放、あ
るいは耐えきれなくなっての離脱を核とする。 

具体的にはそれは、『会社人間』であることと、閉ざされた小宇宙
としての『しあわせな家庭』像(=マイホーム)の、対象化相対化
にはじまり、その拒否へと向う、多分に自己否定をともなう長く苦
痛の多い道程となるだろう。さらにいえば、『会社人間』像と『マ
イホーム』像を二本の足とする『中流』意識の解体への道程とも定
義することができよう。 

そういう反乱ははじまっているか。夜明けまえの暗さにある、とわ
たしは答えたい。と同時に、その反乱は子供たちにおいて、もっと
も不幸なかたちをとってはじまっている、とも答えたい。 

長い歴史的展望に立つとき、人間はきっとその苦痛をのりこえ、新
しい『人間関係』への途をひらいてゆくだろう。しかしその過程で
あまりに多くの犠牲者をだすだろうということが、わたくしの心を
沈ませる。そのさい、本文中でみてきた『扮装をはぎとるもの』や
『家の無化への想念』の、少なからず試行錯誤をともなって知的遺
産が、未来にたいするわたくしたちの主体性を育むのに、なにほど
かの示唆を与えることはないだろうか。」 

鹿野政直 著 「戦前・『家』の思想」1983年、pp204-210より
抜粋 
(得丸久文、2000.12.03) 
==============================
YS

 「戦前・『家』の思想」の予言は見事に的中したみたいですね。
おそらく筆者でさえ予測できなかったスピードだったのかもしれま
せん。当時日本の経済システムがこれほど脆いものとは誰も予期し
ていなかったでしょうし、立て直しにこれほど時間がかかるとは思
っていなかったはずです。 

またしてもその原因を顧みることなく「なんとなくあやふや」のま
ま、みんなが言うから「なんとなく危機感」を持ってふりをして「
なんとなく変革」したような気になって安心する。結局のところ何
も変わるわけないですね。 

そのつけが弱いところに集まってきます。この記事を見るとなにか
そんな予感がします。 

『保育所の受け入れ年齢の拡大?』 
『保育サービスの多様化を推進する方針?』 
理念だけでなく、具体的な方策が必要ではないでしょうか。 
男女格差をなくすといいながら、本来あるはずの多様性が失われる
可能性は無視できません。 
私自身、このような感性の欠落した計画は断固として反対です。 
************************************************************ 
『男女雇用差別、企業名を公表――基本計画、12日閣議決定。』 

2000/12/07 日本経済新聞 朝刊 

 政府が十二日に閣議決定する「男女共同参画基本計画」の内容が
六日、明らかになった。社会参加や雇用での男女格差をなくすため
(1)採用、配置、昇進など雇用面で差別的な待遇をしている企業
の社名を公表する制度を導入する(2)二〇〇五年度末までのでき
るだけ早い時期に国の審議会の女性比率(現在、約二〇%)を三〇
%に引き上げる――などの措置を打ち出した。仕事と子育てを両立
できるようにするため、時間外労働の免除を請求できる制度の創設
検討も盛り込んだ。 

 基本計画は昨年六月施行の男女共同参画社会基本法に基づいて政
府が策定したもので、二〇一〇年を期限として「政策決定への女性
の参画」「雇用での均等な機会と待遇の確保」「職業と家庭の両立」
など十一項目の達成目標を掲げた。男女のいずれか一方に社会参加
などへの機会を積極的に提供する「積極的改善措置」(ポジティブ
・アクション)を明記したのが特徴だ。 

 国の審議会の女性委員比率の引き上げでは、女性委員の人数や比
率を定期的に調査・分析して公表し、女性のいない審議会は廃止を
検討する。仕事と家庭の両立を巡っては、保育所の受け入れ年齢の
拡大など保育サービスの多様化を推進する方針を明記した。


コラム目次に戻る
トップページに戻る