371−3.論語の研究会報告



得丸です。論語の研究会の報告をします。
以下、出席者のコメントを簡単に紹介します。テキスト「論語」
宮崎市定著を読みながら比べてみてください。


21
「違うことなかれ」というのは、礼の制度や手順に外れるなという
ことだろう。現代社会においては、基準とすべき礼(文明的)が希薄
になっている。時代に合わせて、礼のあるべき姿を求めてもいいか
もしれない。

 ネット社会で、ネチケットという言葉があるのも、礼の体系が作
り出されなければならないからだといえる。

22
 親として、子の健康のほかに、いい成績とか、出世を願ってしま
うことがある。しかし、その際もまず子の心や身体の健康を第一と
しなければならないのではないか。

23
 表面的な孝養ではだめだということか。心からの孝養でなければ
ならない。

24
「色難し」というところは、形式的な礼儀作法だけではなく、その
場の雰囲気が孝養にふさわしいものにならなければらないというこ
とだろう。

 しかし、今の日本の老人たちは、金銭的に恵まれて、長寿命を楽
しんでいるわりには、自分のことしか考えていないのではないか。
後に続く世代を育てるとか、公共のために自分の時間や金を使うと
いった行為に欠ける。おいしいものを食べて温泉で楽しんでという
のだけでは、生きている意味が感じられない。
 戦後の日本社会は共同体を喪失し、地域活動を怠ってきたが、そ
のときの社会を担ってきた人たちは、自分が作り出した殺伐とした
社会に対して、おとしまえをつけてから死んでもらいたい。
 孝養する気持ちが、盛り上がらない。

 阪神大震災やナホトカ号事故のときに、ボランティアの中心にな
ったのは30-40才の世代。僕らは社会のために役に立ちたいという願
望があるのだが、なかなかそのような公的な欲求を発揮できる場が
ない。

 そのような欲求を、事故や災害といった外部要因に求めてはいけ
ないのかもしれない。日常においても、瞬間瞬間公的なものへ身を
捧げることができるように自己改革することが必要では。

 ナショナリズムを吹聴する輩がいるが、口先で「日本文化はすば
らしい」などと言っている連中に限って、そのような美しい日本文
化を体現していなかったりするのは、こっけいである。

25
 ここの「発」は、自発、内発の発だろう。一番弟子の顔回は、孔
子と同じように反応する自我を形成できていた。

26
 所以とは行為、所由とは行動基準、所安とは成果と考えることは
できないか。

 最近は、「お天道様が見ている」なんてことを口にしなくなった。

27
 温故知新の語源はここ。
 一般消費者向けの教育が大切なのに、十分なされていない。

28
 器ならずとは、フレキシブルであれ、状況にフィットするように
せよ、ということか。

29
 子貢という弟子は論がたったということなので、孔子はあえて「
先ず行え」と言ったのだろう。

30
 周とは「あまねく」、比において徒党を組むことが自己目的化す
ることが問題。

31
 宇宙飛行士の毛利衛さんは、最近の子供は「理科離れ」というよ
りむしろ「考え離れ」していると指摘する。教えてもらう環境がす
ばらしく、知識の習得が受験への再短距離であるばかりに、自分で
考えなくなっているそうだ。

 これも有名な章句。

32
 異端は、本流とちがって体系化されていないから、異端からは次
の世代が生れないのではないか。

以上

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