鈴鹿国際大学教授・ 水屋神社宮司 久保 憲一 今や神道はいわゆる単なる「宗教」とは言い難い側面をもってい る。神道はもはやわが国の社会秩序、伝統となり、日本の歴史や文 化を語る場合、天皇と神道抜きには語れそうにない。そして日本人 の生活規範、慣習、しきたりそのものになっている。 多くの日本人は日常生活、季節の変わり目、人生の節目などには 知らず知らず多くの神道儀礼を行っている。例えば、お内裏(天皇) 様と「おひな(皇后)さま」。神前でとり行われる武道試合。とく に四方に注連縄を張り巡らした相撲土俵や力士の「まわし」。「ハ レ(非日常)」と「ケ(日常)」または「聖(清浄)」と「俗(褻 れ)」とを分ける「清め塩」など。 元日には歳神様に参り、注連飾りをし、門松を立て、新米でつい た鏡餅を神棚に供え、お雑煮を食べ、祝す。七草、小正月、節分、 雛祭り、春の彼岸、端午の節句、七夕、お盆、十五夜、秋の彼岸、 冬至、大晦日には神様や祖先をまつり、感謝と祈りを捧げる。 安産祈願、初宮詣、七五三、成人式、神前結婚式、厄年の神社参 拝。還暦、喜寿、米寿、卒寿、白寿を祝い、神葬祭をする人もいる。 地鎮祭、上棟祭、清祓、渡橋式、道路・トンネル開通式、山・海開 き……ありとあらゆる神道儀式が日々行われる。すなわち広義の 「神道は日本教」であり、わが民族固有の信仰なのである。 もちろんわが国は「神の国」である。日本の風土と緊密に結びつ いたありとあらゆる神々( 八百万の神) の坐す国である。神道(惟神 道= かんながらのみち) の名称は外来宗教の仏教と区別するために つけられただけのことである。 ただ、神道は他宗教のような明確な教祖、教義をもっているわけで はなく、御神体も多種多様である。敢えて言うなら、教祖は皇祖・ 天照大御神または神代の神々。 教主はさしずめ現在でも、宮中三殿の賢所において神明奉仕され、 世界平和と国民の安寧を日々祈られている今上陛下ということにな ろう。外国の宗教や国王を想起する人には多分ピンと来ないかもし れない。 教義は「古事記」「日本書記」。その要諦は大いなる自然( 神々 ) への「感謝」と「畏敬」。聖書、コーラン、仏典を教義としてイ メージする人にはこの説明ではおそらく物足りないであろう。 神社神道( 教派神道と区別する)はキリスト教やイスラム教のよ うに一神教ではない。ゆえに御神体も画一ではない。偶像もあれば 自然石もある。山川草木が御神体の場合もある。そして地鎮祭や上 棟祭の時のように、祭り毎に神を神籬( ひもろぎ)に降ろす神道祭式 は、とりわけ西洋人にはなかなか理解できないであろう。日本人の 「苦しいときの神頼み」発想や行動など、まことに不真面目に映ろ う。民族紛争、宗教紛争が皆無と言ってよい日本社会も理解しがた いことであろう。 大半の日本人は誕生祭や結婚式は神社。葬式は仏教。初詣、新車 祈祷をし、神社からお守りを受けながら、お盆には寺へ参る。クリ スマスやバレンタインデーには暫時一億総クリスチャンに変身する。 かくてある日本人などは自らを「無宗教者」または「無神論者」だ とうそぶくが、彼らこそ私は典型的「日本教徒=神道信者」と観る。 なぜならその発想、行動は紛れもなく日本教徒( 八百万神=神道信 者) そのものだからである。「神に対する憎しみ」から発する西洋 的「ニヒリズム( 虚無思想・無神論)」とは全く意味合いを異にする。 今日では「氏子」とは一神社を中心として一定地域に住み、その 神社を崇敬して維持する人々をいう。故郷に「氏神( 鎮守の神)」様 をもつ場合もある。実際「氏神 」は地域の護り神で、他の宗教の信 者でも、その地域の居住者ならすべて氏子という。そのためか、宗 教を尋ねられると、わが国の総人口一億二千四一〇万人中、神道は 一億九〇〇万人( 約八七・八パーセント)、仏教は九千六〇〇万人 ( 七七・四パーセント) 、キリスト教は一四六万人(一・二パーセン ト) [ 一九九一年文化庁調べ] となる。神道の一億九〇〇万人とい う奇妙な数字をどう解釈すればよいのか。ともかく欧米の基準では 神道は立派に「市民宗教(シビル・レリジョン)」の資格を有して いる。 戦後五十年以上経ち、わが国はもはや占領下にない。政府も、国 民も国際社会の現実をもう少し直視し、自らの国柄を見つめ直して ほしいと思う。 平成 12/11/21 (火) Internet Timesより http://www.internet-times.co.jp/news/news121121/fuumon-1-121121.html