351−1.「GODを『神』と訳した錯誤」



        −ことばと文化新発見−
                         
 歪曲された森首相の「神の国」発言
 その騒動の発端は、ある日、突如として勃発した。それは、かの
森善朗首相による「『神の国』発言」のことを指し示している。
その発言は、2000年5月15日午後6時30分から、ホテルニューオータ
ニ「芙蓉(ふよう)の間」において、神道政治連盟国会議員懇談会
の結成30周年記念祝賀会で行われたものである。
 森首相の「神の国」発言をめぐるマスコミの報道ぶりを私が一覧
したところによると、針小棒大も甚だしいと言わざるを得ない。
 例えば、テレビのニュースでは、もっぱら「日本の国、まさに天
皇を中心にしている神の国である」という箇所のみをピックアップ
した。新聞も、一面の見出しで、「首相『日本は神の国』」「『ま
さに天皇中心』」(5月16日付朝日新聞)「憲法の根幹を否定し、
近代立憲主義の考え方を疑うような議論」(5月18日付朝日新聞・筆
者波線)と書き立てていた。だが、この発言の後で、森首相は、
こうも述べているのである。
 「沖縄に行って、子供サミットで提言が出されましたが、どこに
も命を大切にしようと書いていない。人の命がどこから来たのか。
人の身体ほど神秘的なものはない。神様であれ、仏様であれ、それ
こそ天照大神(あまてらすおおみかみ)であれ、神武天皇であれ、
親鸞上人(しんらんしょうにん)さんであれ、日蓮(にちれん)さ
んであれ、宗教というのは自分の心に宿る文化なんだから。そのこ
とをみんな大事にしようということを、もっと教育の現場でなぜ言
えないのか」
 森首相が天皇中心と言っても、このように天皇のみではなく様々
な神々を羅列されているではないか。それのどこが問題なのか。さ
らに、憲法には天皇の位置付けを、条文第一条から第八条まで掲げ
、第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴
であって、この地位は、主権の存する日本国民の創意に基く」と述
べられている。いわゆる「象徴天皇」を指している。ここで述べら
れている「象徴」と「中心」に語義の差異は無いと私は考察する。
従って、「天皇中心」や「憲法の根幹を否定」を批判対象にした朝
日新聞をはじめとするマスコミ人士を私は批判対象にする。

 マスメディア=第一の権力 

 最後の日蓮は、連立相手の公明党の支持母体、創価学会が脳裏に
浮かんでの発言だから、公明党がこの発言に批判の矛先を向けるこ
とに私は理解できない。このような発言の全容を虚心坦懐に読めば
、森首相が単純に、明治以降の国家神道の復活をもくろんでいると
いったような批判がいかに馬鹿げたものであるかということは、ま
ともな文章読解力のある人ならば容易の気づくはずではないか。
それに気づかなかった、もしくわ気づこうとしなかったマスメディ
ア(テレビ・新聞)は、何らかの意図がそこに存在していたと考え
ることができよう。そもそも、このような騒動になったからには、
森首相発言の全文、フルテキストを各マスメディアが発表しなけれ
ば、国民には発言内容の善悪を付けることができない。なぜなら、
文章というのは、コンテクスト、前後関係・文脈に基づいて語られ
るからである。そのような処置をしないで、片言隻句(へんげんせ
っく)を捕らえて、一部分を文章から抜き出して報道するというの
は、いわゆる「言葉狩り」以外のなにものでもない。この「言葉狩
り」という度し難いマスコミの悪しき因習により、これまでの日本
の政界では、幾人もの政治家がマスコミによって辞任させられ、
または苦しめられ、徒労を強いられてきた。最近の例で言うと、
1999年10月に起こった、自由党の西村眞悟衆議院議員による「核武
装」発言である。そして、2000年4月に起こった、石原慎太郎東京都
知事による「三国人」発言である。この最近の3つの「言葉狩り」
事件において、全文を報道したのは、唯一、産経新聞のみであった。
その他のマスメディアは、偏向報道をしたといっても決して過言と
はいえない。朝日新聞は、その社の方針からして全文は決して掲載
できないはずである。「失言の認定権」という強大な権力をマスコ
ミは握っているわけだ(井沢元彦論文 諸君10月号「A級戦犯は村山
富一と河野洋平じゃないか」)。ここまで騒ぎが拡大したからには、
その根本原因となる森首相発言の全文を掲載するのがマスメディア
の義務である。そうしない限りは、国民がこの発言の善悪を判断す
る資料は、無きに等しい。なぜなら、一部分を抜き取って報道する
限りは、そのマスメディアの価値判断に依拠することになるからで
ある。朝日新聞が明らかに今回のような偏向報道を意図しているよ
うな場合、マスメディアが世論(せろん)を代表するのではなく、
マスメディアが逆に世論を代表することになる。つまり、マスメデ
ィアが意図的に世論を操作していることになり、それは文字通り煽
動である。煽動とは、アジテーションのことであり、それを行う主
体をアジテーターという。そうとわかれば、世論なる実態、本質が
垣間見えてくるというわけだ。そういう意味において「世論調査」
なるものは、「自作自演」の域を出ない。マスメディアを「第四の
権力」という表現がしばしば見受けられるようになったが、実際は
「第一の権力」である。第四の権力でいう第一・第二・第三とは、
立法・行政・司法のことである。なぜ、第一の権力なのかというと
、三権はいわゆる世論なるものには抗しきれないので、その世論自
身を操作しているものとしてのマスメディアが第一の権力となると
いう次第である。
 
 世論と輿論は違う

 ここでいう「世論(せろん)」なる単語は、マスメディアが第一
の権力になる以前には存在せず、「輿論(よろん)」と書かれてい
た。この「輿」という字は車などの土台を意味し、従って社会の土
台を指したのである。それゆえ神輿(みこし)と書かれるのである。
そしてその社会の土台とは、一般庶民のことであった。私がここで
「衆愚=大衆」と呼ばず、あえて庶民といったのには理由がある。
 庶民とは、財産も無い、大学も出ていない、新聞も読んでいない
、がしかし、日々の家庭、職場、地域での生活の中で、何千年にも
及ぶ日本固有の日本文化に基づく「歴史的英知」とでも呼ぶべき知
恵をそこそこ身につけている人間のことを指した言葉である。つま
り、知識人といえども歴史的英知を身に付けていないのなら、その語
意からして「大衆」と呼んで指し使えないのである。だから、「輿
論」と書いたときには、社会の底辺にいて人知れず歴史的英知や知恵
を身につけている人々の間からわきあがってきた論のことを指して
いる。しかし、この「輿論」という字も戦後、字数が多いというこ
とで「世論」という字をあてがわれてしまった。世間がまっとうなら
ば、庶民の輿論が流通するのであろうが、今どき流通しているのは、
第一権力にのし上がったメディアの世論である。
 
 多神教の「神」と欧米の「神」とは違う

 森首相は「神の国」と言っているが、これは「神々の国」「神々
の国原(くにはら)」という意味にとるのが庶民たる言語感覚であ
る。日本人の大好きな小泉八雲、(こいずみやくも・1850-1904ギリ
シャ生まれの英国人、のち帰化)も日本のことを「神の国」と呼ん
でくれているのであれば、ごく健全な文化的認識として通用してい
たに違いない。
 日本では、様々な「神」が存在している。森の神(鎮守の森)し
かり、山の神しかり、海の神しかりである。人間は死ねば誰でも
「神」になる可能性がある。乃木神社、東郷神社しかり。つまり、
日本文化の多神教の「神」というのは、欧米の唯一神の「神」、ヤ
ーベ(エホバ)とは全く異なる存在なのである。
 この日本的概念に「神」という中国文字を当てたときに第一の誤
解が生じた。さらに、中国語聖書がGODを「神」と訳したときに、
誤解は決定的に二重になった。
「神」という漢字を当てはめたことにより、日本のきわめて広い自然
崇拝や、多用な権威、異形(いぎょう)な動物などへの「アニミズ
ム」の信仰とどうしても調和しなかった。そのために、キリスト教
にとっても不運であったし、日本の側の様々な「神」の概念を混乱
させるという意味においても大きな錯誤であった。その証拠に、
かの有名なスペイン人イエズス会士のフランシスコ・デ・ザビエル
(1506-1552)は、日本のアニミズム信仰に屈し、キリスト教でいう
GODを日本語に訳すのを断念したのである(詳細は『国民の歴史』)。
日本のアニミズム「神」と欧米の唯一神の「神」を錯誤しているの
は、日本のマスメディアや大衆(庶民ではない)のみならず、海外
のメディアも錯誤していた。米国を代表する「ワシントン・ポスト
」紙6月4日付は、「神の国」を「divine country」と訳している。
教典もない、一神教でもない、八百万(やおよろず)の神が日本で
あるにもかかわらずに。ポスト紙の論説記者には八百万の神を和英
辞典で先ず引いてみることをお薦めしたい。
 では、「神」を英訳する場合はというと、一神教では大文字で
「God」、divineはGodの形容詞である。多神教の日本では小文字で
「god」(女神はgoddess)とするか、kami、higher being、higher
 powerなどを使って表現する。deityは、godの意のやや古風な語で
、「神性をもつもの」の意でも用いる(ニューアンカー和英辞典・
学習研究社)。

 天皇は「半神半人」

 日本の多神教の「神」というのは、欧米の一神教の「神」とは異
なる存在である。
そして、その文化的多神教の統合主が日本では天皇となるのである。
しかし、天皇は一神教の神のように、天皇自身が神なのではなく、
「地」の神々を「天」と結ぶ役割を担う掛け橋、つまり「祭祀王」
(さいしおう)と位置付けるのが適切である。そのような意味から
、天皇は「半神半人」である。超越性としての「天」に結ばれてい
る部分と、世俗の「地」に結ばれている部分があるということ。
だから、天皇を「神」として崇めるのも(右翼)、天皇を象徴(お
飾り)にすぎないと「地」に貶めるのも(左翼)日本人としては非
国民である。
国民とは、現在生きている日本人のみを指すのではない。皇紀2660年
(神話を含む)の世界一長期の悠久の歴史を保持しつづけている皇室
を、よき伝統として精神の活力・糧とすることが国民であり、それ
に基く思想を「輿論」という。国民の概念には、今まで生きてきた
日本人全てが含まれているのだ。言ってみれば、国民とは「死者」
を含む。それゆえ、憲法第一章 皇室 第一条に掲げられている文
言「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、こ
の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の中の「国民」と
は、そう言う意味である。しかし、「無自覚」な毎日新聞は、昭和
天皇が崩御された時、投書欄を利用して、「憲法第一条には、天皇
は日本国民の総意に基く、とあるのだから、今こそ国民投票をして
皇室の是非を問うべきだ。」ということを掲載した。こう言うこと
をいう日本人は、悪党でなければ阿呆である。こう言う人間は、
日本国民とは言えない。日本人民である。人民とは地球市民のこと
かな。つまり、国籍を持てず、太平洋上を浮遊するしかないという
意味である。だから、北朝鮮や支那(シナ)が国名に「人民」と記
しているのは納得できる(皮肉)。両国の現政府には、かの国の歴
史と伝統を継ぐ意志がないのだから。いずれにせよ、お飾りにすぎ
ないと考えるならば、そんな存在を第一条に添えている現憲法を直
ちに廃棄して頂きたい。

 ロゴスはロゴス 

 ここまで見てきたように、日本語の「神」という語意には錯誤が
甚だ生じている。
なぜ、このようなことが生じているのだろうか。それは、言葉(ロ
ゴス・logosギリシャ語)は論理(ロゴス)であり、言葉は、つまり
言語はその国特有のものということが認識されていないからである。
正しい言葉、論理的な言葉が乱れているからである。日本人はたま
たま日本語を話しているのではなく、日本語は古来からの、皇紀2660年
の歴史を持つ日本文化と表裏一体なのである。言葉を発するという
ことは、その国固有の文化・歴史を語っていることになるというこ
とに、無知と不勉強なマスコミ人士及び大衆人はそろそろ気づいて
はいかがなものか。

 【参考文献】
・『日本は「神の国」ではないのですか』加地伸行編著 小学館文
   庫2000年8月
・『国民の歴史』(17章GODを「神」と訳した間違い)西尾幹二著 
   扶桑社1999年10月
・「『鎮守の森』は泣いている」山折哲雄 論文 月刊誌「中央公
   論」7月号
・「山折論文に反対する」新田均(にった・ひとし) 論文 月刊
  誌「諸君」9月号
・反論 山折哲雄 「中央公論」10月号
・再反論 新田均 「諸君」11月号
・産経新聞  
図越

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