341−2.読者の声



330−3.得丸さんの「懺悔で良心のうずきは消 えるのか」に対
して:
本当のクリスチャンはよく分かりませんが、偽クリスチャンの懺悔
はよくあると思う。
だって、日曜日に(もしくは土曜日)懺悔に行って、月曜日にはカ
ージャックをしたとか、犯罪の予定立てている人いましたからね。
人によっては懺悔すりゃ、自分の気持ちはすっきりするみたいだし。
アメリカでは教会行ってる=いい人って感じ。ドラッグやって、
レイプして女殴って教会に行けばチャラ。俺教会行ってるし。あと
よくわかんないのが、平日に教会に行って人生を勉強している人達。
聖書から人生学ぶんだって。現実から学べと思うが。
T.S
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yochanです。327−1.わずらわしさの考察の
y_daikaiさんのコメントに対して -----------------------------
僕等が育ってきた環境を振りかえると・・・戦後、遅れを取り戻そ
うと必死になって復興に尽力してきた全ての政党や全国の自治体、
産業経済界etc.に生きる親のもと産まれたのが僕等の世代なん
ですよね。
そうした親の教育により現場そのものが現代社会をこう変えたので
はないでしょうか?
昭和40年前半産まれ頃までは先生に殴られる事など日常茶飯事で
した。いつの間にか「人権」という言葉だけが一人歩きして一部の
PTAや教育の現場で間違った解釈がされてきたのではないでしょ
うか?
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先日、地元の中学校の「朝の挨拶運動」に出かけてきました。これ
は校長の教育方針のひとつと思って下さい。毎朝当番の父兄が、校
門のところに数人立ち、登校してくる生徒達に「おはよう」と挨拶
をかけるものです。その日はわたしの他に3名のおかあさん達が参
加されました。

その時の印象はというと、様々な生徒達がいるもんだと感心しまし
た。田舎の学校なので、明らかに化粧している子はいませんでした
が、薄い化粧をしているとおぼしき子供たちは何人かいました。ま
た制服の着方にしても、この日が今秋の最低気温というのに、前ボ
タンを開け放ち、下着をつけていない胸元をさらけ出した3年生とか
ともあれ全体としては、それほどびっくりするような生徒はいませ
んでした。現代はこんなものか、という程度でした。

外見的な印象とは違って、気になったのは挨拶をしようという意志
のない生徒達の多さです。彼らにとっては毎朝父兄から挨拶の声を
かけられ、さぞかし迷惑しているのでしょうが、視線を私たちと合
さない様に、ずっとこちらを無視したまま通り過ぎる生徒が、男女
を問わず多いことでした。

立ち会った父兄の中からは、しつけが出来ていないとの声が聞かれ
ましたが、わたしはむしろ、しつけが出来ていない現実を直接父兄
に見てもらうことにも、校長の意図があるように思いました。しつ
けの基本は家庭であることに議論の余地はないと思います。われわ
れより後から挨拶に立ち会った校長が、挨拶は学校でいくら言って
も限界があるんですよね、とこぼしておりました。

またある時、知人とこんな話をしたことがあります。近所の子供達
が大人に挨拶をするのは、大人である親が挨拶をしている姿を見て、
自分の接している世界(人間関係の)の広さを認識するのではない
かと。つまり親が誰それと無くあいさつをする人ならば、例えば団
地内を散歩しているときに出会った面識の無い方に軽い会釈が出来
る人ならば、それを見て育った子供は、やはり同様の挨拶が出来る
だろうと思います。挨拶は自分と相手の距離を認識していることの
証としての行動だと思っているのです。子供にとって親が挨拶を交
わしている人々は、自分の世界の内に意識されているはずです。や
はり親が親なら、子も子という図式になってしまいそうです。

とすれば、「わずらわしい」と単に思っているだけではなく、その
根底には、自分との距離感としてかなり遠い、ほとんど無視しても
いいくらい遠いという感覚があるのではないでしょうか。

以上
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(Fのコメント)
挨拶できない人が、会社でも多くなっているようです。日本全体で
挨拶運動をする必要が出てきているように思いますね。
それだけ、人と人の接触しなくなって、自分の殻から出てこない人
が増えているように感じる。

 人間同士の会話も、しなくなってきている。このため、会話で
仕事を与えるのではなく、指示しないと動かない人も出てきている
のです。だんだん、会話ができないおかしい人間が社会に出てきて
いるように感じるが。

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