340−1.Der Angriffの遺言



(Fより)
私がいつもみていた「Der Angriff」が終焉した。このサイトは、
公安警察の内情を暴露したり、MI5の組織を暴露したり、いろい
ろな裏の世界を公表していた。
このサイトの最後で河上イチローさんが、物の見方を披露している
ので採録したいとおもいます。著作権の放棄をされているので、
採録は可能だと判断しました。
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(河上イチロー)
私が言ってきたことは、まあバカの一つ覚えだから皆さんよくわか
りますよね。

●取材もしないで書き飛ばす記事は意味がない。また、そういう記
事を書く記者は記者の名に値しない。取材なく、一方の主張のみを
垂れ流すのは、記者ではなく煽動者である。

●ある文章を評価する際、「誰が書いたか」ではなく、「何が書い
てあるか」によって純粋に判断すべきである。そうしない人は、
真実よりも肩書きや知名度が重要と考える人であり、自分の妄想に
ふけっているだけである。

●言論には言論をもって対せよ。不都合な言辞を正当な反駁ではな
く、他の手段をもってしか攻撃できない人――たとえば口封じ、
逮捕、ピントのずれた宣伝、デマ等によってつぶそうとする人――
は、要するに、正々堂々と反論できないのであると見なすべきであ
る。

●思索と言論には100%の自由が認められてしかるべきである。不都
合な思索があれば、それを思索と言論によって否定すればいい。
すなわち、正面切っての議論こそが真実に到達するために不可欠な
要素である。

●セット思考をやめよう。セット思考とは、本来、厳密に考えれば
何の関係もないことがらを、習慣と思いこみと思考停止によって、
安易に結びつけるものである。たとえば、「人権」を強調すると
「アカ」、「アカ」は「非武装中立を主張する」、といったマニュ
アル通りの思考法だ。ステレオタイプといってもいい。そのような
思考は、真実を見いだし得ない。セット思考を外れるところから
真実が見つかる。

基本はこんなところですか。

本当はもう少し書き足してから消える予定だったのだが、まあヒン
トくらいは残しておかないと不義理だね。そう、最近の「書きだめ
」シリーズ。

多数決は多数派横暴=衆愚になりやすい。しかし、だからといって
少数者に任せるわけにもいかない。では、どうすべきか。多数派は
少数派の、少数派は多数派の存在や考え方をお互いに認め合うとい
う前提のもと、両者の議論を続けるしかない。多数派が少数派を排
斥したり、少数派が多数派を恨んだりするのではどうしようもない
ことだ。

外国人が入り込んできたくらいで崩壊するような「よき日本」であ
れば意味がない。異質なものを異質なまま包含して、それでも独自
性を保てるという包容力が必要だ。と言ったら以前、Vladさんに「
それでは無限の包摂、八紘一宇しかなくなるではないか」と反論さ
れた。領土を広げる必要はないが、近隣諸国民が「やっぱ日本って
すげーよなー。憧れるよなー」という国になるよう個々が努力する
こと、それが真の愛国ではないだろうか。

そこで愛国の定義の押しつけがあってはならない。自分の基準に合
わない人間を反日だの売国奴だの帝国主義者だのファシストだの何
だのと誹謗し合っているようでは、尊敬されるはずもないだろう。

私は民主主義そのものを否定したのではない。多数派独裁、衆愚制
によるニセ民主主義は滅べ、と言ったのだ。民主主義なら何でもい
いというのではカルトだし、逆に君主制でなければならないという
のもカルトである。

以上、要旨であった。また誰かがきちんとまとめてくれるかな。
というわけで、さよならです。私は消えます。皆さん、どうもあり
がとうございました。
新・Der Angriffは、すべてのネットワーカーの共有財産となりまし
た。それぞれに育ててみてくださいね。
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(Fのコメント)
少し、耳の痛い所もありますが、日本を愛する国にするという気持
ちは、一緒であると感じます。
新・Der Angriff:http://i.am/goebbels/

そして、中国現実的ニュースコラムも終焉する。このサイトは、
国際戦略コラムとは違う見解を述べていたが、参考にしていたサイト
です。さびしいかぎりですね。
http://www.ne.jp/asahi/jtk/newscolumn/

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