337−3.「免罪符としての民主主義」



Fさんへ

 御無沙汰しております。佐伯です。
 以前、日本形成における我々の認識するおおよそにつき、古代史
を通し疑惑の目を投稿させていただいた者です。

 私は前回までに、「日本」という枠組みの形成過程と意味を捉え
なおすことにより、ある種の選民意識に似た感情の大量発生を未然
に防ぐことが急務であることを発言させていただきました。

 日本が特別で特殊な国であるからこの国の民であることを誇りに
思うのではなく、自分を育ててくれた親、その他親族、友、恋人、
川の音、風の匂い、臭い排気ガス、アスファルトの堅さ、袂を広げ
た山々、コンビニのお姉さん、神経質な目の先生、生まれた町、育
った環境、生きてきた国、しかりつける地球・・・・
こういったものが存在してはじめて今の私が存在していることに、
私は誇りをもっています。
 親に、町に、国に、世界に、地球に、宇宙に、そしてその総合体
である自分自身に私は誇りをもっています。
 親を愛する地平において故郷を愛し、国を愛し、世界を愛し、自分
を愛しています。

 誇りと言うものは概して相対的なものに陥りやすいものです。
特に国と言う単位で誇りを持たれる方の多くにこの傾向が顕著に認
められます。
「日本の奥ゆかしさ」・・・どこと比較して?
「日本語の豊かさ」・・・・どこと比較して?などなど
つまり他と比較しその面における優位さを言及することがいかにも
価値があるかのような、いや価値そのものとして受け取られている。
このような不毛なディスクールのなんと氾濫している世の中なんで
しょう。
 他にも、
○年配の方が使う、若者に対する言説。
  姿、言葉、思想、生活、礼儀・・・そういったものが
  「我々の時代はもっとよかった、すばらしかった
  元気だった、うつくしかった」と言った言説。

○フェミニスト達の言説
 「女性は差別されている、差別されているのだ」

○知識人及び多くの有権者の政治家に対する言説
 「政治が悪い、政治が腐っている、政治が・・・・」

○その他もろもろ
 「・・・は・・・されている、・・・だった、・・・がわるい」

結果の連呼に何のいみがあるのか。他人よがりな責任感の欠如した
言論が何故こんなにも叫びつづけられるのだろう。
他を下げるという方法論のみが己を浮かびがらせる唯一の手段とは!
なんと嘆かわしい。

 こういったことを踏まえ今回は
<<免罪符としての民主主義>>と題して発言させていただきます。
 さて、早速本題にはいります。

 昨今、私の鼻腔をくすぐり続けるきな臭い事柄がいくつかありま
して、そのうちの一つが前回までに述べさせていただいた「選民思
想の芽」であります。
 今回は下記について述べさせていただきます。
〜何者をも産み出さぬ議論
            ・・・・・・・・結果を叫び合うことに終止する罪〜

 EX:「女性は差別されている」
    「若者言葉が乱れている」
    「教育が崩壊している」
    「国民が無視されている」・・・など

 私達は何故こんなにも結果に対しこんなにもしゃべり、語り叫び
、感じ、考えているのだろう。
上記が共有している思想をあげるならば「何者かによって我々に関
わることが決定されている」となりましょう。もっと端的にいえば
「・・・・・・・・されている」
といったものになります。
 これはある権力論で展開されたシステム、本コラムにおいても多
く登場する、かの「マルクスの権力論」がいきづく地平において表
明される言説です。
 では、この権力のピラミッド構造はどこにいきづいているのでし
ょう。

 今現在、社会を構成しているところの権力構造はといいますと
領主と領民の関係をあらわすマルクスの権力論では説明できない
構造です。90年代前半まではミッシェル・フーコーの権力論が
権力の構造を的確にあらわしていたとおもいます。権力は上から
下へのマルクスピラミッド構造ではなく、我々の言説のなかに
存在する、つまりネット構造をしていると、フーコーは言っていた
かとおもいます。
 そしてまもなく21世紀をむかえようする今、どういった権力論
が社会を述べることが可能なのか、私にはわかりません。
 少なくともマルクスのピラミッド構造ではないはずです。
 しかし、実際に流通している言説はこの権力のピラミッド構造に
いきづいたのもです。
 では、この権力のピラミッド構造はどこにいきづいているのでし
ょう。

 それは私達の意識化に構築されているのだと私は考えるのです。

 「マルクス」→「ウェーバー」→「フーコー」と社会はその構造
を変化させているのにもかかわらず、意識はあいかわらずマルクス
でありづけている、これはいったい何を示しているのでしょう。
 ベルリンの壁を崩したのはマルクス権力論における権力者では
ない。フーコー権力論における権力者、つまり我々一人一人のこと
です。
 我々の思いは個々にはちっぽけかもしれないが、しかし壁を破る
ことができたのです。そういった力を我々は今この手ににぎってい
るのです。にもかかわらず、意識化にマルクスピラミッドを形成し
ている我々とはいったいなんなんでしょう。

 誤解を恐れず一言で私は言い放つことができます。それは「楽」
です。そうです、楽なんです。そうであること、つまり自分達で自
分達のおかしい、間違っていると感じることが上から決定されたこ
とで我々は抑圧されているのだ、すべての望まれない結果は我々の
望みではなく上の望みだと、そう思うことによってそれらの望まれ
ない結果は我々の責任ではないと自分を正当化でき、更にはその望
まれない結果を叫ぶことによって、それがいかにも価値があるよう
なこととして存在している。
実際テレビで執筆業でそう言ったこと生業としている方も多く見う
けられ、価値があるどころか経済的にも成り立っているのです。
 
 ここで一言注釈をいれておきたいのですが、私は結果が間違っ
ていると言っているのではないのです。こんなにも結果が叫ばれ
いることがいったいどういうことなんだろうか、そういっているの
です。ここはくれぐれも誤解の無いようにお願いします。

 ところで我々には叫ぶしか自由が許されていないのでしょうか。
そんなことはありませんね。我々は他人の自由を奪わない程度に
多くの自由があります。よって、結果に積極的に関わる自由もある
はずなのです。
 しかし実際のところ多くの人は敢えて自分を不自由な囚われ人
に自ら追い込んでいます。我々は抑圧されていると、そう思うこと
によって、そう語ることによって。
 
 私達は今様々な問題を抱えており、私達は抱えていることを知って
います。だが、問題を解決しようと動く人間はホンノ極わずかな人々
です。そのうちの一つであり主要な部分を占めるのが政治家です。
 人は言います。「我々は政治に参加していないわけではない。
選挙で政治家を選び、そして選ばれた政治家が問題解決に動いている。
つまり、我々は政治に参加している。それが民主主義だ」と。

 私達はもう知っているはずです。代表による政治、多数決の政治で
は必ずしも民意の反映が出来るわけではない、逆に民主主義のシステ
ムに特化した一部の意見が大々的にまかり通る、そんなシステムが
民主主義なのです。代表に責任をおしつけ自らは被害者となり改革者
となって声高に結果を叫ぶのです。
 
 もう、物事の善悪をナントカ主義に照らし合わせて考える方法は終
わりにすべきでは無いでしょうか。何かと言うと「民主主義ではこう
である」と印籠のごときだされて、へへーと頭を下げても全く意味の
無いことでしょう。

 私は次のシステムとしてこういったもの提案します。

「日本総政治家システム」

 これは前に投稿したときにもチラッと言いましたが、どういうもの
かといいますとその名のとおり、国民全員が政治家となるのです。
選挙権のかわりに参政権が権利としてもしくは義務としてすべての
国民に与えられる。例えばどこかの国の兵役よろしく何歳から何歳
までは政治家にならなければならないとしてもよいかもしれません。
 このシステムでは一つのものを決めるとき、または問題提起を
するとき常にその当事者がことにあたるのです、代表者ではなく。
こうなると連日連夜会議会議で私達は大忙しでしょう。なかなか
ものごとも決まらないでしょう、時間もかかるでしょう。
その他問題は山済みです。

 またシステムの頭に日本とつけましたがそれぞれの会議には
「日本国民」だけが出席できるのではなく、世界中の人々60億人
も参加できるのものにするのです。
 これは、日本という「国家」をその民である「国民」が運営する
国境に確定された領域を、世界中の人々が発言できる「場」として
「国家」を位置付けようとするもので、これにより国や国境、民族
、人種、宗教・・・・そういったものの定義を「ずらす」ことによ
り、新たな未来を、私達の暮らすこの地より世界中に発信すること
ができるのではないか、そう考えています。

 もちろんこれは問題だらけです。いや正確には問題しかない唯の
絵空事なのでしょう。
今このシステムが実現できるとし、そして実行されるならばこの世
から「日本」という国は消滅することでしょう。
 中国の一部になるのか、アメリカの一部になるのか、それとも幸
いにも先述のごとく世界中の人々に運営される「国家」になるのか、
どちらにしろ我々のいだいている「国家観」に裏付けられた「日本
国」はそこには無いのです。

 しかし私は思うのです。それでも私は日本を愛していることで
しょう。今の国境に確定された「日本国」という領域ではなく、
私を私たらしめた日本を、世界を。
以上
最後に
竜頭蛇尾な発言で申し訳ありません。
発言したいことは山ほどあるのですが、私の結論をここで、述べる
前にいろいろな意見をお聞きしたく思います。

宜しくお願い致します。
==============================
(Fのコメント)
 面白いですね。賛成の部分と、反対の部分があります。
賛成の部分と反対の部分は繋がっていて、日本国がなく、世界の人
間の政治の場で議論するというのは、面白いと思う。しかし、議論
には、使う言語を規定する必要がありますよね。世界の100ケ国
語を利用して議論はできないのですから、文化的拘束が必要ですよ
ね。日本人がこの議論の場の主体とするなら、その言語は日本語と
せざるを得ないですね。

ということは、日本に居る日本人と世界に拡散している日本人を対
象とした政治の場になるはずです。勿論、日本に留学した欧米人や
アジア人の一部の人も議論に参加できますが、ほとんどは、日本語
のできる日本人になるのです。よって、世界の60億人が政治の場
を一同に、集うというのは今の所ムリがあるでしょう。勿論、翻訳
システムができれば、この限りではないですが。

マルクス的権力からネットワーク的な権力になるというのは、賛成
です。日本のリーダは、全体の意思を代表している人で、欧米的な
リーダを日本人は求めていないのですから、どうしても全体の多数
決か、有力な意見になることが多い。これは、全体のネットワーク
の調整結果になるのです。

新聞等のマスコミは、読者の反権力傾向に依存した記事を書いてい
る。これは、困ったことである。日本の大きな利益を阻害している
時が往々にしてあるためです。

特に弱者を仕立て上げ、その人の人権を守るために戦うという姿は
おかしい。外国人参政権などですね。


コラム目次に戻る
トップページに戻る