327−1.環境問題への取り組み



柳太郎さん説「再利用よりも再使用の方が環境にはやさしいとした
ら、例えばドイツのようにペットボトルを禁止してビンに置き換え
る必要があるでしょうし、缶ジュースの類や、コンビニ弁当といっ
たものも規制の対象にすることになると思います。
これは、消費活動においてはマイナス要因になるでしょうし、便利
さに慣れた国民の同意を得られるかも疑問。」

ken→→ 数年まえ、フィリピンで衣料品をつくっていたとき、ドイ
ツのカウホッフ(日本でいえばダイエー?)からの注文には200
頁ほどの本になった包装指図書が付いて来ていた。その本はドイツ
を代表する数十会社の共同申合わせの形式になっていて、ことこま
かに、いかにして余分の包装を省くかが、具体的に指示されていた。

 例をあげると、「店頭に出せるよう一度包装された商品は、絶対
に二度の重複包装をするな」となっていて、その具体例が図で説明
してある。 普通アメリカ百貨店向けなどでは、ボクの商品は一つ
一つをポリ袋に入れ、それを半ダース毎にバンドルし、一ダースを
紙箱に入れ、さらにその6つの紙箱を大きなカートンケースに入れ
て、それを船積コンテナーに詰込む。ところがドイツの共同指図書
によれば、一つ一つポリ袋に入れたのを2ダースごとに2ダース用
カートンケースに入れただけで、そのまま船積コンテナーに積めこ
む。つまり、半ダースごとのバンドルは不要、途中の紙箱も1段階
不用、ということになる。 

小売店では、コンテナーから取出した2ダース箱の商品をそのまま
バラして店頭に並べるだけで、開梱の手間も省け、無駄な空箱も最
小限にとどめられる。 「商品にブラ提げた要らざる説明フダなど
もなるべく省け」との厳命で、アメリカのペニーや、Kマートなど
の過重包装、過重装飾とはうってかわった簡易なもので、われわれ
の製造コストもだいぶ安くついた。包装指図書は立派に製本されて
いたが、最初のページにはこの申合せに参加したドイツの大会社の
名が列挙されていて、他の客先向け商品にも適用できた。

この包装マニュアルブックは、そのまま翻訳して日本の国内市場向
けにも準用すればいいと考えた。どうせ誰かが先に翻訳出版してい
るだろうと思いつつ今日に至ったが、いままでのところボクの目に
はとまっていない。
(どなたか、このドイツの原本または翻訳本をお持ちの方はありま
せんか?あれば、お貸し願いたいのですが・・)
その間、デパートなどの過重包装自粛の話はチョイチョイ耳にする
が、現実はますます重包装の傾向が強くなり、「袋は要りません」
と、百貨店スーパーでそのつど言っている拙宅ですらポリ袋や手提
げ紙袋が余りかえって困っている。特に百貨店では、生協スーパー
に対抗するには過重包装しかないと思っているフシがある。 ペッ
トボトルを壜に置き換えるのもいいが、その前に、使い捨てポリ袋
の代りに風呂敷を使うような行政指導の徹底を政府に願いたい。
こんな行政指導なら少々きびしくても誰も文句の言ようがないだろ
う。

柳太郎さん説 「さらには、先進諸国は環境を自国の都合のいいよ
うに破壊して発展してきたという歴史があります。例えば、ロンド
ンでは建物が多く立ち並び住宅も密集し、中心地ではハイド・パー
クやリージェント・パークなどの人工の巨大な公園がありますが、
昔はロンドン一帯全てが森だったのです。ロンドンは森が破壊され
て出来上がった都市なのです。これはもちろん、ロンドンに限った
ことではないでしょう。 実際問題として、「環境破壊なしの開発」
は先ず無理でしょう。」

ken→→ロンドンだけでなく、昨秋ボクが一ヶ月滞在したニューカッ
スル・ノーザンバーランド附近一帯も、いまは緑のゴルフ場にも似
た田園風景だけど、昔は総て森林だったらしい。いつその樹が切ら
れたかについては2説あり、一つはローマ自慢の2段式ガレー船が
ここの樹で造られたともいい、1300−1500年大航海時代の大型船建
造に使われたともいって、定かではないようだ。 しかしまぁ奇麗
なものだ、あの芝生のごとき大平原は。

 あれなら少々環境破壊しても、見ため美しく、生態系の破壊とい
ってもあまり極端な害はなかったようだ。いちがいに「環境破壊だ」
と、目くじら立てなくてもいいのではなかろうか。 それより現実
に大変なのは、わが農村のスプロール式環境破壊。 秋祭りに故郷
へ帰り、いやいやながらまたしても見るワガ故里の荒れ姿には恐れ
入る。JRは遥か彼方、バス停まででも20分かかるというボクの生
地はその殆どが農地調整法の田圃ばかりだった。ここ30年間に、
それがなぜかスプロール状にパチンコ屋、飲み屋、スーパー大型店
舗が休耕田の透き間に乱立し、村の人々は「発展した」というが、
退歩以外のなにものでもない。それでもボクの兄の家は、周囲が
田圃ばかりの中にポッんと立っていて、眺めも少しはましな方であ
る。ところが兄がぼやく、「まだ町役場から何も言ってこないが、
フトした機会に役場の、ワガ住む附近の建設予定図を見たところ、
南に隣接したワガ家の田圃は池になり、その向こう側に国道、50m
先に4叉路のゴーストップ信号がつくらしい。家の西側の田圃は潰
されて公園になり、まさに滄桑の変である。私ももう余命幾ばくも
なく、あえて反対運動するほどの気力はないが、誰がこんな計画を
立てたのかさっぱり分らぬ」。村の区長も務めたことのある兄にと
って、この計画は寝耳に水だったらしい。しかし、ボクは故郷を離
れて50年、スプール状に侵食され、村とも街ともつかぬdirtyな故里
よりは、英国カントリーサイドに似たゴルフ場式風景になる方が嬉
しい。開発かどうかは語のコンセプトによってどうにでもなるし、
環境破壊についてナチュラリストたちがどうおっしゃるか知らぬが
、柳太郎氏のおっしゃる通り「環境破壊なしの開発は無理」と考え
て、ボクは町の土地計画に賛成したい。だがしかし、そこに先祖か
ら住んでいる村の主だったものも知らぬ間に、だれがこうした開発
の、最初のマスタープランを立てるのだろう。その行政システムこ
そ問題ではなかろうか。


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