322−1.ゲームについて



  no.288-1ゲームについて へのコメント
>
> 文化としてのゲームという言葉にも抵抗があるほか、現実と仮想現
> 実の峻別という重要な問題をはらんでいるので、司馬さんへという
> より、ゲーム愛好者の皆様への質問という形で提示し、みなさんと
> いっしょに考えてみたいと思います。
>
> 話を具体的にするために、司馬さん(あるいは賛同者の方々)にお
> 願いしたいのは、
>
> 1 ゲームの良い面を具体的に説明していただけますか。
>
> 2 それによって何が自分自身の中に残ったか、何が意識の上に構
>   築されたか。説明していただけますか。
>
> 3 それは生身の人間に対して有効に機能しますか。具体的に現実
>   を変えましたか。どのような場面で有効でしたか。
> 得丸


このような質問をなされたので私の考えを語ってみたいと思います。
得丸さんは小説や詩を読んだことがあるでしょうか?有るのなら、
それを読んで感動したこともあるかと思います。もちろん私も有り
ます。
で、何が言いたいかというとゲームも小説も詩も本質は同じだとい
うことです。
メディアの違いであるに過ぎないと私は思います。
得丸さんは恐らくゲームをやり込んだことなど無いと思いますが、
ぜひ一度やってみて下さい。
やってもいない(または少ししかやっていない?)のに、ゲームが
どうだかと批評するのは浅はかではないでしょうか?
自分の詳しくない分野についてまで意見を述べるのは感心できません。

私が研究している中国文学でもよく見かける現象ですが、当時の所
謂俗文学(たとえば宋の詞、元の散曲、劇曲、明清の小説など)
当時学者の間から低俗であると馬鹿にされたものですが、後の世か
ら文学史の殿堂に加えられることになりました。
それとおなじでゲーム(漫画)もおなじで、いまでは通俗で低俗で
あると言われるかもしれないが、将来、一つの時代の文化の代表と
扱われる日が来ると私は思っています。もちろん低俗なゲームが氾
濫しているのも否定できません、しかしそれは小説や学術的論述に
も見られる者で、ゲームだけがそうであるとは思えません。
もちろんゲームがそんなに高い評価が得られるかという証拠を出せ
等と言われても無いのでそういう面からでしか議論が出来ない方に
は納得行かれないかと思いますが、私はゲームだから軽蔑するよう
な事は致しません。
手塚治先生の漫画などを読む方がくだらない学者の論文や時事評論
を読むよりずっと心に響くかと思います。
(司馬遼太郎先生の小説同じくらい素晴らしいと思っています。)
もちろん響かない人もたくさん居ると思いますが、そのような人が
世の中をつまらなくしていると思います。
ゲームに関しても同じであって、素直にその良さを理解できない(
または頭から否定する人)は所謂童心を失ってしまった人ではない
でしょうか、ただ弁才があって、もっともらしいことを言ってもだ
からなんだと私は言いたいと思います。
それで本当にそのような人に心から納得する人は幾ら居るのでしょ
うか?
このコラムでは素晴らしい意見を拝聴することが出来ますが、少し
おかしいと思われる意見も見かけることがあるので、少しここで意
見をもうしてみました。
わたしはあまり理性的な議論は苦手であるので、脈略がないことを
たくさん述べたかもしれないですが、みな肺腑の言であることは断
言できます。
何事も頭ごなしに否定することが今の大人と子供の間の溝を形成す
る一因になって思うのは私だけでしょうか。

司馬
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はじめまして。鳥海と申します。
いつも大変興味深く読ませて頂いています。

1、ゲームの良い面を具体的に説明していただけますか。

私にとっては、良く批判されがちなゲーム・アニメ・漫画と言った
ものは、小説や映画と同じ物を意味します。それはどちらも、「物
語」だと言うことです。
ゲームだから、漫画だから悪いのではなく、それを創った人間が伝
えたいメッセージがあるかないかで、くだらないものか、素晴らし
いものか違ってくると思います。
ゲームは現実世界ではなかなか体験できず理解できないことを、現実
とは程遠いとはいえ、疑似体験することが出来ると思います。
ただし、感受性が鋭いことは前提条件として必要だと思います。
私は常に、素晴らしい「人間の生き様」を語った物語を探して、
小説を読み、映画を見るのと同じように、ゲームをしています。

2、それによって何が自分自身の中に残ったか、
  何が意識の上に構築されたか。説明していただけますか。

昔の自分は引っ込み思案で、自分から何かやろうとすることはほと
んどありませんでした。
それだけに、自分が出来ないこと(リーダーシップを取る、夢や目
標を語る、たくさんの人や世界を救う。)が疑似体験できるゲーム
に熱中しました。
ゲームによっては、人間は全ての人と仲良くしたいと思っている、
しかし現実の世界の過酷さは、それを許さない。
またそれだけではなく、人の心の中の憎しみや妬み、そういったも
のもそれを許さない。
私はゲームにいろんな事を教えてもらったと思います。
(もちろんゲームだけにではありませんが、決してくだらないもの
ではなく、敬意を示すべきものです。)。

3、それは生身の人間に対して有効に機能しますか。
  具体的に現実を変えましたか。どのような場面で有効でしたか。

そのうち私は、自分自身がゲームの主人公のようになりたい、と思
うようになりました。
あのように、生き生きとカッコ良く、誰かのために自分を磨き、
勇気を持って困難にたいして踏み出せる人間になりたいと思いました。

そして大学時代アルペンスキーのクラブに所属した時、私はゲーム
を通して培った情熱(もちろんゲームだけではありません。)によ
って、クラブのナンバー2にまでなりました。
そしてみんなで挑んだ大会の予選会の時、ナンバー1の仲間が転んで
しまいました。
途端にチームの危機です。
私のクラブは今まで、毎年確実に本選に出場しており、予選会で予選
落ちした事はありません。
自分が次の400人参加する試合で、優勝するぐらいの成績を出さなけ
れば、確実に予選落ちです。

ものすごいプレッシャーで、前の晩は一睡も出来ませんでした。
スタートでも誰とも話さず、プレッシャーと戦っていました。
しかしそのうち吹っ切れました。
自分は今、あれだけ憧れていたゲームの物語の主人公になっているん
だ、と言うことに気づいたからです。いつの間にか、興奮していまし
た。まさか、自分がこんな場所に立てるとは、昔の自分からは考え
られなかったからです。
それもコンティニューや、リセットの聞かない一回きりの勝負。
結果がどうなるかはわからない。でも結果なんて、そんなことはど
うでも良かった。
ゲームの主人公たちと同じように、自分の全身全霊をかけて、勝負
をすることだけしか頭にはありませんでした。
現実を厳しく見つめ、浮かれない冷静さと、自分自身が物語を創っ
ているんだという喜びや情熱が、バランス良く入り交じった心理状
態でスタートを切りました。

途中1ヵ所周りからは、かなり危ない場面もあったのですが、自分は
そこを以前にはなかったような冷静さで対処し、ミスを最小限に押
さえてゴールしました。0.2秒差でした。見事に優勝です。
不思議なことに、その瞬間「やったー!」と言うより、本当にホッ
としてしまいました。
けれども驚いたことに、周りのみんなは、まるで自分が優勝したか
のように、喜んでくれました。
自分が優勝したことよりも、周りのみんなが自分の勝利を喜んでく
れた、そのことの方にこそ、私は爆発するような感動を覚えました。
それは、自分が初めて周りの人達を救うことが出来た瞬間でした。

その時、人間は周りのみんなによって初めて、本当の喜びを得られ
ること。
誰もが、こんな瞬間を求めて生きているんじゃないかと思ったこと。
これも、ゲームを初めとして、映画・小説・アニメ・漫画と言った
ものを通して、いろんな人間の物語を疑似体験が出来た事から来て
いると思います。
確かに無駄に時間つぶしにしかならないゲームや、どんな素晴らし
いものでも、その素晴らしさに気づかない人もいると思います。
けれども、ゲームには素晴らしい「物語」が、ゲームをやる人には
、それを感じられる素直な「感受性」があれば、決してくだらない
ものにはならないと思います。

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