317−3.立山止観の会報告



得丸です。
ちょっと長くなりますがご報告申し上げます。

10月3日夕方6時から9時すぎまで、予定通り第一回の立山止観
の会が開かれました。

参加者は7名、学而篇の1から12までを読み、意見を交わしあい
ました。

初対面の方が多かったのですが、論語のテキストをめぐって、楽し
い議論と勉強の時間が過ごせたと思います。

次回は、11月6日月曜日、午後6時から、学而13から読み進め
ます。場所は今回と同じ富山市元町にあるお蕎麦やさん「大庵」の
2階です。(今回、勉強会の前に新そばをいただいたところ、大変
おいしかった。)

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立山止観の会の名称は、松居桃婁著「微笑む禅」(潮文社)で紹介
されている天台小止観によっていることがまず紹介され、次いでレ
ジュメにもとづいて宮崎現代語訳「論語」の読書会となりました。

レジュメ(議論の部分は*)

立山止観の会 宮崎市定現代語訳 論語「学而第一」 
報告 得丸久文

前書き: 
現代語訳=わかりやすい意訳+訓読=原文の語勢によって古典を後
世に伝える論語は様々な場面で発せられた言葉を集めた対話篇、そ
こに現代思想を投影しよう
論語はわかりやすいものだと信じよう。(原著者が短い章句で足り
ると思ったのだから)

吉田松陰がいうように「論語」や「孟子」は盲目的・無批判に受容
するものではない。批判するためにもまずは自分の言葉でその内容
を丁寧に理解しよう。宮崎市定先生の訳であっても、鵜呑みにしな
いこと。

(勉強会では、岩波文庫版の金谷治訳、徳間書店版の久米旺生訳も
参考にした。とくに久米訳は、訳がこなれており、大変参考になっ
た。またレッグとペンギン版の英訳も手許においておき、必要に応
じて参考とした)

<学而第一> (数字は章句の番号、岩波現代文庫に従う)

 まずレポーターが各章句ごとに宮崎訳の訓読にもとづいて音読し
、簡単に意味を説明したのちに、レジュメにしたがって感想を述べ
た。次いで、全員で疑問点や感想を述べあい、最後に全員で音読し
て次の章句に移った。

1 「時に之を習う」を「ときどきおさらい会をする」という意味
にとるのは新しい解釈。この解釈は、他の解釈よりも意味が通る解
釈であり、かつ孔子と弟子たちの様が思い浮かぶリアルな解釈であ
る。

「学びて時に之を習う」、「朋有り遠方より来る」、「人知れずし
て憤らず」という三つの言葉は、「論語」全体を貫くエッセンス。
三つの言葉は、学ぶ=日常の喜び、朋来る=非日常の喜び、憤らず
=戒め(反日常、してはならないこと、しても無駄なこと)。中心
は「学ぶ」こと。対象は、礼節、仁、君子の道全般。
また、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」というように、生涯
かけて学び続けることが大切。

学ぶことは、対象のいかんにかかわらずそれ自体が喜び。自分が知
らなかったことに接する喜び、それをより深く知る喜び、自分自身
の行動哲学が完成されていくことの喜び、あるいは自分がそれまで
漠然と感じていたことが先人や先輩の知恵や努力によって確かめら
れた喜び、学問の世界は喜びに満ちている。

この学ぶ喜びを感じることができる者、わかち合える者が友。遠方
から来るのは、見ず知らずの人かもしれない。ともに学ぶことに無
上の喜びを感じる人が、遠路はるばる自分を訪ねてくれれば朋であ
る。(このところは久米訳がうまく訳している)

「徳は孤ならず必ず隣有り」の出会いの喜びである。だからまった
く未知の人であっても、その人の著作や業績に感ずるものがあれば
、友としての礼を尽くした方法によって相手に負担のない形で近づ
いていっても構わない。それが真心に根ざしておれば相手をも喜ば
せる結果となる。

 ずっと会わずにいても友であることには変わらない。空間も時間
も友人関係にとっては関係ない。孟子に出る「尚友」は古人を友に
する、古の賢人の書いた本の言葉を友の言葉と受け止めて付き合う
こと。

2「君子は本を務む。本立って道生ず」何よりも根本が大切。修身
に始まり、斎家、治国家と広がる。

 本とは、心(意識+無意識)といった深い部分を指すのではない
か。君子であれば、心から生まれ出るあらゆる行動や思考が礼や仁
にかなったものとなる(ように自分を修養するべきなのだ)。我々
も(無理のない形で)そこの修養に務めるべきだ。意識を自分で「
改造」する、君子、聖人へと自己を高める。

宗教の違いや民族の違いによる戦争や殺し合いの報道に接して、私
たちは理解できない。どうして人々に愛や安らぎを与える宗教の違
いを理由にして殺し合いが行われなければならないのかと。しかし
、これも表層的な宗教や民族に惑わされるのではなく、「本質」を
とらえればいい。つまり宗教は殺し合いの口実として利用されてい
る。他人を殺しても自分の冨を増やしたいと考えている人間の存在
が本であり、問題なのだ。そして、自分の犯した過ちにより、今度
はうらまれねらわれる対象となり、さらなる防衛を行う必要がうま
れ、無間地獄に陥る。

したがって、我々が問題とすべきは、人間の本質をなす意識の部分
についてでなければならない。いかにして、この部分を間違いのな
いものに成形するかが、学ぶという行為の中心でなければならない
。礼が大切であり、仁が大切であるのも、そこにある。

 一瞬一瞬の行動、発言、判断が、すべからく礼にかなっており、
仁に発するものであれば、愚かしい殺戮や悲劇の螺旋構造が生まれ
る余地はない。ボーダーレス時代だからこそ、礼と仁は大切になる。

(異教徒の)植民地化、外国人排斥、民族対立などは、言葉が通じ
なかったり、宗教を異にする人間は殺してもいい、動物と同じよう
に扱っていいとする虫のいい勝手な解釈によって起きている。しか
しながら相手は同じ人間なのである。礼をもって接し、仁心を開い
てつきあえば、きっと心は通じる。

 まやかしの混じった論理に従って間違った行動を取らないように
、君子は絶対の基準を自己内部に打ちたてなければならない。本を
務むは、そこまで含むのではないか。

3  巧言令色を丁寧さや礼儀正しさから見分けられるか。巧言令色
には自分の利益になるように相手を導こうとする邪な意図あるいは
無自覚な自己防衛の意図がある。

 君子は、にっこり微笑んで、相手の立場にたって考える。相手の
苦労をいたわり、相手の立場をおもいやる言葉が自然と生まれる。
そこに不自然なへつらいはない。

4 反省の大切さ。かえりみる。自分を振り返る。自分の中は、一
分のすきもなく見通すことができる。これを日々繰り返すことによ
って、まっすぐな自分ができあがる。

 不透明な現代においても、自分の心の中のことは、100%明ら
かにすることができる。できないというのは自己欺瞞か未熟。常日
頃からどれくらい自分の心の中を省みているかにかかってくる。孟
子や吉田松陰の思想においても、「反省」はキーワード。

* ここで「自分の心の中のことは100%明らかにできるのか」
、100%というのは悟った人の場合であって、常人はそこまでい
かない、三日くらい瞑想すれば誰でも明らかになるのではないか、
などなどと議論が白熱した。

5 国を治めるための基本原則。

* 「人を愛し」を「租税を安くし」と宮崎さんが訳したことにつ
いて疑念もあがったが、文章は明らかに国家経営の話であるので、
税金を安くするという意味でいいだろうということになった。

6 基本態度 入りては孝、出ては弟。まずは身近なところで仁を実
践する。

* これは若い人への言葉である。「仁に親しみ」は徳間版では「自
分が尊敬できる人を発見すべく努力する」とある。このほうがわか
りやすい。

7 6と同じく、人道の基本ができることそのものが道を学ぶこと
であるという。「未だ学ばずというも、我は必ず学びたりと言わん
」という断定が小気味いい。

この「賢賢たるかな」のところを詩の一説とみるのも宮崎説のユニ
ークなところ。他の説では、はっきりいって意味不明。中国でも同
じように解するのだろうか。宮崎説は全世界に紹介するべきではな
いか。

渋沢栄一の論語講義では「易色、易は換えるなり、色は女色なり。
男子の女色を好む心は真誠なり。この女色を好む心に換えて賢師を
好むなり」というが、渋沢は女好きだったのか。

 ちなみに孔子は詩経を整理するにあたって、男女関係のことを歌
った詩はことごとく排除したらしく、詩経(本来民衆のこころを歌
ったものであり、相聞も当然含まれていたはず)においても、論語
においても男女関係を扱ったものはない。

8 過ちては則ち改めるにはばかることなかれ、いつでも重々しけ
ればいいというものではない。

9 最近の日本では葬式にあまり個々とが込められていない気がす
る。もっと心からいたむことができるように自分の心を純粋にする
べき?(これは後の章でも出てくる)

 宮崎さんは、一般の訳が因果関係めいた教訓として読み取ること
を否定する。

10 求むるか、与ふるか。孔子の仕事ぶり、仕事への熱情あるいは
売り込みもあった?であろう。

11 現代においては、親は子供にどのような志や行いを示すこと
ができるだろうか。職人や芸人でもないかぎり家庭で職業教育が行
われるわけでもない。

 子供は親から何を学ぶべきなのか。親は子供に何を伝えてやるこ
とができるのか。これくらい先の見えない時代だからこそ、親は子
供にどのような時代であろうと適用可能な哲学を死にものぐるいで
見つけて、子供に教えるべきではないか。論語や孟子の思想がそれ
でありうる。

12 礼というものは、そもそも本心に発するものでなければなら
ない。心からの礼であるからこそ、形式に溺れることなく、その場
その場に最も適した形をとることができるのだ。TPOに合った礼
でなければならない。それを和という。
和は静的な和ではなく、状況状況に合わせてもっともふさわしい調
和の形をとろうとする意思の力によってダイナミックでそれゆえに
安定性のある和の状態をつくりだす。

和を以って貴しとなす、は17条憲法の第一条。和はそもそもダイ
ナミックだった? 和は無理強いしたり我慢したりするときには生
れない。礼は人間社会の潤滑油であるので、礼をわきまえて和を致
せば、どのような人とでも付き合っていくことができる。大変に便
利なインターフェイスツールである。

* 宮崎訳は「和」を「妥協性」と訳す。徳間では「和の心」と訳す。
 「和をもって貴しとなす」のところは、「調和」という意味で通
るが、「和を知りて和するも」のところは、「調和」よりは「妥協」
という意味でないと通じない。ペンギンの英訳はこのところが十分
に訳されていない。

以上(2000.10.04 得丸)
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