305−2.保守と右翼の相違



NO.301−3に対して、追加。
 自他ともに認める、真正保守思想家である 西部 邁(にしべ 
すすむ)氏が、保守と右翼の違いについて記述したものを発掘しし
た。
 『サンチョ・キホーテの眼』1989年 文藝春秋 刊 P51

 引用します

「とはいえ、正義のみを過剰に求めると抑圧に堕し、勇気のみを過
剰に追うと野蛮に落ちる。右翼の間違いは、徳の過剰は不徳に転、
というラテンの諺(ことわざ)を理解していないところにある。保
守派は、平衡感覚を重んじることからして当然であるが、右翼だけ
では、左翼だけと同じように、飛行機がきりもみで墜落すること必
定とわかっている。
 つまり、ドン・キホーテのほかにサンチョ・パンサもいなければ
ならないわけだ。
サンチョが豊富な世間知に裏づけられた思慮と節度を与えてやらな
ければ、キホーテはやはりドンキーになってしまう、がんこなロバ
になってしまう。サンチョのもつ思慮と節度も立派な徳なのであっ
て、それらがあってはじめて、最後の死の床においてであったとは
いえ、騎士道が夢の次元に属するのだとキホーテは知りえたのであ
る。
 しかし、思慮のみの過剰は臆病に陥り、節度のみの過剰は凡庸に
流れる。けっきょく、正義、勇気、思慮、節度の四徳がそれぞれ最
高度に発揮されつつ、それらが互いに調整し合って平衡している状
態、それが真の徳ということなのだ。したがって、われらはいまや
決然と立って、サンチョ・キホーテ党を結成しなければならない。」

 私見

 右翼は確かに保守と同様に日本の歴史の英知である「皇室」を擁
護しているが、上記の四徳を併せ持っていない。従って、保守と右
翼は同一ではない。

図越
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18才のころ、ボクは右翼の少年だった。系統からいえば白鳥敏夫の
孫弟子で、大川周明の顔はいまも眼前ある。ときの首相の暗殺を示
唆されたが、直前になって政府監督官のY氏が中止の説得にきた。
「彼が使嗾したくせに」と、われわれは非難した。 まぎれもなく
右翼少壮官僚だったY氏は、戦後第1回の選挙に社会党から立候補し
たが落選し、後の人生を九州某市の市長として、神事には自ら祝詞
を奏上し、それは日経新聞の記事になったこともある。右翼と左翼
を兼ねた変わり身の速さは抜群だった。

当時の右翼には「観念右翼(組織右翼とも)」と「行動右翼」の二
流が存在した。観念右翼は「神と天皇」と「山桜」に恋し、短歌を
作り、安田与重郎、亀井勝一郎から三島由紀夫に至る「日本浪漫派
」文学に耽できした。自らの非力を補うために青少年を指嗾しテロ
の実行者たらしめんとする傾向が垣間見えた。生産財の私有を否定
し、ときの政府をつねになじり、惟神(かんながら)の道を奉じて
、その理論的根拠をスピノザ哲学の「汎神論」に求めた。 

行動右翼は国士・侠客をもって自ら任じ、威圧・暴力的であること
を装ったが、その行動を理論化する努力に欠けた。孫文やチャンド
ラボースなど、アジア独立の志士を援助したのは主として彼ら行動
右翼である。(豊中市の萩の寺には、若き日の蒋介石に案内された
孫文、頭山満、宮崎滔天の写真が残っている。)

5.15事件の影山正治が主宰した「不二歌道会」は「観念右翼」の一
典型。 ボクが徴兵され彼らと訣別するとき、ある右翼リーダが送
ってくれた歌は「八千種の花に先立ち散るという春の紅梅にますら
をはあり」であった。
テキヤを組織化した「国粋大衆党」総裁笹川良一(日本財団の創始
者)や、「国士」頭山満は「行動右翼」のシンボルであったといえ
よう。 いま街頭宣伝カーで騒音を撒く「右翼」たちは、こうした
「行動右翼」の末裔と称するが、次元はいささか低い。

以上、新世代の人たちの参考までに報告しておきます。
(ken)

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