300−2.靖国神社と宗教の自由



NO.294−3天皇の戦争責任と靖国神社について
> 干し柿仙人です
> 
> ドイツでは戦後国旗を変えています。
> なぜ日本は国旗を変えようとしないのでしょう。

 一般に、ある国が、国旗を変えるのは、革命が起きたとき、体制
が変わったとき、国が分裂したときなどだけでしょう。日本には、
そういうことがなかったので、国旗を変える必要がなかったのです
。その点で、同じ敗戦国であっても、ドイツとはまったく事情が異
なると思います。

 ドイツは、現在の三色旗がもともとの国旗でした。ところが、
戦前、ナチスが政権を取ると、独裁者ヒトラーはナチスの党旗を
ドイツの国旗としました。戦後は、それを元に戻しただけです。戦争
末期にヒトラーは自殺し、ナチスの一党独裁体制は崩壊しました。
1945年5月、ドイツは無条件降伏し、米ソ等による分割占領を
受けました。ところが同年9月、共産主義のソ連が突然、ベルリン
の壁をつくり、ドイツは二つの分割国家となってしまいました。
当然、国旗も別々です。西独は国旗を以前の三色旗に戻しましたが
、東独は三色旗をもとにした新たな国旗を作りました。その後、
1990年10月、社会主義に失敗した東独を、西独が合邦する形
で、ドイツの統一が実現しました。統一ドイツは、旧西独の国旗、
つまり本来の三色旗を国旗としました。つまりナチスや社会主義の
時期を除くと、ドイツの国旗は一貫しているわけです。

 ついでに、もうひとつの敗戦国であるイタリアでは、戦前、ムッ
ソリーニ率いるファシスト党が武力によって政権を奪い、一党独裁
国家を築いていました。しかし、1943年7月、ムッソリーニ政
権は崩壊。独裁者ムッソリーニは、国民の激しい憎悪を浴びて、
処刑されました。その後、イタリアは、1946年6月に国民投票
をした結果、王制を廃止し、1948年1月に共和国憲法が施行さ
れました。それによって、イタリアは王制から共和制に変わりまし
た。このような体制の変化があったので、イタリアの国旗は変わり
ました。

 こうした独伊とは異なり、日本は、戦前・戦後とも国柄が変わっ
ていません。だから国旗も一貫しています。
 日本は、明治維新によって、天皇を中心とする国民国家を築き、
国旗を定め、アジアで初めての憲法を制定し、立憲議会政治を実現
しました。大東亜戦争の敗戦後も、他国によって国が分断されると
か、共和制に変わるというような根本的な変動がありませんでした
。歴史上、敗戦国では、元首は処刑されるか自殺か亡命をするのが
普通ですが、日本では、同じ天皇が戦前・戦後と変わらずに天皇の
位にありました。世界史を見ても他に類例がありません。それは、
昭和天皇が、国民から深い尊敬と信頼を受けていたからです。戦後
の憲法にも、天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であ
ると規定されおり、大多数の国民が皇室を支持しています。
 このように、日本では、明治時代から今日まで、国の基本的なあ
り方が変わっていません。それゆえに、国旗を変える必要はなかっ
たのです。激動の世界において、わが国は約130年もの間、一貫
して「日の丸」を掲げています。それによって、国際社会に、日本
=「日の丸」というイメージが広く定着しています。私は、誇りと
してよいことだと思います。

ほそかわ<オピニオン・プラザ>
http://www.simcommunity.com/sc/jog/khosokawa
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NO.294−3靖国神社について
干し柿仙人です

なんだかわざと論点をずらされているように感じます。私が言って
いるのは、たとえば、1986年にイタリアがカソリックを国教か
ら外したように特定の宗教によらない戦没者慰霊に変えるべきだと
いうことです。それを独裁的といわれる意味は全く理解できません
。

また、ローマ法王は十時軍遠征や植民地支配にカソリックが利用さ
れたことを今年の3月にざんげしていますが、カソリックの伝統を
否定したわけではないでしょう。
私が言っているのは、政治に利用される以前の神話に戻して欲しい
ということです。

国家神道はナチスと同様、否定されなければ国際社会における日本
の位置づけはいつまでも「ずるい」国だといわれるはずだと、主張
しているだけです。

個人的な話ですが私の実家は神党です。
私自身宗教を変える可能性はありません。
矛盾しているかもしれませんが、本来の日本の神はアイヌの神のよ
うな性質のものであったはずです。

日の丸にせよ君が代にせよ靖国神社にせよ、立憲君主国である日本
にいるかぎりうけいれよといわれるなら、「国家神道の復活」も主
張されてみてはいかがでしょうか。

もう少し世界の情勢を正確にとらえていただきたいものです。
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(Fのコメント)
 国家が宗教に関与するのはよくないと考えていますから、国家神
道は大反対です。明治時代は日本の歴史からすると、異常な時代で
天皇を立てないと、欧米諸国の植民地になるという危機的状況があ
って、国家神道にしたのです。今は、明治時代のような危機とは
性質が違う。今の時期に天皇制の強化は必要がありません。
また、そのようなことをしたら、欧米・中国からの孤立を意味しま
す。それは得策ではないからです。

 国家として、靖国神社に強制的にお参りしろと、日本政府はいっ
ていない。それをあたかも言っているとして、干し柿仙人さんは言
及している。国家は宗教に関与しないが原則です。しかし、古来か
ら自然の形で、風習で行っていることは、その習慣を大事にする必
要があります。この場合は、国家はその風習に従うこともしかたが
ないのではないでしょうか??
 
特定の宗教によらない戦没者慰霊を国家行事では、気をつけている
と思います。それをどういう風に勘違いしているのですか。そこが
わからないため、干し柿仙人さんは、国家が靖国神社を廃止しろと
言っているように聞えるのです。
靖国神社の行事はすべて、民間の費用で国家ではなくやっています。
千鳥が渕には、戦没者慰霊碑もあります。これ以上、国家がどうし
ろというのか分からない。こんなに気をつけている国家は日本しか
ないですよ。一様、カトリックではないといいながら、様式等を更
新しないイタリアより、よほど気を使っています。そこまでする必
要はないと感じるぐらいです。アメリカの大統領宣誓式には、聖書
が出てきます。宗教の自由をアメリカは保障しているのにですよ。
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天皇家と神道と仏教 ken  2000/09/20 13:44 
 明治期に、天皇制が変質し、天皇の権力を増強したのです。しか
し、この時点で、日本が取れる鎮魂の方法は、神社か仏教しかない。
この時、天皇制増強のために、神社を選択したのです。それ以外の
選択はない。神社は、仏教に比べて宗派などが少なく、宗教性は少
ない。日本人の魂の拠り所のような感じがする。このため、仏教よ
り神社の方がいいと判断したのであろう。 
(294‐3天皇の戦争責任と靖国神社について・・干し柿仙人氏) 
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少なくとも孝明天皇のご葬式までは、天皇家は京都東山泉桶寺の檀
家で、紛れもなく敬虔な仏教徒であった。(歴代天皇の位牌群とと
もに、ひょとすると昭和天皇の位牌も同寺にあるのではないか)。 
白川神祇伯が、明治維新に味方した全国の神官をバックに「祭政一致」
の神道国家を主張し、それがあまりにも巨大な仏教勢力の抑えこみ
を計った明治政府の意図と合致して、神道国家が創られ、天皇家も
自動的に仏教から神道に改宗(?)された。 新井白石の進言による
久邇宮創家以前、ほぼすべての天皇家男子傍系は出家して門跡寺院
に入り、女系もまた尼門跡または寺院に嫁ぐこと多く、それは本願
寺大谷家に嫁した智子裏方にまで続く。換言すれば、伊勢神宮以外
にさしたる親姻戚関係を持たぬ天皇ご一家の係累にはいまなお圧倒
的に仏教の影が濃い、というべきであろう。 

たとい伊勢神宮と天皇家に千年の繋がりがあろうとも、そしていっ
けん日本人の心のよりどころが神社にあると見えたにしても、それ
はおそらく明治維新以後、きびしくいえば荒木軍人文相以来の、
ために作られた神道優先の思想政策の結末に他ならない。  
ほんとうの「日本人の心のよりどころ」は、おそらく重複宗教であ
ろう。伊勢参りの帰りに本願寺へ寄ってお賽銭を入れ、そしてクリスマス
や結婚式はキリスト教会で、というのは普遍的な「日本人の心」である。
信仰は唯一でなければならないという理論的根拠も法的規制も、い
まの成熟社会には存在しない。 われわれは、日本の社会がmulutiple
religionであることを、堂々と胸を張って世界に宣言する必要がある。
その時期は、いまやじゅうぶんきていると、考えていい。あれもこ
れも世界に認知された宗教をたくさん信仰することは誇りにこそなれ
、恥にはならない。バチカンも比叡山も共に宗教者会議をやっている時
代なのだ。 

先ずは天皇家に、正式のお寺参りをお勧めしよう。 手始めに、ご
先祖の命日に泉桶寺へお参りになり、それをTV新聞が大きく報じれ
ばいい。いまの天皇皇后がお寺参りを拒否されることはない。むし
ろ禁が解けてでホットし、喜んでお参りになるだろう。それをわれわれ
国民の殆どが知っている。 清心女学院ご出身の皇后が、たまにご
ミサにでも出席されたら、それも新聞テレビが、「敬虔な皇后」として
報じればよい。 

何ならついでに、靖国神社の隣りに「護国寺」を建立し、天皇が両
方にお参りになり、首相もそのお伴すればよい。 それで、いくら
か当座の批判はあるにしても、この宗教問題は骨抜きになるだろう
。いつまでもぐジグジと、天皇家には神道様式だけを強制し、歴代
首相が靖国神社に参るか参らぬかで議論している時代ではない。  
理解できぬがどうやら悪名高い「神道」らしい、大嘗祭黒ずくめの
天皇の衣装は、女王のjewelryに対抗するわが皇室の苦肉の演出かも
知れぬが、外に信者がいない神社神道が「いまなお危険」と世界に
PRした効果も考えねばならぬ。 

かくいうボクは、神主の代理ていどの所作が出来、祝詞も創れる。
カトリックは教会へ通って15年勉強したし、妙法蓮華経方便品第十二な
ら上げられる。 つまり、仏教と神道と、カトリックの敬虔な信者であ
ると自負している。宗教哲学も一通りは齧っている。それぞれの教
義に合わぬところがあるのは100も承知だが、それをとやかく論じ
ていたら、どの宗教もおかしな所へ迷いこんでしまう。 


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