287−2.知的アプローチと感覚的アプローチ



得丸氏の記事大変参考になりました。NO.274−3に対して

知的アプローチと感覚的(感情的)アプローチ、その両方を併せ持
ったアプローチと言うのが物事を理解、楽しむ為の方法としてある
と思います。

芸術にも同じことが言えるし、仕事にもあてはまると思っています。
しかしながら、物事によってどちらのアプローチに重きをおくかと
いう選択が必要になり、概して知的アプローチに重きが置かれてい
ます。

私は、怠慢な性分なため知的理解に基づいて物事に対処する態度に
かけているため、仕事で必要なものを除いては、知的アプローチの
ための勉強は極めて少ない人生を送っています。従って、何事につ
け知的アプローチの方法をとっている人との会話では、何かしら
劣等感を抱いてしまいます。しかし、知的アプローチをしている人
を羨むこともなく、またさげすむこともなく、ただその人のアプロ
ーチとして受け入れながら、自分の感覚的な生き方にも自信を持ち
、満足して生活していくことこそが、この人生の過ごし方ではない
かと考えるようになりました。

美術館へ行っても、音楽会へいっても、誰の絵か、誰の曲かではな
く、自分が好きか、楽しめたかが基本だと思います。どんなに高価
な美術品でも、惑わされることなく自分に訴えるものがなければ、
「あの絵はきらい」で終わってしまい、そのかわり、どんなに無名
の素人が書いたような絵でも「この絵は良い」として楽しんで行こ
う。

勿論、知的アプローチの方法を加味することによって、楽しみ方が
増加することはありますから、知的アプローチを否定するものでは
ありませんし、ある絵の背景、作者の生い立ち等を知っている人か
らの話を聞くことが無意味とは決して思っていません。しかし美術
とは、その作品が表しているものを見て、聞いて、自分がなにを感
じ、何を思い、どれほど心豊かになったかで楽しめば良いと思いま
す。他人と違った楽しみ方でもかまわない。ただ、有名な絵の作者
を知らなかったり、有名な曲の作曲家の名前を知らないと会話に入
れないことがあり、その為に勉強したりすることになります。でも
、そうすることによって本来の美術品を楽しむ、つまりその作品が
自分に訴えるものを楽しむというアプローチが、知的水準の高低を
他人と比較して、優越感に浸る楽しみ方に変わってしまう危険性が
多分に含まれています。

私はクリスチャンですので、聖書(神の言葉)に基づいて人生を送
りたいと念じているものです。しかし、この神の言葉への従順の仕
方でも、昔パリサイ人は、神が示した戒め(祭り事の手順、日常生
活におけるしきたり等々)を文字通り知的にとりあげてしまった為
、その根底に流れる神の御心から離れた人間の集団となってしまい
ました。

それを正したのがイエスキリストです。
聖書が必要なのと同様、素晴らしい美術品を見ることが出来る美術
館も必要です。しかし、そのアプローチを間違えば、聖書をいくら
読んでも、美術館に何回足を運んでも、その本質に触れることは出
来ないでしょう。その意味で現在の美術館での鑑賞するアプローチ
がおかしいとして、美術館はいらないと言うご意見にはうなづけま
す。

聖書を読むたびに新しい神の心を読み取ることが出来るようになる
のと同じように、何回も絵を見ることによって、その絵から新しい
ものを感じるようになるでしょう。有名、無名にかかわらず作者は
、見る人が心豊かになれば、そして自分の絵から何かを得てくれれ
ば満足するのではないでしょうか。

知的水準、暗記力を競う教育が主流の現在、感覚的アプローチの大
切さを訴えた今回のご意見にはうなづける点が多く感謝しています。

在ミシガン州バトルクリーク市 水田

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