278−2.文化の一般概念



1 「文化」の一般概念を語る必要性

文化や文明を論じる、それも一般概念として、標準的な意味付けを
試みることが何故必要なのか。

それは多くの人が文化や文明について混乱した概念を持っているた
めに、それらの本質を見失ってしまいがちであるからです。


(1)式年遷宮にみる文化と文明のダイナミズム

文化は、ひとりひとりの人間の意識の上に構築(あるいは着床、イ
ンストール、身に付く)されないかぎり、機能しません。

たとえば、20年ごとに行われる伊勢神宮の式年遷宮や春日大社の式
年造替は、ひと世代(30年)よりも短い期間に神社をいちど全部作る
(造り替える)ことによって、神社建築のノウハウを世代を超えて
伝えていこうとする素晴らしい智恵ではないでしょうか。

そこに伊勢神宮や春日大社があるだけではだめなのです。それらを
建築する技術が同時代の人間の中に獲得・蓄積されて、はじめて神
社は文化でありうるのです。生身の人間が、構造から細部にいたる
までの全工程を経験することによって、地震であろうと火事であろ
うと何が起きても神社は存在し続けることができるようになるので
す。

神社という建築物とそれを造る人間の技がダイナミックな関係性を
もっていることは、一見するかぎりはなかなか見えにくいですが、
伊勢神宮や春日大社で行われている営みを丁寧に観察すれば、容易
に理解できます。

このきわめてダイナミックな関係性こそが、文明と文化の相互関係
の好例であり、人間というもののはかなさを知っていた日本人がい
にしえより実践していた智恵なのではないかと思います。


(2)無垢に生まれる人間に文化がインストールされる

人間は文化を持たずに生まれてきます。パソコンで例えるならば、
ハードディスクが新品で何のソフトウエアもインストールされてい
ない状況です。

おぎゃーと生まれてから、もしかすると母の胎内にいるときから、
その無垢の心(意識+無意識)の上に、ブランクのハードディスクの
上に書き込みが始まります。それぞれが文化です。

言葉、お片付け、礼儀作法、読み書き、計算、道徳、祭りの踊りと
お囃子、稲作、裁縫、炊事、洗濯、掃除、、、、 

これらはすべて生後身につけられていくもの(文化)です。パソコ
ンショップで買ってくるソフトウエアも、実際にインストールをし
ないことには機能しないように、文化は人間に身につけられること
によってはじめて機能します。

ハウツー本がいくらたくさんあっても、具体的に誰かがそれを実践
しないことには、なにひとつ始まりません。


(3)手に職を付けることの難しい現代

社会環境や家庭環境の変化によって、文化の刷り込みが十分行われ
ていない人間が増えています。これは日本に限った話ではありませ
ん。ヨーロッパでも役立たずな若者が増えています。

これはもちろん若者だけの責任ではありません。工業化による大量
生産や、数値制御(NC)技術によって、かつては職人が行っていた仕
事の多くが、機械にとってかわられたのです。

これを逆手にとって、人間の暖かみのする手づくりの食品や家具を
作る人もいます。観光地で人力車を曵いている人もいます。ただも
の珍しさだけで勝負していると、長続きしないのではないでしょう
か。サバイバルのためには工夫が必要でしょう。

こどもたちが将来なりたい職業として、大工さんをトップにあげた
り、カリスマ美容師や鉄人料理人がもてはやされているのも、われ
われが職人として生きることができない世界、文化喪失の時代を生
きているからかもしれません。

文化獲得が十分行われていない人間は、ひと様のお役に立たない、
役立たずな存在になります。昔の人はよく「手に職つけろ」といっ
て、何か食べていくための技を身につけるようしつけていました。
しかし今は何をすれば食べていけるのかが明確ではない時代です。

これは世界人類に共通の不安ではないでしょうか。21世紀の文明は
地球規模の空間でしか存在しえないと思います。だけどまだ文明と
しての一体感、息吹きは感じられませんが。

目標が見えないからといってあせったり、自暴自棄に陥ってはいけ
ません。カラオケやパチンコやテレビゲームで遊んでばかりではい
けません。外部の刺激や装置に依存する遊びは、自分の中に何も残
しません。何も構築しません。心が畏縮します。テレビゲームはや
めましょう。

自分自身の中に、何かを構築する必要があるのです。それは、自分
で考え、自分で体を動かし、時間をかけて、いい先生について習得
するものです。それが文化です。

文化(culture)の原義は、耕す(cultivate)という動詞です。自分の
心を耕すのです。土地と同じように、ちゃんと耕して、肥料も与え
て、時期を見計らいながら、手入れも怠らず、自分の中で生きてい
くための技を育てるということが必要なのではないでしょうか。

それぞれの人間が自分の得意技を磨いて、世界人類のお役にたつよ
うになればいいと思います。こんな時代でも、こんな時代だからこ
そ、一生懸命考えて切磋琢磨すれば、かならず道は開けると思いま
す。


(4)文化財・文化遺産と文化は別

文化は個々の人間の心である、という言い方をすると、じゃあ美術
館に収蔵されている沢山の美術品は文化ではないのか、アンコール
ワット遺跡は文化ではないのか、と思われる方もいるのではないで
しょうか。

文化はあくまでひとりひとりの人間の心と考えていただいて構わな
いでしょう。美術館に収まっている作品は、文化の産み出したもの
であって、文化財と呼ぶのが相応しいと思います。

アンコールワットやボロブドールの古代遺跡は、伊勢神宮や春日大
社のように、かつては文化によって支えられていたものが、誰も支
えられなくなって廃虚になってしまったものでしょう。文化財なり
文化遺産と呼ぶことは可能でしょうが、文化そのものと呼ぶのは語
弊があるのではないでしょうか。

廃虚となった遺跡は、文化の過去形です。今もなお20年おきに建て
替えられている伊勢神宮や春日大社は、古代以来の智恵によって文
化の現在形、あるいは現在進行形であり続けているのではないでし
ょうか。


2 文化のシグマ関数としての文明

長くなったので、文明については改めて議論したいと思います。

ただ、文化を前項のように議論する場合、文明は文化のシグマ関数
(総和)として姿を表すのだと思います。

それぞれの人間が、自分の個性や特性を生かしながら精一杯文化的
に生きると、その多様性が全体として文明を構築するのではないか
と思います。

その文明の中で、次の世代の子供達があまり悩むことなく、迷うこ
となく、文化構築できるといいですね。
(得丸久文、2000.08.31)

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