274−3.もう美術館はいらない



私が主宰している鷹揚(おうよう)の会という読書会は、月に一
回読書会を開いています。報告者が本の内容や感想をまとめてき
て、それを聞いた後でみんなで議論するというシンプルなもので
す。八月は、久我なつみ著「フェノロサと魔女の町」(河出書房
新社)を取り上げました。

フェノロサは、明治期の日本にやってきて、日本人が顧みていな
かった日本の美術品を『発見』し、師として岡倉天心を育てたこ
となどで、今も日本人の間では知られています。

この本は日本では有名なフェノロサが、生まれ故郷のセーラムで
はまったく忘れ去られた存在であることの謎を解き明かそうとし
ます。

本の主題とはそれますが、私はこの本を読んで、日本美術はフェ
ノロサによって『発見』されないほうがよかったのではないかと
思いました。どうしてそう思ったかをこれからご説明したいと思
います。

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旅行ばかりしているようでお恥ずかしいのですが、今年の二月に
前の会社での最後の出張でコペンハーゲンに行ったときのことで
す。(私はこのとき出張のついでに、デンマーク工科大学で仕事
で付き合いのあった教授らを聴衆として、「吉田松陰と仁智勇」
についての講義を英語でさせてもらいました)

全ての仕事が無事に片付いて帰国する日の朝、あまりに天気がよ
かったので、午後四時の東京行きを待つ間、ホテルで自転車を借
りて、市内をサイクリングすることにしました。

気の向くまま、地図を見ないで、曲り角ごとに曲がる方向を選ぶ
というのが私の得意の彷徨(さまよ)いモードです。私の経験に
よればガイドブックにのっている場所を点から点につなぐよりも、
彷徨いモードのほうが、面白いものに出会えるし、自分の感性も
磨かれます。

ぶらぶら走っていたら、大きな建物があって、そこは国立美術館
でした。で、せっかく辿り着いたのだから入ってみました。

別館の現代美術のコーナーは、完成して1年ほど。展示されてい
る絵画にはあまり興味をそそられなかったのですが、しばらく歩
いていると、展示スペースの壁の前に、台車が一台あって、荷台
に布切れと石膏の固まりがのっかっていました。はたしてこれは
展示物なのか、それとも作業中なのか、、、、、ちょっと悩みま
した。

ためしに台車をぐるぐる回してみると、もちろん動きましたし、
学芸員が注意しに飛んでくるということもありませんでした。で
も、最初に置いてあった位置が一番絵になったのです。ウーン。

結局それが作品なのか単なる台車なのかはわからずじまいでした。
でも、面白い経験をしたと思っています。


「もう美術館の時代は終わった。」と荒川修作さんが言ったこと
の意味が少し実感できた気がしました。

美術館の決定的な問題は、見る者と見られる物との関係性が固定
化されることではないでしょうか。観客は、ひたすら自分の眼を
使って、作品(美術品)を見て廻る。作品には指一本触れてはい
けないのです。壁の展示スペースに、部屋や他の家具調度品との
調和も一切顧みられないままに、これでもかこれでもかと絵や彫
刻ばかりが並べたてて、観客にありがたがるように強要している。

観客は、「あ、この絵知ってる」、「この画家有名だよね」とい
った言葉を吐くか、あるいは言葉もなくただただ生まじめな顔を
して、作品の前を歩いて回る。こんなことが文化的な、つまり文
化を生む、文化を育てる行為でしょうか。

美術館があるから、人々は生活を美しくしようと思わなくなった
のではないか。美術館が人々のセンスを台なしにしているのでは
ないか、と思いました。美術館の存在そのものが、人間の生活を
貧しくしていると。

美術館なんか行かなくても、日々の生活を美しくしなくてはなら
ない、毎日の人生を美しくするよう心がけなくてはならない。

美術館なんて、王侯貴族が金にあかせてかき集めた収蔵品を、そ
れらの品々を生活の中で使いこなそうなんて思ってもいない一般
庶民が拝んで有り難がる場所です。権力者を権力の座から引きず
りおろしたことを確認するために、存在し始めたのではないでし
ょうか。

どんな立派な茶碗も、お茶を飲むために使わないかぎり無用です。
お茶を飲まないのに、茶碗を有り難がるという精神こそが、恥ず
べきものであり、人生を芸術的にすることからもっとも遠いとこ
ろにあるのではないかと思います。

国立美術館の旧館(本館)には、いろいろな絵画が展示されてい
ましたが、私は居心地の悪さを感じ、横目で展示品を見つつ、歌
舞伎役者が体を斜にしたまま舞台から消えるように、ツツツツツ
ーと部屋から部屋へと小走りに移動しました。

すると、血相を変えた学芸員が、私と同じ速さで、部屋から部屋
へと追いかけてくるのです。もちろん特段悪いことをしていない
のだから、むこうは私に何も言いません。しかし万が一この変な
東洋人がおかしなことをしてはと思ったのでしょう。彼の顔は真
剣でした。そして私が展示室から出ると、ほっとしていました。

新館の台車は、やはり作業中だったのかもしれません。

 たいへん残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほ
ど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。こ
のわれわれの民主主義の時代には、人びとは自分の感情を
顧みることなく、世間一般がもっともよいと見倣すものに
喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであ
って、風雅なものではない。当世風のものであって、美し
いものではない。、、、
 大衆にとって、、、作品の質よりも芸術家のなまえのほ
うが大事なのだ。
(岡倉天心『茶の本』桶谷秀昭訳、講談社学術文庫より)

フェノロサが日本の浮世絵や工芸品を美術品として認めたことに
よって、それまで日本人の生活の一部であった浮世絵や工芸品は、
日本人の生活の外へ去っていってしまったのではないか、という
のはちょっと大袈裟かもしれませんが、美術品というカテゴリー
を知らないほうが、日本人の生活は豊かで美しかったのではない
かと思います。
 
得丸久文(2000.08.23)

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