272−2.「ボーダーレス時代の行動哲学」における『多様性』



「ボーダーレス時代の行動哲学」における『多様性』について
お考えをお聞かせ下さい、というご質問をいただいていました。
以下は行動哲学(文化)というよりは、環境(文明)論的な感
想ですが、、、

1 木や草の多様性

昨年10月、学会が函館・大沼であり、余った時間を利用して、
ホテルの自転車で紅葉の始まったばかりの大沼の回りをひと周
りしました。

大きさも種類も異なる、赤や、黄色や、緑の木々、野の草たち
の中をサイクリングしているときに、『多様性は力なり』とい
う言葉が思い浮かびました。自然の中で植物がそれぞれ精一杯
に生きている力が、総合されて全体として美しい力を感じさせ
てくれたのだと思います。

これは街中の並木道でも同じです。桜並木は春の花の季節だけ
美しいですが(富山市内でいうと松川べり)、さまざまな木々
のうわっているところは(富山市内でいうといたち川沿い)、
一年中面白い。森林でも単相林よりは雑木林のほうが楽しい。

2 踊りの多様性

人間でも同じだと思います。一糸乱れぬマスゲームは、人間を
部品として使っており、美しさの中にどこか冷たさなり非人間
性を感じます。一方、阿波踊りのように、各人が、あるいは各
社中が、それぞれに心を込めて自由な踊りを踊っている場合は、
見ていてかえって落着きます。

これは一概には言えないことかもしれませんが、私が思うには、
人間を部品扱いするマスゲームと、阿波踊りでは、個々の人間
の心が畏縮しているか、いきいきと躍動しているかどうかの違
いもあるのではないでしょうか。

3 街の多様性

街づくりでも、公団住宅や市営住宅のように、お役所仕事のや
っつけで、よく考えることなく建物を並べてしまうと、単調で
寂しい感じの街が出来上がります。道もまっすぐなものばかり
だと、歩いていても疲れます。

昔の城下町は、わざと複雑な形で道をつけて、またまっすぐ続
いているように見せかけて実は曲がった道を作ったりして、敵
が攻めてきたときに迷いやすいようになっています。

長年そこに住んでいる住民は迷いませんが、旅行者は迷ってし
まいます。でも、そのような道のほうが面白い。

荒川修作が設計した岐阜の養老天命反転地には、まっすぐな線
や平たんな場所はいっさいありませんが、そこは、はじめて訪
れた人間になつかしさを感じさせます。訪れた人間の心をやす
らげます。

自然界を見ればわかりますが、直線こそが不自然です。木一本
とってもそれぞれに個性があり、多様性を構成しています。そ
のごく当たり前のことが、現代社会では忘れられている。傲慢
な人間は、安直に直線をひいて、自然を切り取ろうとする。

都市計画者や土木会社の人たちが、直線で街を設計することは、
極めて不自然なことであり、そこに住む人間の心を傷つけたり、
ゆがめる可能性もあるということを、肝に銘じてもらわなけれ
ばなりません。神戸のサカキバラ少年の意識だって、彼の住ん
でいた街の中で形成されたことは間違いないことですから。

4 多様性の根底にあるもの

多様性とは、バラバラということではありません。人間社会で
いえば、それぞれが一生懸命に自分の人生を生きること、社会
がよくなるように考え行動することが前提になければなりませ
ん。

生活態度や気持ちはひとつですが、人間にはひとりひとり個性
がありますから、実際の行動や表現は異なってきます。心がひ
とつになっていて、その上でそれぞれに一生懸命な行動や表現
が寄り集まると、ごく自然に多様性が体現されるのではないで
しょうか。

奈良市にある大倭(おおやまと)紫陽花邑(あじさいむら)と
いう宗教法人は、ひとりひとりの能力や個性を尊重したうえで、
ひとつの共同体として生きることを実践しています。紫陽花の
ように、たくさんの花が様々な色を出しながら、一本の木の上
で調和することをイメージして紫陽花邑と名付けられたそうで
す。

(この邑のことは、真木悠介「気流の鳴る音」で紹介されてお
り、私も一度訪問したことがあります。なんの変哲もない、ご
くごく普通の共同体の様相でした。そこがいいのですね。)

この国際戦略コラムも、多様性を保ちながら調和して、長く続
くといいですね。
得丸(2000.08.23)

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