「ボーダーレス時代の行動哲学」における『多様性』について お考えをお聞かせ下さい、というご質問をいただいていました。 以下は行動哲学(文化)というよりは、環境(文明)論的な感 想ですが、、、 1 木や草の多様性 昨年10月、学会が函館・大沼であり、余った時間を利用して、 ホテルの自転車で紅葉の始まったばかりの大沼の回りをひと周 りしました。 大きさも種類も異なる、赤や、黄色や、緑の木々、野の草たち の中をサイクリングしているときに、『多様性は力なり』とい う言葉が思い浮かびました。自然の中で植物がそれぞれ精一杯 に生きている力が、総合されて全体として美しい力を感じさせ てくれたのだと思います。 これは街中の並木道でも同じです。桜並木は春の花の季節だけ 美しいですが(富山市内でいうと松川べり)、さまざまな木々 のうわっているところは(富山市内でいうといたち川沿い)、 一年中面白い。森林でも単相林よりは雑木林のほうが楽しい。 2 踊りの多様性 人間でも同じだと思います。一糸乱れぬマスゲームは、人間を 部品として使っており、美しさの中にどこか冷たさなり非人間 性を感じます。一方、阿波踊りのように、各人が、あるいは各 社中が、それぞれに心を込めて自由な踊りを踊っている場合は、 見ていてかえって落着きます。 これは一概には言えないことかもしれませんが、私が思うには、 人間を部品扱いするマスゲームと、阿波踊りでは、個々の人間 の心が畏縮しているか、いきいきと躍動しているかどうかの違 いもあるのではないでしょうか。 3 街の多様性 街づくりでも、公団住宅や市営住宅のように、お役所仕事のや っつけで、よく考えることなく建物を並べてしまうと、単調で 寂しい感じの街が出来上がります。道もまっすぐなものばかり だと、歩いていても疲れます。 昔の城下町は、わざと複雑な形で道をつけて、またまっすぐ続 いているように見せかけて実は曲がった道を作ったりして、敵 が攻めてきたときに迷いやすいようになっています。 長年そこに住んでいる住民は迷いませんが、旅行者は迷ってし まいます。でも、そのような道のほうが面白い。 荒川修作が設計した岐阜の養老天命反転地には、まっすぐな線 や平たんな場所はいっさいありませんが、そこは、はじめて訪 れた人間になつかしさを感じさせます。訪れた人間の心をやす らげます。 自然界を見ればわかりますが、直線こそが不自然です。木一本 とってもそれぞれに個性があり、多様性を構成しています。そ のごく当たり前のことが、現代社会では忘れられている。傲慢 な人間は、安直に直線をひいて、自然を切り取ろうとする。 都市計画者や土木会社の人たちが、直線で街を設計することは、 極めて不自然なことであり、そこに住む人間の心を傷つけたり、 ゆがめる可能性もあるということを、肝に銘じてもらわなけれ ばなりません。神戸のサカキバラ少年の意識だって、彼の住ん でいた街の中で形成されたことは間違いないことですから。 4 多様性の根底にあるもの 多様性とは、バラバラということではありません。人間社会で いえば、それぞれが一生懸命に自分の人生を生きること、社会 がよくなるように考え行動することが前提になければなりませ ん。 生活態度や気持ちはひとつですが、人間にはひとりひとり個性 がありますから、実際の行動や表現は異なってきます。心がひ とつになっていて、その上でそれぞれに一生懸命な行動や表現 が寄り集まると、ごく自然に多様性が体現されるのではないで しょうか。 奈良市にある大倭(おおやまと)紫陽花邑(あじさいむら)と いう宗教法人は、ひとりひとりの能力や個性を尊重したうえで、 ひとつの共同体として生きることを実践しています。紫陽花の ように、たくさんの花が様々な色を出しながら、一本の木の上 で調和することをイメージして紫陽花邑と名付けられたそうで す。 (この邑のことは、真木悠介「気流の鳴る音」で紹介されてお り、私も一度訪問したことがあります。なんの変哲もない、ご くごく普通の共同体の様相でした。そこがいいのですね。) この国際戦略コラムも、多様性を保ちながら調和して、長く続 くといいですね。 得丸(2000.08.23)